第百四話:諸葛孔明の迷宮の罠
武神・関羽が去り、呂布も得物と戦力バックアップを失い一時の撤退をする。
新宿の戦場に、しばしの静寂が訪れた。誰もが、これで戦いは終わったのだと、安堵の息をつこうとした、その時だった。
『―――これで、終わると思いましたか?』
戦場に響き渡る、諸葛孔明の、どこまでも冷静で、どこまでも冷徹な声。
伊賀九曜衆に追い詰められていたはずの彼女だったが、その声に、焦りの色は一切なかった。
「まずい!全員、散開しろ!」
服部夜刃の警告は、しかし、遅すぎた。
孔明は、その手に持った羽扇を、ゆっくりと、しかし大きく、一振りした。
「―――『東南の風』ははは…風を読み天候を支配し、世界の断りをコントロールする我が秘儀を食らうがいい!」
次の瞬間、新宿に、局地的な暴風雨が吹き荒れる。ビルを根こそぎにするほどの突風が、視界を奪うほどの豪雨と砂塵を巻き上げ、九曜衆の完璧な包囲網を、いともたやすく引き裂いた。
「ぐっ…!」
「息が…!」
九曜衆が、一瞬の混乱に陥る。その隙を、天才軍師は見逃さない。
『―――必殺・【八卦太極迷宮陣】』
孔明のその声が響き渡った時、既に、世界は作り変えられていた。
先ほどまで瓦礫の山だったはずの新宿が、どこまでも続く、出口のない巨大な石造りの迷宮へと、その姿を変貌させていたのだ。
「な、なんだ、ここは!?」
ユウマが叫ぶ。八犬士も、剣豪たちも、そして伊賀九曜衆でさえも、完全にその迷宮の中へと囚われていた。
『ようこそ、我が思考の世界へ。八卦太極思想の迷宮へ……』
八陣図・心の迷宮
諸葛孔明が作り出した霊的迷宮「八陣図」は、単なる石造りの迷路ではなかった。それは、囚われた者の記憶と感情を読み取り、最も効果的にその心を折り、破壊するためだけに設計された、悪夢の具現化装置だった。
仲間たちは、散り散りになり、それぞれが、最も会いたくない「幻」と対峙させられていた。
【義】の崩壊 ―― 犬川星荘の場合
星荘が迷宮を彷徨っていると、見覚えのある通路の先に、一番会いたかった二人の姿を見つけた。ユウマと、親友の桜親だ。
「ユウマ君!さくらちゃん!」
ほっとしたのも束の間、二人は、恋人同士のように、親密に手を繋いでいた。そして、星荘を見る目は、氷のように冷たい。
「あ…ほしなちゃん」さくらの幻影が、迷惑そうに言う。「ごめんね。いつも一生懸命なのは分かるけど、ちょっと重いんだ。私たち、もう二人でやっていくから」
「ああ、悪いな、星荘」ユウマの幻影が、無慈悲に言葉を続ける。「お前の正義は、結局、自己満足なんだよ。俺たちには、もう必要ない」
信じていた親友と、想いを寄せる相手からの、完全な拒絶。彼女の【義】の心を支えていたものが、音を立てて崩れていく。
【武】の否定 ―― 宮本飛鳥の場合
飛鳥が迷い込んだのは、静まり返った、だだっ広い道場だった。その中央に、彼女が生涯をかけて追い求めてきた存在――剣豪宮本武蔵の霊体が、静かに立っていた。
「…御先祖様」
飛鳥が、畏敬の念を込めて頭を下げる。だが、武蔵の霊体は、侮蔑の目で彼女を見下した。
「継ぐ者だと?笑わせるな。仲間と群れ、共鳴だのと他人の力に頼り、その剣は、ただの一度も、真の修羅場を潜ってはおらぬ。お主の剣に、魂はない。我が二天一流の名を汚す、出来損ないよ」
自らの存在意義そのものである「武蔵の後継者」という誇りを、本人から、最も残酷な形で否定される。飛鳥は、生まれて初めて、刀の握り方さえも、分からなくなっていた。
【愛】の拒絶 ―― 佐藤玲奈の場合
玲奈が見たのは、ありふれた放課後の教室だった。そこに、ユウマの幻影が、窓の外を見つめて立っている。
「ユウマ…!」
玲奈は、安堵して駆け寄る。だが、振り返ったユウマの目は、悲しいほどに優しく、そして、それ故に残酷な色をしていた。
「…ごめんな、玲奈。俺、ずっと、お前のこと、妹みたいにしか思えなかったんだ」
その隣に、ふわり、とさくらの幻影が現れ、ユウマに寄り添う。
「俺が、本当に好きなのは…玲奈じゃないんだ。ごめん」
ずっと心の奥底で恐れていた、一番聞きたくなかった言葉。それは、彼女の戦う理由そのものを、根底から破壊する、悪魔の囁きだった。
「みんな、どこだ!返事をしろ!」
ユウマは、必死に仲間を探して、終わりのない回廊を走っていた。
これは孔明の罠だ、幻術だと頭では分かっている。
だが、仲間たちが、今この瞬間も、自分と同じように、心の奥を抉られるような悪夢を見せられているかと思うと、いてもたってもいられなかった。
「―――桜親!」
曲がり角の先に、ようやく見知った顔を見つけ、ユウマは安堵の声を上げる。そこに立っていたのは、紛れもなく、犬江桜親だった。
「桜親!無事だったか!みんなを探すぞ!」
ユウマが駆け寄る。だが、振り返ったさくらの瞳には、いつもの明るい光はなかった。ただ、ユウマという存在だけを映し、憎悪と殺意に満ちた、昏い光が宿っていた。
彼女は、愛刀「桜嵐」を、静かに、ユウマへと向けた。
「………」
その無言の構えが、何よりも雄弁に、彼女の敵意を物語っていた。
ユウマは共鳴者として悟る。この迷宮の真の恐怖は、幻を見せることではない。
本物の仲間を、その幻によって狂わせ、互いに殺し合わせることなのだと。




