日常
日曜日の午前。誠は妻、由里子の刺すような視線を背中全体に浴びながら換気扇の下で煙草を吹かした。視線をぶつけるだけで特に何も言ってこない由里子に「散歩行ってくるわ」と告げ、愛犬のゼンを連れて家を出る。玄関まで出ると、すぐに換気扇が「強」で運転される音と共に、あらゆる窓が開けられる音が由里子の小言付きで聞こえた。
ゼンは警戒心が強いと言われる柴犬だが、全然そんな事はなく外ですれ違う人間全員に愛想を振りまく。ゼンを見た三人に一人は足を止め「可愛いなぁ」とゼンの頭や背中を撫でた。ゼンも撫でてくれた人全員の手をペロッと舐めて挨拶をする。もちろん飼い主として悪い気はしない。
散歩コースになっている第三公園に到着すると、ゼンはお決まりの茂みに一直線に向かい用を足す。しつけたわけではないが、ゼンは犬のくせに用を足す際はわざわざ身を隠してするという変な癖があった。完全に親バカではあるが、そんなところも愛くるしい。
ゼンのトイレの始末を済ませて、誠はベンチに腰掛けた。リードをベンチの手すりに引っ掛けてスマホを取り出す。SNSの投稿用にベンチの周りをうろうろするゼンの動画を撮り始める。去年にゼンがうちにやってきた頃から始めたSNSへの動画投稿も順調にファンを増やしつつある。家族に内緒で始めたSNSへの投稿も、まだまだではあるがこんなに当たるとは夢にも思わなかった。
この調子でいけば、今後そこそこまとまった収益が得られるかもしれない。念の為に収益が振り込まれる口座を妻に内緒で持っている自分の口座に設定して良かった。継続して月に数万円が振り込まれるだけでも大きな収入源になる。へそくりもペースを上げて増額できそうだ。誠のへそくりは、独身時代から貯め込んでいた分を入れると現在ゆうに二千万円を越えている。
これは後四年で定年を迎える誠にとって心強い金額ではある。家庭の金は妻の由里子に管理を任せているが、心配性の彼女の事だから老後の為にそっちもそれなりに貯めているはずだ。それに新卒からずっと同じ大手企業で勤めた上げた退職金と年金もある。厚生年金に関しては、現在営業部長として働く自分は他の平社員よりも多額の年金が期待できる。
今、世の中は不景気真っ只中ではあるが、誠は自分の老後のセカンドライフを想像すると自然と笑みがこぼれた。
誠は撮影しているスマホの臭いを懸命にクンクンと嗅いでいるゼンの頭をわしゃわしゃと撫でてやった。
「ほんまにありがとうな。お前と過ごす未来を想像するだけで今年一年耐えれそうやわ。また母さんに内緒で美味しいおやつ買うたるからな」
誠が言うとゼンは意味が分かったのか、前足を誠の膝に乗っけて尻尾を左右にブンブン振った。あまりの可愛いさに誠は人目を気にせず、ゼンを抱きしめた。
「ありがとうなぁ。俺の味方はお前だけやわ。一緒に幸せになろなぁ」
「くぅーん」と返事をするゼンをもう一度だけ撫でて、誠は帰路についた。
自宅に帰ると、いつものように玄関でゼンの足をタオルで拭いてリードを外してやる。すると、ゼンは由里子に朝ごはんをもらう為に一目散にリビングに走り去ってしまった。ゼンを追って誠もリビングに向かうと由里子が無言でドッグフードと水をゼンに与えていた。ダイニングテーブルの上には食べかけのオムライスが置いてある。朝飯はオムライスか、とキッチンに向かうと、ラップを掛けたオムライスと流しには水を張ったフライパンがあった。
誠がオムライスを手に取ると椅子に座りながら由里子が「それあんたのちゃうで」と静かに言い放つ。
「え?」っと誠が振り帰ると、由里子は何とも言えない冷めきった目で「それ孝介の。あんたいつも朝ごはんいらん言うやん」と言い、食べかけのオムライスにスプーンを通した。
誠は諦めて冷蔵庫の中を物色する。するとトレーに乗せられたホッケを発見した。ホッケでも焼くか、とトレーを手に取ると由里子が再び声を上げた。「それホッケやんな?ホッケは今日の晩御飯やから。三尾入ってんねんし見たら分かるやろ?いちいち言わせんといて、ほんま頼むわ」
誠は由里子に背を向けながら眉間に皺が寄り始めたのを感じ、深呼吸で心を落ち着かせる。少し前の自分なら「誰のおかげで生活できてんだ!」とありきたりな暴言を吐いていたと思う。誠は平静を装いながら静かに言った。
「何か食べるもんないの?」
「ご飯は炊いてある。でもおかず無いし塩でもかけて食べたら?」
「塩って……」
「何?あんたいつも私の作ったもんにあほみたいに塩かけて食べるやん」
「それ今関係ないやろ。えらい嫌味ったらしく言うけど塩かけへんもんも多いから」
「はっ、そんなんどうでもええわ」
誠はしかたなく目についたポテトチップスの袋を手に取りリビングを出ようとすると「それ孝介のやで!」と由里子は叫んでいたが、誠は由里子を無視して二階にある書斎へと向かった。投稿用の動画の編集でもしようと、パソコンを立ち上げてポテトチップスの袋を開けると書斎のドアが「カリッ…カッ…カリカリカリ」と音を立てた。この不規則な音はゼンの仕業だ。
誠がガチャッとドアが開くと、こちらに熱い眼差しを向けながらちょんと座るゼンがいた。尻尾をブルブルさせて必死に興奮を抑える姿に苦笑しながら「入り」と言うとゼンはササッと書斎の中に入った。ゼンは特に何をするでもなく、デスクに座る誠の足元に寝そべった。
「何で結婚なんかしたんやろって毎日思うわ。お前もそう思わへん?あー、若い頃に戻りたい、人生やり直したいわ。今さらやけど何であの日三好の誘いに乗ったんやろ」
ゼンは一瞬だけ誠の方を見るとまたすぐに顔を背けて目を閉じた。