二十三歳
定時を迎え、オフィスからぞろぞろと帰り始める人の列を横目に、誠も帰り支度を整える。新入社員に配布されるマニュアルの冊子が大半を占める鞄の中もついでに整理した。所属している営業部の先輩数人が立ち上がり「お疲れー」と気だるそうに挨拶をしたタイミングで誠も席を立ち上がり「お疲れ様です!」と頭を下げた。誠が所属する営業部は体育会系なのでこれぐらいが丁度良い。
先輩達がオフィスを出たのを確認すると、溜め息をついて誠も一人でオフィスを出た。今日は金曜日で明日から連休だ。誠は帰りにレンタルビデオ屋に寄って、気になる作品を土日を使って一気に観ようと決めていた。いつもならオフィスを出てすぐ目の前にあるエレベーターから下に降りるのだが、金曜日はいつも以上に混み合う事をこの数ヵ月で学習した誠は、階段に向かい七階から降りた。
一階まで降りてロビーにいる少しだけ年上に見える二人の受付嬢と、出入口にボーッと立つ年配の守衛に会釈し、自社ビルを出る。
今すぐにでも煙草を吸いたかったが、ビル前の喫煙所には当然ながら社内の人間が多数いる。大半は名前も知らない他の部署の人間だろうが、仕事を終えたプライベートな時間にまで関わりたくはない。
誠は吸いたい衝動をグッとこらえ、少し先にある大通りから脇道に入ってすぐの児童公園まで歩く事にした。
公園に到着すると空いているベンチに腰を下ろし、煙草に火を点ける。すると隣のベンチに同世代であろう若者三人が、誠が勤める会社が販売しているメーカーの缶コーヒー片手に私服姿で談笑しているのが目についた。当時、若者の就職難だと世間を騒がせていた。後にこの現象が就職氷河期時代と言われるのだが、このように定職に付いていない若者は珍しくなかった。誠はこんな夕方に公園でたむろする同世代の若者三人を見て恐らく彼らも就職できなかったんだろうな、と勝手に哀れんだ。
一本目を吸い終わり、続いて二本目の煙草を咥えた時に遠目に公園に一人のサラリーマンが走って入って来たのが見えた。
「あ!おった!」
逆光ですぐには分からなかったが、公園に入って来たのは採用試験から一緒だった同期の三好だった。
三好は誠の隣にドンッ!と腰を下ろすとネクタイを緩めて「お疲れちゃん。とりあえず煙草ちょうだい」と誠のスーツの胸ポケットにいきなり手を突っ込んだ。
「社会人やねんしええ加減煙草ぐらい自分で買えよ!」と誠が言うと三好は「はいはい」と手を振り、ライターを貸してくれ、と無言で手を差し出した。
「何?」誠は三好からライターを取り返し、気を取り直して咥えたままの二本目の煙草に火を点けた。
「探してたんやで!」
「だから何で?」
三好は煙を吐きながら大げさに驚いた。
「何でって…週末合コンしよなって言うてたやん!」
記憶を遡ると、たしかに三好から合コンの話は聞いていた。だけど日程などの詳細は一切未定で、決まり次第教えてくれるという手筈だったはずだ。しかし連絡は無かった。
「いやいや、お前日程とメンバーはまだ未定や言うてたんけ。その後は何も聞いてへんで」
「おん、だってさっき確定したし」
誠は三好のいい加減な段取りに苛立ちを覚える。
「いくら何でも急すぎるわ。予定あるし今日は勘弁」
そう言って誠がベンチから立ち上がると、三好は「ちょい待ち!」と誠のスーツの袖を引っ張った。
「何やねん?手離せや、スーツ痛むやろが」
「予定あるしって、どうせレンタルビデオ屋か本屋寄るぐらいやろ?ほんで夜中に一人でスケベな事するんやろ?」
「ちゃうわぼけ」誠は三好を無視して歩き出した。すると背後から三好が「三対三でお相手は大学生やで」と囁いた。それを聞いた誠は悔しいが足を止めてしまった。
「嘘やん?絶対ヤれるやん」
