手紙
ふと思いついてしまったお話。
チクタク、チクタク……。
真夜中と早朝の合間、静かなリビングに時計の音が響いている。
この音が好きだと、博士は言っていた。
今どき、こんなアナログな時計なんて他では見ない。皆、ディスプレイやホロに表示されるものばかり。
毎日ぜんまいを巻いてやらねば動かない、そんな時計を博士は愛していて。
そんな博士のメイドをやっている私は、止まらぬように毎日時計のぜんまいを巻く。
ほんの僅かな時間しか動けない私に、最後まで残った仕事の一つだ。
『いつもありがとう。
スープもとても美味しかったよ。
そろそろ霜が降りる頃だから、植木鉢は家の中に入れたよ』
机には、いつもと同じようにメモが置いてあった。
博士の少し筆圧が強く、癖のある文字で綴られた、短い手紙。
私はそれをエプロンのポケットにしまい、眠っている博士の様子を確認する。
心拍……異常なし。血圧も、異常なし。呼吸も乱れていない。
とても穏やかな寝顔をしている。
その顔をメモリーに保存して、私はまた動き出す。
メモにあった植木鉢を確認し、鉢の周りについていた泥を拭きとり、床を掃除する。
周りも確認して磨き上げ、その次はキッチンだ。
スープを美味しかったと言ってくれたから、温かい物が食べたいのだろう。
メモリーから博士の好みを確認し、昨日とは違った食材でスープを作る。
同じメニューでも、これなら栄養バランスが崩れないはずだ。
そうしているうちに、時間がくる。
きしきしと音を立てながらリビングへと向かえば、あの時計のぜんまいを巻……。
「おはよう、このねじは私が巻いておこう」
低く少し掠れた優しい声。
じじじじじ、と、ぜんまいを巻く音が響く。
少しの時間止まっていた時計がまた動き出す。
チクタク、チクタク……
いつもの音がリビングを満たした。
ぜんまいを巻く姿勢で固まっているメイドロボを抱き上げて、博士は椅子に座らせる。
首にあるコネクターにコードを差し込み、しっかり充電されていることを確認すれば、その頭を何度か撫でた。
「お前は相変わらず律義だね」
メイドロボのエプロンに自分が書いたメモが入っているのを見つけ、苦笑する。
そうして、うんともすんとも言わない置物になった彼女の向かいの席で、博士は今日も自分のために用意されたスープを食べるのだ。
昔は、博士が起きている時間帯にメイドロボも動いていた。
亡き妻に似せて作ったロボットは、亡き妻に似て慎ましやかで気遣いもでき、そして几帳面な性格だった。
博士の研究を邪魔せぬようにと朝早くから動き出し、静かに静かに世話を焼く。
そして、博士が起きて研究を始めれば、そっとその横に控え、秘書のような役割までこなしてくれた。
亡き妻にそっくりなそのメイドロボに、知人の中には眉をひそめる人もいた。
博士の悲しみを思って、心配する人もいた。
そうして、長い時間が過ぎた。
昔は人型ロボットの第一人者として知れ渡っていた博士の名もいつの間にか忘れ去られ、博士の小さな研究所にやってくる人も段々に減っていった。
仕事の依頼も次第になくなり、今ではたった一つを残すだけ。
それも言ってみればお義理のようなもので、博士を心配する息子が、ここに会いに来る口実をつくるためのものだった。
博士は昔のように必死に働く必要もなくなり、メイドロボが秘書の仕事をする必要もなくなった。
……その頃から、メイドロボは少しずつ動ける時間が短くなり始めた。
おそらく内部の回路が一部おかしくなっているのだろう。
開けて修理すれば直るかもしれないが……博士はそのままにすることを選んだ。
チクタク、チクタク……。
椅子に座った状態で覚醒する。
まだ暗い。いつもと同じ時間。
仄かに残る珈琲と煙草の香り。
お医者さんからダメだと言われていたのに昨日の博士は煙草を吸ったようだ。
きしきしと音をさせながら立ち上がり、時計を確認する。動いている。ぜんまいを巻くのは後で大丈夫だろう。
それよりも煙草を吸ったのなら床を掃除をしなくては。
博士は研究以外はとても大雑把で、灰が多少零れていても気にしない。
