三十三歳
「行ってらっしゃい、今日は?」専業主婦となった由里子は毎朝欠かさず、誠を見送る。
結局、由里子とは二年間交際し、互いの両親の後押しもあって二十五歳で結婚する事になった。
「今日は早く帰れると思うし晩は外で済まそか。行きたい店予約入れといて」
「分かった。気をつけて」
由里子から行ってらっしゃいのキスを受け、誠は上機嫌で由里子の反対を押しきって購入した愛車フェアレディZ三十二型に乗り込んだ。数年後モデルチェンジされる五代目Z三十三型の見た目だったら由里子もここまで文句を言わなかっただろうが、「うるさいし、見た目が無理」と四代目Zは不評だった。
しかし誠は由里子の不満など気にはせず、「スポーツカーは男のロマンやで」と日々気分良く乗り回していた。誠はちょうど三十歳になった年に係長に昇格した。そして勤務地が大阪から京都に変わったタイミングでマイホームも購入した。車の件があったので、マイホームに関してはおおかた由里子の要望を通した。市内ではなく、閑静な地方で注文建築で五十坪以上の家。探せばいくらでもあったが、この時期はバブルの影響で物件価格は笑えないぐらい高騰していた。貯めていた少しばかりの貯金を頭金に入れ、何とかローンで購入する事ができた。それでも誠の収入だけで二人は難なく食べていけて、由里子を働きに出さなければいけないほどではなかった。今夜のように気まぐれで外食をする事もしょっちゅうだ。
定時を迎えた誠はオフィスから自宅に電話を入れる。
「もしもし?今終わったし一旦帰るわ。すぐ出れるように用意しておいて」
「わかった、気をつけて」
誠は愛車フェアレディZのエンジンを甲高く吹かしながら小一時間掛け由里子の待つ自宅へと帰る。自宅前でクラクションを二回鳴らすと、メイクをバッチリ決めた由里子は小綺麗な紺色のワンピースにニットを羽織って出てきた。
「どこ予約入れたん?」
「まるやす」
「そうか。焼肉やったら服臭い付くで。ええの?」
「ああ…別にこの服は二軍やしええよ」
「ふーん。まぁええわ、行こか」
由里子がシートベルトを装着したのを確認すると、誠はギアをセカンドに入れてフェアレディZを発進させた。店につくと座席表をバインダーに挟んだ何度か見た事のある年配の店員が「いらっしゃいませ!御予約は?」と元気なハスキーボイスで訊く。
「予約していた陣内です」と由里子が答えると、店員は誠と由里子を奥の座席に通す。席に着くなり「俺、コーラでええわ」と誠は言い、由里子は店員にコーラと烏龍茶を注文した。2000年の当時は現在ほど飲酒運転に厳しい取り締まりをしていなかったので、誠は度々車であれ飲酒運転で帰っていたが、この日は酒を飲む気分ではなかった。注文したコーラと烏龍茶が運ばれてきて、肉の盛り合わせ二人前注文し、店員が去ると二人は軽く乾杯した。誠がコーラを少しだけ口に含んで口内に水気を入れると由里子が静かに言った。
「絵美ちゃんのとこおめでたらしいよ」
由里子の言う絵美ちゃんとは隣に住む年下の二十代の夫婦の事だ。
「へぇ、そうなんや」
子供を欲しいと思わない誠は「おめでたい」とは言わなかった。今でこそ人それぞれ色々な価値観があり、子供を持たない夫婦や独身者がざらにいるが、当時はそうではなかった。結婚イコール子供。それにマイホームを買って車は一家に一台は当たり前の時代。それでも誠は子供だけは独身の頃から欲しいと思った事が一度も無かった。理由はそもそも予測不能な行動を起こす子供が苦手な事と、数千万円の養育費が自然と掛かる事。それだけ金を掛けて育て上げても育つ環境次第では思い通りの息子、娘にならない確率の方が高い事。子供はリスクでしかない。成人するまでは子供のやらかしは親の責任になるのだから度合いによっちゃ自分が築き上げたものがゼロになるかもしれない。我が子がいたずらで線路に置き石でもしてみろ、もし電車が事故を起こすと賠償金で親である自分の人生まで終わる。
そこまで不確定なリスクを背負ってまで子孫を残そうとは思わないし、自分が稼いだ金や時間を我慢して子供へ注ごうとも思わない。しかし誠は自分が当時の価値観ではマイノリティだと肌で感じていたから子供の話題は誰の前であろうと極力避けていた。今ではすっかり減ってしまった夜の営みでも誠は避妊具を必ず装着していたし、他所の子供を見て「可愛いな」なんて絶対言わなかった。そもそも子供を可愛いと思う感覚がなかった。むしろ自分の人生を子供に捧げる他所の夫婦を見て「せっかくの人生なのに残念やな、もったいない」とすら思った。同僚の三好と鎌田と酒の席でこの話をすると、結婚し娘が生まれたばかりの三好からは「ひねくれ方がお前らしい」と笑われ、今だに独身の鎌田には「俺は養子をもらってでも子供は欲しい。陣内は変わってる」と言われる始末だ。ちなみに三好の奥さんは由里子の友人の彩ではない。結局あの合コンの後はワンナイトで終わったらしく、誠と由里子の結婚式でばったり遭遇した二人は大変気まずそうだった。
店員が肉の盛り合わせを持って来て誠がトングを手にしたタイミングで由里子は口を開いた。
「私も赤ちゃん欲しいな」
誠は黙って肉を焼き始める。由里子は続けた。
「私も今年で三十二やろ?だからそろそろ本気で考えたいねん。早いとこの子なんてもう小学生やし」
「何で子供欲しいん?夫婦二人じゃあかんか?」
「あかんとかじゃないけどさ。やっぱり結婚したら子供作るのが普通じゃない?せっかく大きい家もあるんやから。もし私らのどっちかに欠陥があって子供ができひん体とかやったら諦めつくけど、何もせんと諦めるのは違うかな」
「そうなんや」誠は網の上にある肉を順に四枚裏返す。
「誠君が子供好きじゃないのは知ってる。でも私は子供好きやし欲しい。好きな人との子供やったら余計に欲しい」
目にうっすら涙を溜めた由里子を前に誠は何も言えず、「うーん。そうやなぁ」と濁す事が精一杯だった。
「正直子供に対してどう考えてるん?」
「どうって…」
「気遣わんとって。この際はっきり訊いときたいし」
誠は由里子の望み通りはっきりと持論を伝えた。
「お金に関しては苦しくなれば私も働きに出る。一人っ子でいいし、道を踏み外さんように二人で頑張ろうさ。それじゃああかん?」
「あかんとかはないけど。それに最低な発言やけど、もし障害を持って産まれたりしたら俺育てる自信ないで」
「うん…」
「言いたくないけどこれが本音やから」
誠は少し焦げ付いた肉を口に放り込んだ。
「けど…やけどやっぱ私は子供欲しいな」
由里子は下を向いて静かに涙をこぼした。誠はあまりにも彼女が哀れに思えて、首を縦に振ってしまう。
「じゃあとりあえず今日からゴムは使わん。それで子供が自然に出来たらそれはそれでええし、もし出来ひんかったら諦めよな?」
「分かった、ならそうしよっか」
この日の夜に、誠は所持する避妊具を全て処分した。