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後編

 その日僕は遼子りょうこさんと一緒に、TVで放映されていた海外ドラマを観ていた。しゅうちゃんは会社に行っていて、まだ帰っていなかった。テーブルにアイスクリームとスナック菓子と炭酸飲料を並べて、僕はカーペットにクッションを置いて座りながら、ぽりぽりスナック菓子を口に入れていた。遼子さんはソファにひざを抱え座っていた。そのドラマは青春群像劇のようなもので、僕は特に面白いとは思わなかったが、遼子さんは、じっとTVを観ていた。


 主人公はメアリー。高校生の女の子。よく一緒にいる同じクラスのグループにケイトとティナという二人の女の子がいる。ケイトとティナの二人は親友同士で、メアリーとも仲が良い。三人で一緒につるむこともある。同じグループにはトムという男の子もいて、ティナと付き合うようになった。ちょっと複雑な関係になったが、あいかわらずグループは仲が良かった。

 メアリーにはビリーという親友がいて、彼は他のクラスにいる。二人は互いの恋愛事情にもよく通じていて、よくずけずけとものを言い合ってはけんかをしたが、ジョークのセンスがうまいビリーといると楽しいので、けんかをしながらもメアリーはビリーと仲が良かった。

 その日のランチをメアリーはティナと二人でとっていた。ケイトは用事があったので、その場にいなかった。ティナはメアリーにため息をついてケイトの愚痴をこぼしていた。メアリーはそれを聞いていたが、ティナが言うことはとても些細なことなので、いまいちぴんとこないまま話を聞いていた。

 ティナとケイトは双子のように仲良くいつも一緒にいて、メアリーの前でも、よく互いに「ティナは親友だから」「ケイトは親友だから」と言い合っていた。

 メアリーはビリーと特に互いに親友だと言い合うことはなかったが、二人は親友同士で、けんかはよくするけれどそれが彼らの日常だった。言いたいことを言い合ったし、それでけんかになっても、翌日にはけろっとしているのがたいていだった。なのでメアリーには、ティナの言うことがよくわからなかった。ティナが言うことはとても些細なことで、ケイトの言動の意図を悪意に考えすぎているような気がしたからだった。

「ケイトはそんなつもりじゃないのかもよ?」

 メアリーが言うとティナは、その時のケイトの様子などを詳しくメアリーに話した。それを聞いても、メアリーにはいまいちぴんとこなかった。

「それなら、直接ケイトに聞いてみれば? なんでそんなことするの? って。」

 メアリーがそう言うと、ティナは口をつぐんだ。

「ケイトはティナのことを親友だと思っているのに、ケイトのいないところでこんな風にティナにいわれていると知ったら、傷つくよ。だったら、ケイトに直接言ったほうがいいよ。」

 ティナは黙ってメアリーを見ていた。メアリーはその表情がなんとなく気になったが、それ以上自分に言えることはないので、ランチも終了したこともあり、二人は席を立つことにした。

 ティナとケイトはそれ以降もいつもと変わらず仲良く一緒にいた。トムとティナのカップルも付き合いは順調に進展しているようだった。それからもケイトのいないときにティナがメアリーにケイトのことを愚痴ることは何度かあった。ティナはその時の状況やケイトのそぶりを事細かに話すのだが、メアリーには、ティナが言うような意図がそこにあるのかいまいちぴんとこず、正直わからなかった。そういう様に思って見れば、そうも見えるのかもしれないけれど、考えすぎのように思えたのだ。それで最後はいつも同じせりふになる。

 ティナはよくこうやってケイトのことを陰でいろいろ言うけれど、ケイトからそんなことを聞いたことは一度もないし、むしろケイトはメアリーと二人のときでも、ティナは親友だから、と普通に話している。それを思うと、メアリーにはケイトが気の毒なような気もした。それをこうしてケイトのいないところで聞いているのも、ケイトには知らんふりをしているのも、なんだか後ろめたくて嫌だった。