そのままにしておくと更に汚れてしまうし、煙草の灰は体に良くないとお医者さんが言っていた。
ことり、と、音がした。
「……あぁ、済まない。掃除は良いからこちらにおいで」
植木鉢を置いたサンルームから、声がした。
「は……カ……she……?」
長く使っていなかった喉のスピーカーからは、じじっとノイズ交じりの音しか出なかった。
流暢に話せていた昔と違い、ぎこちなく、人の声をもう模すこともできない機械的な音。
それでも博士はこちらを向いて微笑んだ。
「ド……うshiて、起キてらっshyaるのでsuカ?」
「こんな時ぐらいお前と話をしたくてね」
サンルームに置かれた籐の椅子から、ゆっくりと立ち上がった博士はメモリーの中の姿よりも痩せこけ、小さくなっていた。
食事の量が足りていなかっただろうか、何か私が知らぬうちに病気にでもなっていたのだろうか。
ここ何年かのメモリーを遡り確認しようとすれば、それを止めるように博士が手招きする。
私は手にしていた掃除道具を置いて、きしきし、よろよろと博士へと近づく。
「今日……いや、もう昨日のだな、スープもとても美味しかったよ」
「……」
「いつも、家事をしてくれてありがとう。私はその辺はさっぱりだからね。とても助けてもらった」
ぎこちなくしか歩けない私を包むよう抱き止めて、博士はゆっくりゆっくりと話す。
内容はいつものメモとほとんど同じ。
掠れた低い声は、まるで無機質な私の体に染み込むようだった。
その話を聞きながら、私の目であるカメラが籐のテーブルに飲みかけの珈琲のカップと、灰皿を見つけた。
博士は、どうやら私と話をするために、もう長く止めていたその二つを摂ったようだった。
「あぁ、ここのところ傷がついてしまっているね。困っていたのではないかい?」
手についた傷に博士が顔を顰める。私は慌ててきしきしと音をさせながら首を横に振る。
いつも洗い物をする時には、いつからか用意してあったゴム手袋をしていたから、そこから水が内側に入り込む心配はなかった。
私が首を振るのを見て、博士はそうかと頷く。
「そうしたら、最後のお願いを聞いてくれるかい?」
「saイご……」
「あぁ、もうこれが最後だ」
その響きに、私の思考回路は止まりかける。
「ホん……とウ……に、saイご……?」
「あぁ」
博士が穏やかな顔で私を見つめる。
とても幸せそうで、満ち足りた目をしていた。
掠れた優しい声が囁いた言葉を、私は壊れたスピーカーで復唱する。
それを聞いて、博士が頷いた。
頷いて、ゆっくりと崩れ落ちる。
はじめは抱きしめていた私に縋りつくように。
そして、その手から力が失われ、ずり落ちていく。
支え切れなかった私は、博士と一緒に膝をついた。
そうして、ゆっくりと温もりを失っていく体を抱きながら、最後のスリープに入る。
チクタク、チク……タク……。
遠く、時計の音が途切れていった……。
博士の亡骸と、それに寄りそう動かなくなったメイドロボを見つけたのは、博士の息子だった。
朝のまだやっと日が昇ったぐらいの時間、まるで目覚まし時計のように鳴ったコール音。
確認すれば、滅多にないところからメッセージが来ていた。
『博士からのお手紙を預かっています』
まるでごく日常から交わしていた業務連絡のような一文だけのメッセージ。その送信元は壊れかけたメイドロボ。
慌てて駆け付けた先、温かな午前中の日差しの入るサンルームで、まるで二人、遊び疲れて眠ってしまった子供のようだった。
メイドロボのポケットにはたくさんのメモが入っていた。
どれも、ありがとうの言葉で溢れている。
街に降りてこなくなった父を心配して、週に一度食材を届けていたのは息子だ。
その食材を上手く調理できるようメイドロボのためにレシピを用意していたのも、手の傷を見つけてゴム手袋を用意したのも、大事にしている植物の植木鉢をそろそろ屋内に入れた方がいいと教えたのも。
「これは、お前が持っていっていいからね。見せてくれてありがとう」
息子はメモを一つずつ読み、またメイドロボのポケットへと戻した。
もう、時計の音はしない……。