1陥れられた令嬢
「処刑されなかったことを、ありがたく思え」
殿下の嘲笑が背中に刺さる。乱暴に連れ去られながら、私は振り返ることなく唇を噛んだ。
もう、刃向かう気力さえ失っていた。
身の潔白を訴えても意味がない。聞いてもらえるはずがない。相手がそれを分かっていて陥れているのだから。この場にいる誰も、殿下には逆らえない。友人と思っていた誰も彼もが目をそらしていた。
私はこれから無実の罪を着せられ、国から追放される。正しくは、城の背後を守る国境の森へと捨てられる。そこは魔物の森と呼ばれ、入ったら生きて帰れないという、魔物が闊歩する曰く付きの森だ。処刑されなかったというが、むしろ処刑する方がよほど慈悲がある。魔物に食われて死ねと言われたも同然なのだから。
「憐れなものだな。伯爵家の令嬢ともあろう者が。跪いて命乞いすれば、俺が助けてやろうか。地下牢で首輪をつけてな」
森の入口まで私を連行してきた男は、騎士らしからぬ下卑た笑いを浮かべて私を蔑む。肩に掛かった手が気持ち悪く、反射的に身体を引いてしまった。
それが癇に障ったのか騎士の表情が醜く歪むのを見た。しまったと思ったときにはその手が振りかぶられ、避ける間もなく顔を張り飛ばされていた。
倒れ込み逃げようとすれば、薄ら笑いで剣を向けられる。
「貴様のような女には慈悲などいらぬようだな。森へ入れ。入らねば、切る」
何も持たぬまま森の中へと追いやられるしかなかった。
なぜか騎士は深くは追ってこず、このまま茂みに隠れて夜に森を出て逃げようと考えていた。
その考えが甘かったと知ったのはすぐだ。騎士がなぜ追ってこなかったのかも同時に知ることになる。
木の上から、向こうの茂みから、すぐ側の枯れ枝の隙間から……見える。見られている。辺り一帯を魔物が闊歩していた。
そんなに奥深くには入っていないのに。どうして。
来た場所を振り返れば、そこにも魔物がいた。
……違う。だって、さっき歩いてきたところは草むらじゃなかったのに。私が通ったはずの場所に、なぜなかったはずの草むらができているの? じゃあ私はどこから入ってきたの……?
入ったら二度と帰って来れないと噂のこの魔物の森は、興味半分に足を踏み入れた者が、そのまま行方不明になるというのは有名な話だ。昔、魔物討伐に向かった討伐隊は、そのまま帰ってこなかったという話もある。それらの話をいままでは、それだけ危ないから入ってはいけない、という意味ぐらいにしか受け取っていなかったけれど。
もしかしてこの森は、迷いの森……?
おとぎ話にある、人を知らないうちに別の場所へと運び迷わせる森は、この魔物の森のことだったのだろうか? そんな物が実在するだなんて、考えたこともなかった。
身体がガタガタと震え出す。元来た道はもうない。森の外へもう出られないかもしれない。辺りは魔物に囲まれていた。
逃げ出したくても魔物の動きの方が早いだろう。すり抜けていくことなんて、絶対無理だ。
逃げたくても、一歩を踏み出すのすら恐くなっていた。
がんばったのに。認めてもらいたくて、必死でがんばってきたのに。
政略的に決まった婚約だった。王子妃となっても恥ずかしくないようにがんばったつもりだった。
事故で両親を亡くし、叔父が父の爵位を継いでから、家の中ではまるで召使いのような扱いを受けるようになった。でも王子妃に選ばれ、家から逃れたい気持ちもあって、なおのことがんばり続けてきた。
でもその頑張りは、一人の少女の愛らしい笑顔や無邪気な愛情の前には、なんの役にも立たなかったみたいだ。彼女との未来を望む殿下にとって、私の存在は邪魔になったのだろう。だから、あらぬ罪を着せられて婚約を破棄され、罰を科せられた。
ここに至るまでに起こった出来事が、脳裏をよぎってゆく。