 ビリーに新しい彼女ができて、メアリーによく彼女のノロケ話をするようになった。ビリーは彼女に夢中のようで、メアリーはそんなビリーがちょっと可笑しかったけれど、楽しそうに話すビリーの話に付き合って、夜中までよく電話で喋った。デートがうまくいったことを興奮していちいち報告しないではいられないくらい、ビリーは恋に夢中のようだ。まるで子供みたいで、メアリーはそれを可愛らしく思っていた。そのうち、メアリーにも新しい恋人ができた。メアリーの恋人ユージンは上級生で、彼女をいつも優しくエスコートしてくれる。二人の仲も順調に進展していった。

 微妙な空気もあったがグループのみんなは仲良かったし、ケイトとティナは相変わらず互いに親友と言い合ってはいつも一緒にいた。季節も変わり、そろそろみんながそれぞれの進路に悩む頃のことだった。 

 その日もメアリーはティナの話を聞いていた。ティナは、はっきりと憤慨していた。ティナが言うには、教室にケイトとトムが二人きりでいて、トムが机にひじを突いているそばで、ケイトがトムの腕を撫でるように手で触っていて、「あまり毛深くないんだね」と言いながら寄り添うようにしていた。そこへティナが入っていったら、ティナに気づいたケイトはすぐにその手を引っ込めた。らしい。

「なんなのよあれ!」

 ティナは嫌悪感を顕わにしていた。

 この頃には仲良く親友と言っているのはもう表向きだけという感じで、裏ではティナははっきりとケイトへの嫌悪感を口に出すようになっていた。メアリーにはティナとケイトの不思議なその関係性は理解できなかったが、ティナがもうケイトのことを腹立たしく思いながらいつもいることはわかった。それなのに何故、まだ親友のポーズを取り続けてまで一緒にいるのかは、全く理解はできなかった。なので、そのことを率直に聞いてみたこともあった。ティナはそれに関して、黙り込んだだけだった。

 ある日恋人のユージンがメアリーの家に遊びに来ていた時に、ティナが訪ねてきたので、メアリーは部屋に彼女を招いた。三人でくつろいでお喋りをしていたら、そのうちにティナがユージンに体を寄せてその腿に手を置いてなでるような仕草をしたので、メアリーは驚いて

「ちょっと!」

 と、ティナに注意した。

 スキンシップを気軽に取るほどユージンとティナは親しい友人でもないし、その仕草はかなり性的で不自然でもあったので、メアリーには不快だったからだった。ユージンはどう反応していいか困惑しながら、成り行きを見ていた。ティナは何も言わず手を引いて、普通にまたお喋りを始めた。そうして話していると、またティナは同じことをする。そこでメアリーはまた注意したが、ティナは何度か同じことをするので、メアリーは何故わざわざそんなことをするのかよくわからなかった。ただ不快だったが、何故か正面きって問いただしにくく、なんだかもやもやした気分になった。

 その日の夜、メアリーは今日あった事を電話でビリーに話していた。

「ユージンもユージンよね。やめろよ! くらい言えばいいのに!!」

 ぶつぶつ文句を言うメアリーにビリーは笑っていた。

「そんなの仕方ないじゃん、男だもん。ちょっとドキッとしたり嬉しかったりするしさ。お、俺に気があんのかな? 誘ってんの? とか。そんなの、むげにはできないだろ~! まあ、さすがに彼女の前ではちょっと困るけどさ。」

「あんたとユージンを一緒にしないで。」

「ばーか、男なんてみんな似たようなもんなんだよ。」

「それよりなんでティナはあんなことわざわざしたんだろう?」

「おまえとユージンが目の前でいちゃついてるから、ちょっとちょっかいだしたくなったんじゃないの?」

「だって、似たようなことをケイトにされたことあったんだよ、ティナ自身。なんなのあれ! ってものすごく怒って、ティナは自分で嫌だったって、私に言っていたのに、それが不愉快なことだって自分でちゃんとわかってもいて、それをあえてティナは私にしたんだよ? それって悪意でしたってことじゃん? 私、そんなことをティナにわざわざされなきゃならないようなこと、した覚えないんだけどな?」

