第百六話:八陣図・絆の道標
脇腹の痛みに顔を歪めながら、ユウマは桜親の肩を借りて、無機質な石造りの回廊を彷徨っていた。
「こっちだ…微かに、玲奈の宝玉の力を感じる…」
「うん、私も感じるよ…信じよう、ユウマ君」
だが、二人がどれだけ進んでも、景色は変わらない。
ユウマは、最後の頼みの綱であるスマートフォンを掲げ、必死に実況を続けていた。それが、視聴者という、この迷宮の外にいる唯一の目との繋がりだったからだ。
コメント欄は、もどかしさと苛立ちで溢れかえっていた。
『何でそっちに行くんだ!逆だ逆!』
『さっきから同じとこぐるぐる回ってるだけじゃねーか!気づけよ!』
『玲奈ちゃん、すぐ近くの通路にいるぞ!壁一枚挟んでるだけだ!』
『馬鹿野郎!声出せよ!叫べば聞こえる距離だろ!』
「…なんだって?」
コメントを読んだユウマは、ハッとした。自分たちは、孔明の術中に嵌り、すぐ近くにいるはずの玲奈に、気づくことすらできずにいたのだ。
「―――玲奈ァァァァァ!!どこだ!返事をしてくれ!」
ユウマは、ありったけの声を張り上げた。
その声は、確かに玲奈に届いていた。だが、幻覚に囚われた彼女の耳には、それは最も聞きたくない、裏切りの声となって響いていた。
『…もう、お前のことなんか、気にしない…』
『うるさいな…あっちへ行けよ…』
優しかったはずのユウマの声が、冷たく突き放す刃となって、玲奈の心を突き刺す。
「ひどい…」
玲奈の瞳から、涙が溢れ出す。
「ユウマなんか…嫌い…!大嫌い!!」
その、悲痛な叫び声は、幻覚ではなかった。本物の、玲奈の魂の叫びだった。
「…今、聞こえたか?」
「うん…玲奈ちゃんの声!」
その声がした方向へ、二人は最後の力を振り絞って走る。壁を回り込むと、そこに、うずくまって泣いている玲奈の姿があった。
「玲奈!」
ユウマが駆け寄る。だが、顔を上げた玲奈の瞳は、まだ絶望の幻に囚われていた。
「…ユウマ…。私のこと、もう、キライなの…?」
その、あまりにもか弱く、悲しい問いに、ユウマの中で、何かが弾けた。
「んなわけあるか!」
彼は、玲奈の両肩を掴む。
「く…っ…好きに決まってんだろ!目を覚ませ、玲奈!」
ユウマは、迷わず、その唇を玲奈の唇へと重ねた。
その瞬間、玲奈の全身を、温かい光が包み込んだ。彼女の瞳から、悪夢の幻影が消え去り、現実のユウマの姿が、はっきりと映る。
そして、彼女の胸で、完全に覚醒した【伏】の宝玉が、太陽のような輝きを放った。
ユウマと玲奈の絆が生み出した【伏】の宝玉の光は、絶対的な知略の迷宮「八陣図」を、暖かく、そして優しく照らし出していった。その光は、悪夢に囚われた仲間たちの魂へと、直接語りかける。
「お前の正義は、自己満足なんだよ」
幻影のユウマが突きつけた、最も聞きたくなかった言葉。犬川星荘は、その場に膝から崩れ落ち、自らの槍を見つめていた。私の【義】は、ただの独りよがりだったのか。親友を苦しめ、想い人を遠ざけるだけの、重たいだけの力だったのか。
彼女の心は、完全に折れかかっていた。
その、冷え切った心に、ふわり、と温かい光が差し込んだ。
それは、玲奈の、そしてユウマの、絆の光。
『―――ほしなちゃん』
幻聴ではない。魂に直接響く、玲奈の声。
『―――あなたの正義が、いつも、私たちを護ってくれてたよ』
(…ああ、そうか)
ほしなは、ゆっくりと顔を上げた。
(私の【義】は…ユウマ君に認められるためのものじゃない。桜親ちゃんより、上に立つためのものでもない)
彼女は、強く、槍を握りしめた。その穂先に、再び、義の星の輝きが宿る。
「―――私の【義】は!仲間を、この国を護るための、私の誓いだ!」
その魂の叫びと共に、彼女の全身から、迷いを断ち切る金色のオーラが迸る。目の前にいた、ユウマとさくらの冷たい幻影は、その気高き光の前に、悲鳴を上げる間もなく霧散した。
「待っていて、みんな。今、助けに行く…!」
彼女の瞳には、もはや一片の迷いもなかった。
「我が二天一流の名を汚す、出来損ないよ」
憧れの祖、宮本武蔵その人から突きつけられた、存在そのものの否定。宮本飛鳥は、完全に自信を失い、木刀を握る力さえも失っていた。孤高こそが、最強への道。仲間と群れる自分は、ただの弱者でしかないのか。
その、凍てついた孤高の世界に、玲奈の光が、そっと触れた。
それは、誰かと繋がるという、飛鳥がこれまで感じたことのない感覚。一人ではない、という温もり。
(…なんだ、この感覚は)
その温もりは、彼女に、巌流島での戦いを思い出させた。
確かに、自分一人では、あの妖猿には勝てなかった。だが、八犬士と共闘した時、自分の剣は、決して鈍ってはいなかった。むしろ、護るべき仲間を得て、その一振りは、これまで以上の鋭さを増していたはずだ。
(そうだ…)
飛鳥は、目の前の武蔵の幻影を、真っ直ぐに見据えた。
(御先祖様。あなたの歩んだ道は、確かに一つの極地。だが、道は、一つではない!)
彼女は、再び、木刀を拾い上げる。その構えは、もはや武蔵の模倣ではない。仲間との共闘を経て、進化した、彼女自身の「二天一流」。
「兵法は、千変万化!我が剣の道は、わし自身が切り拓く!我が剣に、迷いなし!」
彼女から放たれる闘気は、もはや幻影が作り出した偽りの「武蔵」が太刀打ちできるものではなかった。幻は、その圧倒的なまでの武威の前に、静かに消え去った。
「…行くか。我が新たな弟子たちの元へ」
その口元には、孤高の剣士ではない、頼れる「師」としての、不敵な笑みが浮かんでいた。




