予期せぬ動き
【1】
北東部国境周辺は地場産業であった革なめし業を根こそぎにされて困窮しているかといえばそれ程でも無かった。
皮なめし産業が無くなった為、北部中央の様な牧畜を奨励する事も無くある意味不完全な四圃式農法に乗り遅れている。
苧麻の生産も北限に近いのであまり向いていないので、細々と三圃式の農法に転換し始めている。
当然偶然ではない。
皮なめし工房が移動する時に得たハッスル聖公国からの無理な革なめし依頼時の補償金を、全てライトスミス商会が信用組合を立ち上げて領地内の農地に再投資させていたからだ。
投資元のライトスミス商会が自営農を管理することで小作農が不遇を託つ事だけは避けられている。
おまけにエマ姉は困窮する領主たちにも農地を担保に資金の貸し付けも行い始めている。
しかしその北東部国境諸領はこの先またハッスル神聖国から革なめしの依頼を強要される
事になるだろう。
ハッスル神聖国の依頼を蹴って清貧派に転向する領地はエマ姉が領地経営を代行する組織を作り法人化を図るつもりだ。
しかし教皇庁の頸木を逃れられない領地は地獄に落ちる。
私財を売って革なめしをエマ姉の組合に依頼する領地はまだしも、増税をはかり締め付けようとすれば領地内の資産は全てエマ姉に取り上げられて爵位だけの文無し貴族が誕生する事になるのだ。
…エマ姉の希望は文無し貴族を握って行政まで法人化する事の様だけれど。
それでも北東部は逃げ場があるだけマシだ。
北部中央はもう逃げ場すらなく、ゆっくりと崩壊を待つだけだ。
そもそも大半の貴族は流通や経済の事が理解できていない。つい数年前までこの国は農本主義で、領主は農地を増やす以外の収穫量の向上方法すら理解していなかった。
それがいきなり付け焼刃のノフォーク農法に手を出したのだから領地経営も破綻する。
あのアントワネット・シェブリでさえも重金主義思想までが限度で近世的な考えから脱却できていなのだから。
その北部中央の領地では散発的な暴動が続いている。
ここ最近過激な清貧派教徒が現れているからだ。
聖女ジャンヌは平民であることに誇りを持ち平民を救う平民の見方だ。そしてジャンヌは困窮民に無償の治癒という善行を積んできた。同じように教導派も善行を施せという言葉は北部の困窮民に響いていた。
困窮して施すものなど持っていない北部中央の貧困層は善行としての施しを領主たちに強要しようとしているのだ。
北部中央領の困窮の原因を作った者としては辛いところもあるが、ここでの暴発は勘弁して欲しい。
あと少し、数年でラスカル王国は大きく変わるはずだ。
ジャンヌは必死で過激派の説得に努めている。
「暴動は起こさせない。流血沙汰は絶対にダメだ。そうなれば後々まで遺恨を残すし、復讐の連鎖が止まらなくなる」
「うん。今はそれが私の理想だよ。ライトスミス商会が私の背中を押してくれたから…。おかげで南部は豊かになった。北西部もそう。このまま進められれば血を流さずに理想を実現できる」
今ジャンヌの決意の腰を折るつもりは無いがそう簡単には事は進まないだろう。
フランス革命でもロシア革命でも革命後の粛清で死んだ人間の方が多い。無血革命と言われる政変でも新政権樹立後には前政権幹部の弾劾や粛清の嵐が吹き荒れる。
流血沙汰は避けられない可能性が高い。
いやもう既に不満を託っている農村や市民に弾圧という名の流血沙汰が始まっているのだろう。
私は迂闊にその流れの中にジャンヌが担ぎ出されないように、大規模な暴動に発展しない様に目を光らせているのだけれど、想定外の何かが動き出している様な気がするのだ。
【2】
北海の港町アジアーゴの城壁の外にはごみ溜めの様な貧民街がある。
城壁の壁に沿って並んだ掘立小屋は貧民や獣人属の吹き溜まりである。
アジアーゴは獣人属を嫌うペスカトーレ侯爵家の本拠地なので、獣人属が城内に住む事は許されていない。