「だからじゃないの? おまえが何かしたかまでは知らないけど、そのティナって、自分が味わった嫌な気持ちを、おまえにも味合わせたかったんじゃない? だからわかっててしたんだろ。」

「なんでよ。」

「知るかよ。女のやることなんて、わかんないことだらけだよ。理屈も何も通じないんだから。わかりやすいのはおまえくらいのもんだ。」  

「……あんたまた彼女とけんかしたの?」

「女なんて本当に宇宙人みたいなもんだよ!」

「……したんだ。」

 そこからビリーはぶつぶつ文句が始まったが、話があまりにも間抜けで可笑しかったので、結局メアリーとビリーはげらげら笑いながら、その夜の電話を終えた。

 To be continue――


 エンディングテーマ曲がポップな調子で流れる画面をそのまま観続けている遼子さんに、僕は声をかけた。

「面白かったですか?」

 彼女は「え?」と僕を見て、「ああ、うん。」とうなづいた。

「ふ~ん、そうですか。」

 僕はイマイチだった。

 遼子さんはひざを抱えたままエンディングテーマ曲の流れる画面を眺めている。

「ちょっとめんどくさいかんじですね。嫌なら付き合わなきゃいいじゃんって、僕なら思っちゃいますけど。」

「そうだね。私もこれくらいの頃そう思ってた。友達の言うことがよくわかんないってこと、けっこうあった。」

「そうですか。」

「でも今はちょっとわかる。ドラマ観ていて自分でも意外だった。メアリーはちょっと鈍感だったんだなって観ていて思った。ティナの気持ちがわからない上に正論を言って、ティナから同じ気持ちを味あわせてやりたいと思われたのかもなあって。ティナみたいなやり方は好きじゃないし、あまり仲良くしたいと思えないけど、なんとなく理解はできる。昔はそういうの全くわからなかったけれど。」

「でもメアリーはティナに別に悪いこと言ったりしてませんよね?」

「当時の私もそう思ったと思う。メアリーはティナのためにそれが良いと思ってそうした。だけどティナからしてみたら、自分と同じ立場に立っても、そう言えるの? っていう気持ちを持つかもしれない。昔の私にはティナの気持ちが全く理解できなかっただろうけど、今は少しわかる気がするよ。」

 CMに切り替わったTVを横目で眺めながら、遼子さんはそう言った。

「そういうもんですかね。」

「……私の不安を煽るようなことをあえて仄めかすとき、妹はいつも私の表情をよく見ていた。そして、私が動揺したり、傷ついたのを確認してから、満足そうにした。それはごく微妙な表情であったり、目の色に出る。私もそんな相手の表情をよく見ていた。

 でも、それを人に説明するのはとても難しい。相手があえてそれをしているのには気づくけど、なぜそんなことをするのかが自分にはわからなかったから、自分でも考えすぎなのかと思うし。

 それが執拗に繰り返されれば、自分に向けられているものがどうやら善意ではないらしいと認めるしかなくなってくるけど、わけがわからないからね。陰にこもった悪意って、実際に自分がそれを受けてみて、それを自分で認めてみるまでは、わからないものなんだと思う。状況を事細かに説明しても、些細なことにしか聞えないから、本当にただ考えすぎているとか、悪意に取りすぎているんじゃないのかって、思ってしまう。自分でもそう思うんだもの。

 だから私もわからなかった。メアリーみたいに。ティナのように友人がその状況を事細かに説明すればするほど、ますます考えすぎなんじゃないかな、って思ってしまったし、それを言い募る相手に対して、嫌悪感を覚えた。陰口を聞かされているわけだしね。本人に確認してみる以外に確かめようがないことだから、それを私も勧めた。

