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09 治療

 ヴァンキッシュの吐く荒い呼吸音だけが響く、冷たい空気に満たされた医務室へと入り、ナトラージュは自分を落ち着かせるように何度か大きく息をついた。


 まさか自分がこういう事をする初体験が、こんな展開から始まるものだとは夢にも思わなかったから。


 結局あの後も、困り顔のグリアーニは言葉を重ね、何とか思い留まらせようとしていた。


 だが、医務室から出てきた治療士に「……で? 結局、どうするんです? このままだと、外交官が死んで外交問題になりかねませんけど」と、言外に急かされてナトラージュの真剣な目を見て、ようやく説得は諦めたようだった。


 口早に説明してくれた医療士の話によると、ヴァンキッシュの意識はかなり混濁していて普通の状態ではない。このままでは痛みや息苦しさなどで、出来ないかもしれないからと、媚薬のようなものを飲用済みで、彼の体はそういう事がしやすくはなっているらしい。


 下着姿になったナトラージュは無言で脱いだ服を隣の空いたベッドに無造作に置き、苦しんでいる彼が寝かされているベッドの四方を囲っていた白いカーテンを開いた。


 先ほどに何人かの男性に運び込まれる際に見た時より、顔色は悪い。毒のせいか、嫌な呼吸になっている。


(……あまり、猶予はない。急がなくちゃ)


 初老の医療士は、手取り早く事に運べるようにと、彼は既に全裸にしていると事務的に教えてくれた。


 目を閉じたままのヴァンキッシュに掛けられているうすい上掛けを捲れば、人と会話するのが仕事と言っていた人間とは思えぬ程に、身体中しなやかに鍛えられた筋肉で覆われ背中にある怪我を治療するために包帯を何度か巻かれた上半身が見える。


 こんな事態だと言うのに、ナトラージュは思わず息をついてしまった。


 何処にも布も飾りも身につけていないのに、思わずため息を付いてしまうくらいに美しい肉体だった。彼は私のものだと、口汚く罵り合う関係を持ったであろう令嬢たちの気持ちがわかるような気がした。


 ひと時でも熱っぽく見つめられ愛を語られれば、もしかしたら、と夢見てしまう。自分こそが、数多の花を渡り歩いた彼の終着地ではないかと。


「ヴァンキッシュ様……本当に、ごめんなさい……こんなことになって」


 今謝罪したとしても、もう彼には何も聞こえていないのはわかっては居た。だが、そう言わずにいれなかった。


 ヴァンキッシュは危機に陥ったナトラージュを、身を挺して庇ってくれた。けれど、偶然でどうしようもない事態ではなく、あれは紛うことなく、ナトラージュのミスが引き起こした危険だった。


 そっと芸術的な曲線を描く白い肩に触れれば、彼の体はビクッと反応を示した。


 するりとした滑らかな人肌は目に見えて赤くなっていて、身体の中に居る有害な毒を追い出そうとしてか、とても熱い。


「……んっ……」


 ヴァンキッシュは目を固く瞑ったままで、低く呻き声を上げた。


(急がなきゃ……)


 こうしている間に、彼の命が危ない。



◇◆◇



 彼との初体験はナトラージュの胸内に当然のようにある躊躇いの垣根を取り払うという難事を、いとも簡単に彼はしてしまった。


 そういった事の出来るヴァンキッシュは、本当に異性に良くモテるのだろうと思えた。


信じられない程に整っている、外見だけの魅力ではない。人の心を良く読み、満たして欲しいと願う欲望を満たす。普段の生活の中で交わす会話でも、手慣れた行為の手つきにも、それは良く表れていた。


 もし、彼が平凡な外見をして居たとしても、これだけの事をしてしまえる男性なら、女性は深い沼に腰まで浸かってしまった時のように、なかなか抜け出すことも出来ないはず。


 まるで依存性のある麻薬のようなものを兼ね備えた人が、目の前のヴァンキッシュのような極上の外見を持っていたら?


 だから、虜になってしまった女性は仮初めで得た幸福だと知りながら、奇跡のような存在の彼のことを手放したくないと、髪を振り乱してでも縋るように願ってしまう。


 彼を知っていくほどに誰もが納得する、当然のような帰結だ。


(この人に愛されたと思い、ほんの一度でも与えられた天国のような時間を知ってしまえば。離れがたい、その想いを捨てがたい。一度彼の関心を失ってしまえば、永遠にもう元には戻らないと心では理解しているのに)


 ヴァンキッシュのような男性には、周囲に美しい令嬢が取り巻いていることが当たり前なのだ。誰かが少しでも面倒くさい事を言い出したら、すぐさま代わりが待っている。代替のきく、簡単な存在でしかない。


 まるで何もかも溶かされてしまうような甘い責めを受けながら、ナトラージュは頭の何処かで、出会った時の彼の様子を思い出していた。


 あの時、今しもキスをしようとした令嬢が逃げてしまったというのに、歩いていて近くの花の上に居た蝶が飛び去ってしまった時ほどの無関心で、彼は逃げていく彼女の後ろ姿を見ていた。


(きっと……私も……そうなる。こうして、彼に求められ愛されていると、勘違い出来るのは……今だけ)


 いつの間にか眠りについていたナトラージュが目を覚まし隣に居る彼を確認すると、すうすうと心地良さそうな寝息が聞こえてくる。本能に従っただけとはいえ、ひと時でも毒に侵されていた身体はひどく消耗しているのだ。


それは、本当に仕方ないことに思えた。


 ほっと息をついて、ナトラージュも流石に疲労を感じていた。野獣に犯されるように乱暴にことに及ぶのかと思いきや、ただただ甘やかすように攻め立てられて身体は限界だった。


 再び目を閉じれば、深い溝へと滑り込むように眠りに落ちていた。



◇◆◇



 眠りから覚めれば、熱い体温を持つ肉体に抱きしめられていた。夏だとはいえ朝方は流石に冷えるので、彼はただぬくもりを求めて、ナトラージュを抱きしめていたようだ。


 ゆっくり目を開ければ、形の良い唇にも血の気も戻りもう顔色の良くなった彼の顔だ。


 ナトラージュはそっと身動きをして、固く抱かれた腕の中から抜け出そうとした。ヴァンキッシュは温もりを留めようと、目の閉じたままの状態でその名を口にした。


「……ルクレティア」


 驚きに大きく目を見開き、ひとりでに涙はこぼれた。


(それは……私の名前が出てこないのは、こういうことをしたことないんだから。仕方ないけど……私の事庇ってくれて、一時は瀕死だったヴァンキッシュ様は……何も悪くないのに。なんで、涙が出てくるの)


 彼の意識は、今はない。媚薬を使用されたこともあるかもしれない。朦朧としていて、こういう時に昔の彼女と間違えても仕方がない。


 そうわかってはいても、胸が痛いぐらいに締めつけられた。


 ヴァンキッシュ本人は、こうしてくれと頼んでいない。グリアーニはそういうことを、職業としている女性を呼ぶと言った。


 けれど、「誰かがするなら、自分がする」と言い張り、こうなることを選んだのは、他でもないナトラージュだった。


(なんて、自分勝手な涙なんだろう)


 心地よく微睡んでいる彼の腕の中で、ひとりでに流れてくる涙は次から次から、頬を濡らした。


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