それでも港湾労働や船乗りとして多くの獣人属が働いている。
彼らが住む場所としてこの掃きだめの町がペスカトーレ侯爵家から容認されているのだ。
そしてその掃きだめの中の汚れた小屋の扉に駒鳥の柄が小さくあしらわれた扉が有った。
「まさかこんな教導派の本拠地にアジトがあったなんて」
「オイオイ、アジトってなんだ。それじゃあ俺たちが悪人見てえじゃねえか」
「そうは言っても野良猫の悪人面じゃあ。盗賊ギルドだと言われても疑われねえぜ」
あまり広くない部屋の中に幾人かの若者たちが集まっていた。
「ここはアジアーゴで迫害された獣人属や貧民や…それに私達侯爵家に命を狙われた者を助けてくれた組織ですよ。私の父は高潔な衛士隊長でしたが濡れ衣を着せられて私たちを逃がすために教導騎士になぶり殺しに…」
修道女姿の少女は血がにじむほどに強く唇を噛んだ。
「この教会の手助けが無ければ私も母もきっと殺されていた。死ぬまで忠誠と正義を貫いた私の父と共に。だからペスカトーレ家が許せない」
「俺も一年前の海賊事件で殺されかけてこの教会に助けられたんだ。俺の家族のチビどももな。ここを管理しているド・ヌールのおばさんはハウザー王国でも農奴の逃亡組織を動かしてるんだとよ」
「野良猫さん、おばさんなどとド・ヌール様に失礼でしょう! ド・ヌール様は敵の足元こそが一番見えにくいんだと仰っておられます。昔はあの侯爵家のこんな近くにと思うと不安でしたが、いまではド・ヌール様のお言葉が良く解ります」
「ド・ヌール様って俺たちの親父たちが地主との借金の完済の時に立ち会ってくれた経理士さんだろう。ただもんじゃねえと思ってたけど聖教会の人だったんだ」
「少し違いますよ。私は清貧派のタダの平民信徒でジャンヌ様の信奉者です。元はラスカル王国の生まれですが今はハウザー王国民です」
奥の扉が開き地味だが小奇麗な格好の女性が入って来た。
「ド・ヌール様」
そう言って修道女が頭を下げると直ぐに皆の方を向き直って重々しく言う。
「ああ仰っておられますけれど、ド・ヌール夫人はハウザー王国の王子様の家庭教師なさっておられるのですよ」
「ガヴァネスってなんだ?」
「王子様に勉強を教える先生の事だったと思うよ」
獣人属の少年が手を繋いでいる人属の少女に聞いている。
「王子さまってジョン王太子か? それってすごく偉い人なんじゃないのか」
「勘違いしないで下さいね。ガヴァネスは担当職の名称で私は一介の平民なのです。それから仕えているのはジョン王子にではなく、ハウザー王国のエヴァン王子殿下とエヴェレット王女殿下よ」
ド・ヌール夫人はそう訂正すると、そのあと少し誇らしげに話を続けた。
「いまこの国は聖女ジャンヌ様のお力で変わり始めているわ。あなた達も知っているようにかつて頑迷な教導派だった北部でも西の国境よりの州はポワチエ州のように獣人属や平民が豊かに暮らせている。それはジャンヌ様の導きのお陰です。聖女様の後ろ盾になっている南部はもっと豊かになっているわ。私はハウザー王家やサンペドロ辺境伯家を通じてジャンヌ様の偉業の後押しを出来る事が今は一番誇らしいのです」
ド・ヌール夫人の言葉を受けて野良猫も口を開く。
「俺は学もねえし、バカだから難しい事は判れねえ。でも俺の家族のチビどもは今聖教会教室で働いて学問も身につけて立派な人間になれそうなんだ。これも聖女様のお力だそうだ。おれは悪事も重ねてきたが聖女様のお役に立ってあのチビどもが幸せになるなら地獄に落ちても構わねえ」
「皆さん、聖女ジャンヌ様の下に私たちはこの国を変えて行くために計画を進めてゆきましょう」
ド・ヌール夫人の言葉に皆は頷いてこれからの計画を練り始めた。
清貧派、教導派以外の第三勢力が本格的に動き出しました
それもアントワネットとペスカトーレ枢機卿のお膝元で
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