 でも今はわかる。自分が受けたことを認めてみて、初めてわかる。これは証明しようがない種類の巧妙なゲームなの。

 関係性の病みたいなもの。

 嫌がらせを楽しむために相手から離れず、そういう関係に相手を留めようとする。嫌いなのに離れないで、相手をねちねちいたぶるのを楽しみたいために意図的に相手を傷つけ害する陰湿なゲームを続けようとする、そういう種類の病んだ関係もあるのよ。

 普通で考えるなら、嫌いなら離れるだけなんだけどね。どういうわけか、そうじゃないの。

 文字どおり、腐れ縁って、そういう関係のことなんだなあって思う。病んでいて腐敗した関係。程度の差はあれどそういう関係性に何故だか執着して、虐待をする為の精神的な奴隷や犠牲者を必要としていて、自身の腐敗した内面を反映させるドラマに人を巻き込むような種類の嗜癖しへきを持った人はいるの。」

「嗜癖ですか?」

「これはもう病んだ趣味嗜好みたいなものなのよ。」

「趣味嗜好……」

 すき好んで楽しむもの……。そう言われればそうかもしれない。嫌がらせ自体が面白いからやるわけだしな。

「この病んだ関係性は、人から人へと伝播して感染していくものなの。やっている方は大抵自分は大したことしてないって思って過小評価しているけど、自分より良心的とか立場が弱い相手に自分がやられたことを上乗せするかのようにして意図的に傷つけたり、害を与えたり、嫌がらせをする、そうしてどんどんエスカレートしていく種類のものなの。

 どこかで断ち切るなり止めるなりしないと、ドミノ倒しのようにあっという間に集団感染したりもする。

 腐敗物の処理は基本的に廃棄だから、そうなってしまった関係は解消するのが基本だけど、大抵は相手が逃げられないのを見越してこの種のゲームを仕掛けるもので、病んだ腐敗した関係性から脱け出すのが難しい場合もあるし、それが日常の中に織り込まれて常態化している集団や共同体、組織もある。

 そういうこともあり得ると実感を持った上だったら、今なら、どちらの可能性もあるとしたら、それを打ち明けた相手の立場を、もう少し慎重に考えるかもしれない。

 あんまり好ましくない事ではあるけれど、今までわからなかった人の気持ちがわかるようになったのなら、これも無駄でもない経験ってことなんでしょうね、きっと。」

 なんとなく僕は黙りこんでしまった。

 複雑な気分だった。

「数日前、仕事に行く途中で、足に糸が絡まって動けなくなって金網に引っかかって鳴いている小鳥を見つけたの。」

 とうとつに変わった話題に僕はついていけず、一瞬、呆けたように「はあ」と言ってしまった。遼子さんはお構いなしに続けた。

「足に絡まった糸くずに木の枝が絡まってしまっていて、それが金網にも引っかかっていたんだ」

「外してあげたんですか?」

「うん。自分では抜け出すのが無理な状態で、必死に鳴いてたのね。逆に捕食者に見つかるリスクもあったのに。なんとなく私、呼ばれた気がして、何だろうなってそこに近づいて見てみたら、その状態だったわけ」

「へえ」

「でも、私、ハサミとかも持ってなくて、仕事に行かないといけないし、雨も降っていたし、この子をこのままにしとくわけにもいかないし、って困ってたんだけど、ふと思いついて隣にある神社の集会所に声かけてみたの。そうしたら、運よくそこにはお年寄りの寄り合いで集まっていた人たちがいて、おばあさんのひとりがハサミを貸してくれた。それで、ここでやりなさいよって中に入れてくれたので、集会所の中で小鳥の足に絡まった紐を切ることにしたんだけど、小さいし、恐がって動くし、私も刃物扱うことで逆に傷つけないか怖いし、なかなかうまく切れなくて苦心していたんだ。