「せや!大学生なんかちょろいで。それにこの社章見せたらグイグイきよるやろ」そう言って三好はスーツの胸元につけたメーカーロゴを指でなぞった。気が付くと隣のベンチにいた先程の若者達は姿を消している。
「待て待て。何で大学生の知り合いおんねん?」
「それは秘密や。強いて言うなら三好ネットワークですわ」
「めんどくさ。まぁええわ」
誠が腕時計に目をやると、時刻は夕方十八時を少し回った辺りだった。仮にハズレだったとしても早めに切り上げれば、そこからビデオ屋に寄っても楽しめるだけの時間は十分にある。
「ほな、ちょっとだけ顔出すわ。もしブスやったら一杯飲んですぐ帰るからな」
「ええよ、もしそうなれば俺も帰るから」
「アホか、言い出しっぺは最後まで残れや」
「そこはケースバイケースや。ほな、行こか」誠は煙草を地面で押し消して、立ち上がった三好の後を追った。
十八時四十五分。誠は三好に連れられ、会社の最寄り駅から電車で一駅隣の駅前に位置する居酒屋「まさ吉」に着いた。ここは入社してから先輩に何回か連れて来てもらった事があり、誠からすれば「またか」といったところだった。
「こんな汚いとこで合コンすんのか?」誠が苦笑いすると「まぁまぁ。今回は急に決まったから。ここはよう来るし何かと融通利くやん」
「せやけど。俺が女やってこんな汚い店に呼びつけられたらキレるわ」
「うっさい、我慢せえ」すると駅からこちらに向かって「おーいっ!」と声を上げて、手を振る男が見えた。
「あれ鎌田?」誠が肘で三好をこずくと「そう、鎌田。お前あいつ久しぶりやろ?」
「せやな。鎌田ってたしか製造部やんな?」
「そう。とかいう俺も結構久しぶりや」
同期の鎌田は二人に歩み寄ると「おっす!久々!特に陣内!」と童顔の屈託のない笑顔を向けた。
「おお」と誠は鎌田のテンションの高さに苦笑し、三好が「俺も久しぶりやんけ」と言った。続けて三好は「今日は三人ともお持ち帰りできたらええなあ」と煙草を咥えながら笑った。
誠は「そうやな」と頷きながらも、内心絶対そんなに上手い事いかないと思った。
すると背後から「あのっ……」とか細い声が聞こえ、誠、三好、鎌田の三人は一斉に振り返った。そこにはモデルのようにスラリとした体型の三人の女がいた。三人のあまりの美貌に誠達は絶句した。
「あ、彩ちゃん?」三好は何とか平静を保ち、店前のスタンド灰皿で煙草を消しながら言った。
「はい…」先頭に立つ茶髪の女が遠慮がちに首を縦に振る。
「本間に大学生かいな?」すかさず鎌田が誠のツッコミを代弁した。
「ええ…そうですけど。見えませんか?」
「いやいや!そんな事ないんやけど…えらい大人っぽいなぁ思て。いくつ?」
「二十二です。三人とも」
「じゃあ一個下やな!今、就活忙しいんちゃうの?」
鎌田の質問責めに彼女達が引き始めたタイミングで三好が「ま、とりあえず中入ろうか!さっきから大将がこっち気にしとるし」と鎌田を止めた。
古びたガラス張りの引戸から店内を見ると、カウンターで焼鳥を焼いている小太りの店主が、いつ入って来るの?という感じでこちらをチラチラ見ていた。
三好を先頭に店内に入ると、店主は三好に何か言いたげな視線を放ち、「御予約様」と札の置かれた置くの座席に通した。席に座ると同時に三好が現代では死語になった「とりあえず生を六つ!」と店主に声を掛けた。三好は「席替えは後ほどな」と呟いて、サッと上座にあたる壁側に女の子達を座らせ、誠達は三好を間に挟んで店内に背を向ける形で下座につく。いかにも自然に相手をたてれるところはさすがだ。
左側に座った誠の前にはさっき声を掛けてきた彩が座った。そのタイミングでアルバイトの女の子が両手で器用に生ジョッキ六つを持ってやってきた。
「お、きたきた……じゃあさっそく乾杯して自己紹介でもしようか!」
