三十九歳
連日寝不足が続き、自宅のソファーで仮眠していると自宅の電話がけたたましく鳴った。誠はふらつきながらそばに置いていた子機を手に取ると、相手は由里子の父だった。
「もしもし?さっき無事産まれたで。すぐ来れるか?」
誠は急いで病院に向かった。待合室に向かうと由里子の両親が笑顔で誠を迎えた。
「ちょっとは仮眠取れた?母子共に健康やし良かったわ。おめでとさん」由里子の母は感極まって涙を流していた。昨日の晩から由里子は陣痛が始まり誠は急いでかかりつけの産婦人科に向かった。病院についてから互いの両親に連絡を入れると、由里子の両親はすぐに飛んできた。三人で待合室で待っていると看護師がやってきて「少し長引きそうです」と告げた。三人の不安そうな表情を見た看護師は「初産ならよくある事ですのでご心配なく」と笑顔で付け足した。看護師が立ち去ってから由里子の母が「ここは私とお父さんに任せて、誠君は一旦家帰って休みなさい。看護師さんのあの言い方やったらまだまだかかるわ」と言ってくれたので誠はお言葉に甘えさせてもらった。
由里子の両親に病室まで案内してもらい「私らは待合室におるから」と母になった由里子と初めて対面した。
「おつかれさん。疲れた?」
「疲れた。出産の痛み鼻からスイカって本間やったよ」
「男には無理やな」誠はちらっと由里子の隣を見ると小さな毛布にくるまれた我が子が目に入る。
「ベイビーはそっぽ向いてるわ」と誠が笑うと、由里子は息子を抱き抱え「ほら、パパでちゅよ~初めまして」と言った。
誠は我が子を見た瞬間、以前三好が言っていた言葉を思い出した。「何だかんだ言っても実際産まれると一気に価値観ひっくり返されるで。こいつらの為に全てを捧げよう、って自然に思うわ。ほらお前んとこは長い間不妊治療も頑張ったやん?だから人一倍感極まるんちゃうか?」
だが、誠は我が子を前にしても何も感じなかった。もちろん由里子には感謝してるし、不妊治療も本当によく頑張ったと思う。それでもやはり誠は自分が一番だった。次に両親で由里子。子供はさらに次ぐらいの感覚だ。過去に観たドラマで母子が交通事故に遭い、旦那は妻か子供どちらか一方の命を救う事を選択しなければならないといったシーンがあった。ドラマでは旦那は葛藤の末に、これから生まれてくる我が子の命を選択するのだが、誠はどう考えても妻の命を選択するなと思ったのを覚えている。
「誠君?」
我が子をじっと見つめたまま、動かない誠に由里子は不思議そうな表情で呼び掛ける。
「あ…ああ、ごめんごめん。あまりの感動につい」
「誠君も感動とかするんや」由里子は悪い笑みを浮かべながら言った。
「まぁ俺も人間やしな。あと明日、明後日にでも出生届出しとくわ。名前は予定通りでええな?」
「うん、孝介。陣内孝介」
「分かった。ほなそれで役所に提出するわな。お父さん達には言うた?」
「ううん、まだ」
「ほな俺から言うとくわ。今日はゆっくり休んで。明日もまた来るから必要なもんあれば電話して」誠は病室を出て由里子の両親に礼を言って、我が子をの名前を伝えた。由里子の母は孝介を男らしい名前だと言い、父親は何か由来があるのか?と訊いた。誠は正直に「何となく良いと思ったから名付けました」と答えた。一瞬、苦い顔をした父親に由里子の母は「お父さんも由里子の名前そんな感じで決めたやん」と横やりを入れた。
「もう誠君のご両親には伝えた?」
「いえ、まだ。これから連絡しようかなと」
「そうね、今頃ドキドキしてはるやろうし早く電話してあげ」
「はい、そうします……それじゃあ今日はこれで」
誠は病院を出てすぐの所にある公衆電話へ向かった。財布からテレフォンカードを取り出した誠は両親ではなく三好の自宅に電話を掛けた。するとすぐに妻ではなく三好本人が電話に出た。
「もしもし三好ですが」
「あっ、もしもし?俺やけど」
「おお、陣内?どうした?」
「うちの息子、さっき産まれた」
「おー!そうかそうか!おめでとさん!名前は?」
電話越しから三好の笑みが伝わる。
「孝介」
三好は「スポーツマンみたいな名前やん」と笑い、これから楽しみだなと付け足した。誠が適当に相槌をうちながら返事をすると三好はそれ見透かしたように「感動せんかったか?」と言った。
「特にせんかったな」誠は正直に答えた。三好は「そうか。ま、価値観は人それぞれやから」とだけ言い、適当なところで電話を切った。三好と話した後に実家に電話を掛けて、両親にも無事産まれた事を告げた。母は声を震わせながら喜び、物静かな父も「良かった」と喜びを表した。両親への報告も済み、誠は自宅に戻った。寝室へ向かい、あらかじめ由里子が買い揃えていた男の子用のベビー用品を広げ、一人で何気なく眺めた。
「陣内孝介…男らしくてスポーツマンみたいな名前かぁ」誠は自分以外誰もいない寝室で声を出して言った。