姫ちゃんと一緒
都から馬車で一ヶ月程かかる所に、龍山という名所がある。人々に知恵を授けたとされる神龍が降臨したとされる伝説の山であり、山岳信仰の聖地でもある美しい山だ。
そんな御山を今、私はただ黙して眺めていた。
「美しいですね、お凜」
隣におわす私の主人――――姫様が声をかけてきた。私は一瞬だけ姫様に視線を移した後、再び山の方に視線を戻した。
「そうですね、姫様」
「あまり感情が乗ってないですね、お凜」
「姫様こそ」
「皆が言うほどではありませんでしたから」
「そうですね、少し拍子抜けです」
互いに感想を言い合いながら、そのまま御山を眺め続ける。期待したほどではなかったが、それでもまあまあに美しいとは思えた。姫様も、そんな感じだろう。
「ところで姫様、今回はどうしてここに来ようと思われたのです?」
お立場上、こうして旅に出るのは非常に危ういのは理解されているはずだ。護衛も私しかいないというのに。
「……別に、いわゆる願掛けってやつですわ。ちょっと神龍様のお力にあやかりたくて」
「……今後のお振る舞いについて、ですか?」
「ええ、わたくしは愚鈍ですから。ここに来たら、何か良い考えが浮かぶかと思いましたが……なあんにも思いつきません」
「そりゃそうでしょうね。摩訶不思議な力が湧いてくるのは稀な現象です」
「あら意外。現実主義のあなたなら、そこはきっぱり否定してくると思いましたのに」
「現実主義だからこそ、そうした力を否定することはできないのです」
「そういうものかしら?」
「そういうものです」
他愛なくて無意味な会話が続く。姫様とのこうしたやり取りは嫌いではない。姫様はどう思われているかは不明だが。
「そういえば、皇帝陛下がとうとう、第一皇子を皇太子に定めたそうです」
「そう、これでこの国は安泰ね」
「同時に、我らは窮地に立たされたわけですが」
「どのみち最初から窮地でしたわよ、わたくし達。勝算のない負け戦に挑んだのですから」
「ほんと、どうして謀反なんて起こしたんでしょうね〜」
「さあね、死人に口無し。もう真意を問うこともできませんわ」
「姫様は陛下の恩情で生かされましたけど、結局今も刺客やらなんやらで穏やかじゃないですからねー」
「苦労をかけますね、お凜」
「致し方ありません。これも我らの運命、というやつなのでしょう」
御山を眺めながら、私はため息をついた。それに合わせて、姫様もため息をつく。その息が白い煙の形となって、御山の方に飛んでいった。
「私達の世界は変わってしまいましたが、御山は変わりませんね〜」
「自然は不変なものです。わたくし達のゴタゴタなど、塵芥の如く些末なものでしょう」
「それもそうですね。たとえこの国が滅んだってこの絶景は変わりませんね」
「勝てませんわね、自然には」
なんだか可笑しくなって、私達は互いに笑い合った。
☆☆☆
「そろそろ帰りましょうか、お凜」
「はい、姫様」
結局何事も起こることはなく、私達は御山を後にした。
あの後姫様は無言のままずっと御山を眺めていた。表情も一切変えず、ただじっと、御山を見つめていた。多少お気持ちが楽になったのなら幸いである。
私の方はというと――――今後のことで頭がいっぱいになり、全く集中できなかった。姫様と違い、わたしは俗物なのだ。あらゆることを瞬時に考え、答えを出す能力などない。だからこそ、護衛の職についているのだ。
「お凜、わたくしは決めました」
唐突に、姫様が声をかけてきた。
「何をでしょう?」
私は無難に問いかける。すると、姫様はクスッと微笑み、その美顔を私に向けた。
「今度、海に行きましょう」
「はぁ」
お悩みながら歩いてるなと思っていたら――――
「山の次は海にお尋ねになるので?」
「いいえ、単に見たいから行くのです。神頼みなどあてにできないと分かりましたので」
「なるほど。しかしなぜ海なのです?」
「それはあなた、まだ海を見たことがないからに決まっているでしょう」
「姫様にしては随分あっさりした理由ですね」
「いけませんか?」
「とんでもない」
聡明で思慮深い姫様も勿論魅力的だが、私はどちらかというと好奇心旺盛な姫様の方に魅力を感じる。元来、姫様はそういう方だ。お立場上、ご自身の本心をさらけ出すわけにはいかなかったからこそ、腹芸に長けた油断ならぬ謀略妃となってしまったのだ。