挙げ句、私はここで死ぬのだろう。
急に誰かから腕を引かれた。
驚いて振り返った瞬間、頭の中が真っ白になった。
「きゃぁぁぁぁぁ!!!」
馬に似た魔物が私の袖を噛んで引っ張っていた。必死で振り払いながら尻餅をついたところで、私のさっきまでいた場所に、大型の魔物が飛び込んできた。
黒い毛並みは禍々しく、肉食獣を思わせる牙に爪、グルグルと唸る声はまさに猛獣の威嚇だ。猪のような狼のような、よくわからない見た目をしている。
黒い魔物は牙の隙間から涎を垂らしながらこちらを振り向いた。皺の寄ったその顔つきは攻撃的で、私を睨みつけたまま苛立ったように唸っている。
私の服を噛んだままの馬の魔物が、再びぐっと引っ張って、身体がブンと放り投げられる。転がされた先で、元いた場所にまたその猛獣の魔物が飛びかかっていたのを見た。
馬の魔物に何度も転がされながら猛獣の魔物から逃れていたが、ついには捕まり、上からのしかかるように押さえつけられた。
まるでいたぶるかのように魔物が見下ろしてくる。だらりと流れた唾液がぴちょんと首筋に落ちてきた。
混乱していた意識がプツンと飛んだ。
悲鳴が響く。
この声は、私の、だ。
何も分からないのに、なぜか冷静な頭の一部が、ただそれを聞いていた。
そのとき、突然金色の影が目の前に飛び込んできた。同時に黒い魔物が目の前から消える。
何が起こったかわからないまま金色の影を視線で追えば、その正体はすぐに知れた。少し離れたところに金色の獣がいたのだ。
獅子だ。ソレは黒い獣を押さえつけるように首に噛みついている。
そして黒い魔物の首筋を口から離すと、今度は前足でその首を押さえつけた。
違う、つかんでいる?
四つ足だと思っていた金色の獣がゆっくりと立ち上がった。黒い魔物の首元を締め付けるようにつかんで、つるし上げていた。人の身体よりずっと大きい魔物を、片手で。
獣と思ったけど、おかしい。服を、着ている。
魔物? 獣? 顔は獅子のようだけれど、人間のような二本足で立っている。獣の骨格じゃない。どちらかといえば人に近い骨格だけど、身体全身は獣のようだ。
この世には「獣人」なる、獣と人の中間の生き物がいると聞いたことがある。けれどそれは与太話だと思っていた。
でも獣人が本当にいるのだとしたら、この獅子がそれなのだろうか。
手の形も不思議だ。人の手の形にも似ているけれど、やたらと大きくて、指の長さに気付かなければ、獣の手に見えただろう。
足もそうだ。靴を履いてないその足は剥き出しで、やはり大きい。こちらは人の足の形というには躊躇うような形をしていた。猫と同じように膝の下にかかとらしき関節がもう一つある。かといって足は猫のように丸くはなく、足の甲があるのだが、人間よりは甲の長さが短い。そして凶暴な爪が見える。
初めて見る獣人の姿に、私は今までとは違う恐怖で震えていた。けれど動くことすらできない恐怖の中、それを見ていることしかできなかった。
獅子の獣人に掴み上げられて、黒い魔物は息も絶え絶えに暴れている。
「……誰が、人間を害していいと言った。ここは人間と魔の森の境。ここでの殺生は、この私、レオンの名の下に、けして許さぬ」
黒い魔物を地面に叩き付けて、獅子の獣人は低く恐ろしい声を響かせた。
人間の言葉が、喋れるの……?
少し古めかしい言葉遣いだが、私たちが使う言葉と同じ物だった。
獣人が魔物に何かを言っている。聞き取ることはできないまま、自分の運命がその獅子に握られたことを感じていた。明らかな強者がそこにいた。
魔の森を統べる獣の王がいるという噂がある。この金の獅子がそうであるというのなら、私はどうなるのだろう。
魔物を吊し上げていた手が離れる。地面に落ちると同時に、魔物はさっきまでの凶暴さが嘘のように、しっぽを巻いて森の奥へと逃げていった。