ジョッキを置くと、ついでに食事のオーダーも取ろうとしたバイトの女の子は、三好の言葉を聞いて空気を読んだのかスッとカウンターの方へ戻った。誠は彼女をできる子だな、と感心した。
「じゃあ紹介するな」三好の張り切った声が隣から聞こえ、誠は無意識に姿勢を正した。
「左から陣内、三好、鎌田です!全員今年二十三歳!大手企業勤めの勝ち組三人です!」
三好は絶妙なトーンでおちゃらけながら紹介する。女の子達は全員控えめな笑みを浮かべ。端に座る彩が「最後一言は余計な気がする」と笑った。そして彩は笑いながら「彩と美咲と由里子です。三人とも無事就活が終わってダラダラしてる現役大学生でーす」と三好に習っておどけながら言った。
誠はもっと掘り下げて聞きたかったが、とりあえずは三好の出方を伺った。
「いやー、でも良かったわ本間に。三人とも可愛いし安心した」
「なんで?」美咲が慣れない手つきで煙草を咥えながら訊いた。
「ん?だって全員可愛いし俺ら取り合いならへんやん。そっちは知らんけど。な、鎌田?」と三好は右隣の鎌田の肩を小突いた。
「どういう事やねんそれ!」と鎌田が声を上げると全員が笑った。
「何でー?鎌田くん童顔で可愛いやん」と彩がフォローを入れ、三好が「じゃあ彩ちゃんは鎌田でいい?」と訊くと「それはない」とぴしゃり。
「このアバズレが!」と鎌田が笑いながらいきり立つと、全員が爆笑した。誠は出だしから良い雰囲気やん、と彩、美咲、由里子の顔を順に眺めた。すると、ちょうど対角に座る由里子と目が合った。由里子は意味ありげな笑みを誠に向ける。パッチリとした二重に茶髪の巻いた髪、服装は派手だがメイクは控えめな由里子に誠はすぐ好感を持った。
「大手企業ってどこなん?」と由里子が誠目がけて質問する。誠が答えようとすると横から三好が「ここやで」と生ビールの入ったジョッキのロゴを指差した。すると美咲が「嘘!?めちゃくちゃ大手やん!」と驚いた。美咲だけではなく彩と由里子の目の色も変わった。馬鹿馬鹿しいが三好の予想通りになりつつある。
「って事は…鎌田くんもやんな?」と彩が言うと、鎌田「そうやで。見えへんってか?自分喧嘩売ってる?」と笑いを取った。続けて美咲が「何か凄すぎていまいち信じられへんなぁ」と笑い、美咲の言葉に便乗して彩も「証拠は?」と冗談交じりに言う。由里子は誠に「名刺とかないん?」と言うと誠は「あるで」と名刺ケースから名刺を取り出して、腕を伸ばして由里子に手渡した。手渡した瞬間、なぜか隣の三好に肘で小突かれた。
女性三人は誠の名刺をまじまじと眺めながら「ほんまや…すごい。しかも営業なんや」と揃えて声を上げた。誠は優越感に浸り、決して悪い気分ではなかった。
酒も進み、コンパも順調だった。途中、三好が「そろそろ席替えをしよう」と提案し、男女が隣通しになるよう移動した。
壁側の上座には誠、由里子、鎌田。反対の店内側の下座には美咲、三好、彩。自然と三好だけが唯一席を移動せずに済んだ。誠はこれも三好が計算に入れた事であると分かっている。
女性陣は遊んでそうな見た目とは裏腹に、意外と酒が弱かった。席替えをしてから女性陣の酒のペースが一気に落ちたし、美咲なんかろれつが回らなくなり挙げ句の果てにはトイレに立ってから戻って来なくなった。綾は三好と一緒になって向かいに座る鎌田を終始おちょくっていたし、誠は隣に座る由里子が気になってしかたなかった。顔だけ出してほどほどで切り上げようと思っていた気持ちはすでに消え失せている。酔いのせいか、由里子は誠に対してのボディータッチが増えた。初めは肩に手を置く程度だったが、時間が立つにつれて由里子の白く小さな手は誠の太ももをさすり、最終的には股関に当たっていた。一回当たった時は反射的に由里子の手をやんわり払いのけたが、二度、三度と繰り返されると誘われているとさすがに気が付く。由里子を見ると「我慢できなくなっちゃった?」とまるでビデオの中でしか拝めない女優のような表情で誘ってきた。アルコールの影響で全身の血行が良くなっている誠の体はすぐに反応してしまい、由里子は形を変えた股間をテーブルの下で何度も握ったり、離したりを繰り返した。
