第百十八話:故郷実家の怪異
二人が向かったのは、東京から電車を乗り継ぎ、数時間かけてたどり着いた、群馬県沼田市だった。
高梨家は、この土地に古くから根付く一族だった。戦国時代、河岸段丘という、天然の要害に守られた沼田城。その城主であった真田家に仕えた、武家の一族の末裔―――それが、ユウマの家系であった。
明治大正~昭和に至っては、米農家と養蚕で生活をしていたが、曾祖父の代から親族兄弟が離散して、残された父・高梨宗一郎が、歴史や民俗学に深く傾倒し、やがて八咫烏という闇へと足を踏み入れたのも、この真田の歴史と、山々に囲まれた特殊な地理的要所が、十分すぎるほどの動機となっていた。
「…久しぶり、だね。この空気」 沼田駅に降り立った玲奈が、東京とは明らかに違う、澄んだ、少し冷たい空気を深く吸い込んだ。
「ああ…。なんか、変わってねぇな」 ユウマも、目の前に空が広い、時代に取り残された長閑な広がる河岸段丘の独特な風景を見渡す。
関東にありながら、「秘境グンマ」だの「未開の地」だのとネットで面白おかしく言われ、秘湯や登山のイメージばかりが先行する故郷。大学進学を機に二人で上京してからは、東京での刺激的な生活が楽しく、こうして足を向けることは、ほとんどなくなっていた。
だが、中華英雄との死闘、崩壊した都庁、そして、父の不吉な予告。 あの非日常の極みを経験した後で、この変わらない故郷の空気に触れると、ユウマも玲奈も、忘れていた何かを思い出すような、不思議な安堵感を覚えていた。
「…行こうか。俺んち」 「うん」
二人は、全ての始まりであり、原点として何かしらの秘密がある可能性がある、高梨の実家へと、ゆっくりと歩き出した。
「…ここだよな。俺んち」 「うん。変わってないね、門構え…」
高梨家の実家は、武家の末裔という出自を静かに示すかのような、古風だが、不思議と手入れの行き届いた日本家屋だった。ユウマは、懐かしさよりも、むしろ、これから父の痕跡と向き合わねばならないという緊張感で、深呼吸をした。
彼が、玄関の引き戸に手をかけようとした、その時。
ガララ、と。戸は、内側から開けられた。 そこに立っていたのは、優しい笑みを浮かべた、一人の女性だった。
「おかえりなさい、ユウマ。…あら、玲奈ちゃんも、久しぶりね」
その声を聞いた瞬間、玲奈は、息を呑んだ。 「…おば、さま…?」
ユウマもまた、その場で凍り付いていた。 目の前に立つ女性。記憶の奥の奥底、おぼろげにしか残っていないはずの、温かい笑顔。 「…おふくろ…?」
二人は、弾かれたように、互いの顔を見合わせた。 その表情は、喜びや懐かしさではない。ただ、あり得ないもの、存在するはずのないものを前にした、純粋な「驚愕」と「混乱」に染まっていた。
無理もなかった。 高梨ユウマの母親は、彼がまだ物心つくかつかないかの、幼少期に、病気で亡くなっている。それは、玲奈も知っている、動かしようのない事実だった。
だが、今、二人の目の前で、穏やかに微笑んでいる女性は。 ユウマが、そして玲奈も、この家の仏壇で、手を合わせるたびに見てきた、あの「遺影」の姿、そのものだったのである。
なぜ、死んだはずの母が? なぜ、玲奈まで知っている彼女が、まるで、ずっとここに居たかのように? 二人は、この不可解な現実―――存在するはずのない母が、当たり前のようにこの実家に「住み着いていた」という事実に、言葉を失うしかなかった。