本来は、素直で真っ直ぐな方なのだ。
「わたくし達にできることはもうありません。後ろ盾もなく、あるのはお情けでいただいた側室の身分のみ。しかも、それもただのお飾りです。そこに誰かを動かす力は一切ない。だったら――――」
「好きなことでもして余生を過ごす、ですか」
「その通り。昔から旅というものに憧れていたのです。これまでは立場上不可能でしたが、今はもうわたくしを縛るものはありません」
「末端の身分とはいえ、側室があっちこっち出かけるのもどうかと思いますがね」
「別に問題ないでしょう? すでに皇太子は決まりましたし、その後の継承についてもわたくしが介入する余地はありません。皇国の未来は定まったのです」
姫様は声を弾ませながら、あそこに行きたい、ここに行きたい、と希望の旅行先をあげていく。その無邪気な姿を見て、思わず私は「フフッ」と笑みをこぼした。
「どうしました? お凜」
「いえ、ここまで楽しそうになさる姫様を見るのも久しいなと思いまして」
私がそう言うと、姫様はピタッと足を止め、顔を下に向けてしまわれた。そして、ポツリと次のように呟いた。
「お凜、わたくしは薄情でしょうか?」
「薄情?」
「先の謀反により、わたくしの家は皆殺しになりました。恨みはありません。罪を犯したのは我が家の方ですから。ですが――――」
「悲しみすら、覚えませんか?」
私が後に続くと、姫様は無言で首を縦に振った。
「ひどい家でした。わたくしの気持ちなど一度も考えず、あまつさえこの国にいらぬ乱れを引き起こした大罪人達。それでも、血の繋がったわたくしの家族であることに違いありません。しかしながら、わたくしには、彼らを失ったことで……安堵の気持ちが強く生まれるのです」
姫様の顔に雲がかかる。入内されてから、あの方の美顔にはいつも灰色の雲がかかっていた。象徴として立てられ、多くの野蛮人共から祝福され、それを拒絶することなく、お役目を粛々とこなしてきた姫様。私はただそばに控え、見守ることしかできなかった。
「お凜、わたくしは気が触れているのでしょうか? 人の心を捨て、偶像と成り果てたわたくしは、もはや人としての生き方は許されないのでしょうか?」
姫様がちらりと横目で私を捉える。この御方はいつもそうだ。弱みを見せぬよう、お疲れのときはこうして、お顔を見せないように振る舞われる。私だけが知っている、姫様の自尊の印だ。
「姫様」
私はあえて、失礼を承知で姫様の顔を見た。お隠しになるそのお顔を覗き込むように。
覗き込んで見た姫様のお顔は、ひどく穏やかであった。私は一安心して微笑んだ。
「すでに貴女様を縛る輩はおりません。答えもすでに出ております。もはや、私から何か伝える必要はございますまい?」
私が挑発的に言うと、姫様は今までで一番嬉しそうな笑顔を見せた。
「貴女にはいつも助けられますね」
「そうですよ、少しは感謝してください」
「感謝を求めるような御人には伝えたくありませんね」
「も〜、そうやってまた意地悪言う〜! 言っときますけどね、ここに来るまでどれだけ刺客が襲ってきたと思います? 全部私一人で片付けたんですからね」
「あら、そうなの? 知りませんでしたわ。ご苦労さま」
「かっる。お礼、かっるい。も〜う知らない。姫様なんか、どこか薄汚い所で斬り殺されちゃえばいいんだ」
「はいはい、そう言っても貴女は助けてくれるんでしょ? お凜」
「ああ〜、またそうやって何でも知ってるような素振りを見せる〜。ほんとにほんとーに助けないからね! 姫ちゃん!」
「フフッ、そのあだ名で呼ばれるのも久しぶりね。貴女の父君がよく折檻してたわね」
「あのクソ親父ももういませんから、私は好きに生きていけるのです。姫ちゃんを見捨てても誰も咎めません」
「そう、貴女も他の皆みたいに見捨てるのね。可哀想なわたくし、ヨヨヨ……」
「そんなこと言ってるあたり、姫ちゃんはまだ余裕だよ。なんだかんだ生き残れるよ」
「剣豪の貴女に言われると心強いわね」
フン、と私が鼻を鳴らす。
姫ちゃんが大声ではしたなく笑う。
そばには誰もおらず、ただ二人きり。
世界は変わり、私達は生き残った。家族も力も安全も失い、代わりに自由を得た。
生き残ったのなら、とことん生きていこう。
私のたった一人の友達と、この先も、ずうっと。
終わり