「美咲ちゃん遅いなぁ。ちょっと見てくる」と鎌田が立ち上がったタイミングで誠と三好の目が合う。三好は「そろそろ出よか」と誠にアイコンタクトを送り、誠は由里子の手をソッとどけながら頷いた。鎌田が泥酔した美咲に肩を貸しながら戻ってくるのを確認して、三好は女性陣に「会計済ませるから先出てて」と声を掛けた。鎌田が美咲を綾にパスし、女性陣が店を出たのを確認すると三好が誠に「どうやった?」と訊いた。誠は正直に「見事に三人とも美人やけど、やっぱ俺は由里子ちゃんかな」と答える。「あの子エロそうやしええやん」と三好は笑い「俺は彩ちゃんがタイプやわ」と言った。意外にも鎌田は三人に対して特に何も思わないと言った。
「じゃあお前美咲ちゃん駅まで送ったって」と三好が言い、誠と三好は由里子と彩をそれぞれお持ち帰りする事にした。会計を済ませて店を出ようとすると三好が「お前名刺なんか渡すなよ」と誠に言った。「何で?」と聞き返すと「後々めんどうやろ?社章見せたらよかったのに」と言った。どうやら三好は彼女達とはこの日限りの関係だと考えているようだった。
「俺、由里子ちゃんやったら余裕で付き合えるわ。可愛いし、控えめで性格も良さそうやし」と誠が言うと三好が苦笑しながら「それは軽率やな」と言った。店を出ると美咲は完全に潰れていて、うずくまっいる美咲を彩と由里子が介抱していた。
「鎌田」と三好が言うと鎌田は「はいはい」と美咲に肩を貸して、駅の方へと向かった。
「大丈夫やろか?」と彩は心配そうに美咲と鎌田の後ろ姿を見ていたが、三好は彼女の肩を抱き「大丈夫。鎌田は慣れてるから」と見送った。
「じゃ、俺らも行こか」と三好の言葉を合図に自然とペアになった誠と由里子、三好と彩は「ほな、またね」とそれぞれに挨拶を交わし、その場を後にした。
一つ目の角を曲がって、三好達が見えなくなると由里子は誠に腕を組んだ。
「陣内君って結婚願望あるの?」
「何や急に?えらい唐突やな」
「どうなん?」由里子は誠の腕を引き寄せ胸に当てる。
「そら将来的にはしたいけど…ま、その辺は相手次第やな。そもそも彼女もおらんし」
「私がなってもええよ……?陣内君の彼女に」
「え?」誠は足を止めて由里子の顔を見た?
「何よ?」酒のせいか由里子は赤らんだ顔で誠を見つめる。
「本気なん?俺ら今日会ったばっかやん」
「会ったばっかやと付き合ったらあかんの?」
「そんな事ないけど。普通もっと事前にお互いの事知ってから付き合うくない?」
「私じゃ不服?」由里子は大げさに頬を膨らます。彼女は美人だから良いが、その辺の女が同じ事をしても効果は無いだろう。
「ほんなら由里子ちゃんは俺のどこが好きなん?」
「顔と体型と優しいとこ」
「んー、普通」と誠は笑った。そりゃあそうだろう、まだ出会って数時間の仲だ。濃い事が言える訳がない。
「陣内君は?」
「顔とスタイル良いとこ。後エロいとこかな」
「サイテー」と由里子は笑った。
「でも最初はこれぐらいでいいんじゃない?合わへんかったら別れたらええだけやし」と続けた。
「いきなり寂しい事言うなよ」
「だって本間の事やん。そんなん付き合ってみな分からん事もあるしさ。性格も身体の相性も」
「まぁな」
「それに私、付き合ってない人としたないし」
「えっ…」誠の素のリアクションを見た由里子はさらに笑う。
「陣内君分かりやすくて可愛いなぁ。でも陣内君ならしても良いと私は思ってるよ」
「そ、そう?…んー、じゃあ付き合ってみるか!」
「うん、じゃあ…よろしくねっ」そう言って由里子は人目を気にせず、誠にキスをした。