 そのうち一人のおじいさんが近づいてきて、こうしたらどう、とか言って、私のそばで心配そうに小鳥を覗き込んで何とか応援しようとしてくれたの。隣りにいたハサミを貸してくれたおばあちゃんは目が悪いから自分には助けてあげられないし……ってはらはらしながらも私のそばについて小鳥を助けたいって思ってるのがよく分かった。

 ちょっと前まで私は、小動物は捕まえられたショックで死ぬこともあるし、もしかしたら無理かも……って思っていたのね。もしかしたら自分は無駄なことをしているだけかもって。

 でも行きがかり上で、小鳥救助隊(?)が周りに集まってきたので、私も、どっちみち助からない命かもしれなくても、とにかく今はこの子の足を自由にしてやろうって、遅刻するとかこれを今してどうなるとかあれこれ考えるのを止めて集中することにしたの。

 そうして何とか絡まった紐を切ってやったら、小鳥はすぐ飛んで逃げようとして、他の人が開け放ってくれた窓からそのまま元気よく飛び立っていった。

 それを見送った私もおばあちゃんもおじいちゃんも、なんだか一同、ああよかったあ~~って嬉しくなって、見知らぬ人たちとのほんの短い団結だったけど、なんかいいものを分ち合って、お礼を言って別れたのね。結局仕事にも遅刻はせずに済んだし、余計な心配する必要なかったんだわって、後で思った。」

「へえ……」

「小鳥の足に絡まっていた紐って、私たちが服についている糸くずをポイってそのまま放ってしまうようなくらいのものだったの。でもそのくらいのものでも、こんな小さな生き物にとっては致命的な凶器にもなりうるんだって、自分でも改めて気づいて驚いた。よく考えればそうなのに、今までそんなこと考えもしなかったから。私もどこかでこんな糸くずをあまり考えないでポイって捨てたことあったかしらって考えちゃった。ぱっと払うように、あまり考えずにそうしたこともあったかもしれないし。」

 僕は淡々と話す遼子さんを眺めながら、どうして柊ちゃんが彼女に対して、慎重に見守るような姿勢であり続けるのか、なんとなくわかったような気がした。彼女の心が旅する過程を見守っているのだ、きっと。 

 ゲストルームはいつ来ても使用できるようになっていて、そこに飾られる花は絶えることがなかった。


 

「あ、猫だ。」

 庭で夕涼みをしていたら、遼子さんが茂みのところにいた茶色い野良猫を見つけて嬉しそうに声を上げた。

「お、久しぶりだな。」

 柊ちゃんが近づくと、その猫は茂みから姿を現して、彼に擦り寄って甘える。

「なついてるね。」

 そう言う遼子さんに、僕が言った。

「たまに来るんですよ。」

 遼子さんは柊ちゃんと猫のそばに近づいて、猫をそっとなでる。猫はごろごろのどを鳴らして、頬をすり寄せていた。

「ひとなつこいね。」

 柊ちゃんは「ちょっと待ってろよ?」と猫の頭をなでて、家の中に入って行った。遼子さんが猫をなでていると、猫はごろんとおなかを見せてひっくりかえった。

「野良なのに、そんなに人間を信用したら危ないじゃない?」

 そう言いながらも、笑ってなでている。

 そこへ柊ちゃんが冷蔵庫から出してきたらしいかにかまのパックとミルクを入れたお皿を手に戻ってきた。  

 猫は素早く立ち上がり、柊ちゃんの元へ駆け寄ってミルクを飲んでいた。そのそばで彼がパックを開けてかにかまのビニールをむき、プラスチックトレーにそれをほぐしていたら、猫は今度はそっちに飛びついてむしゃむしゃ食べ始める。むいたそばから猫が食べるので、柊ちゃんはしばらくそれにかかりきりになっていたが、猫は数本のかにかまをたいらげ、身づくろいをして、またふいっとどこかへ行ってしまった。

「行っちゃった。気ままねえ。」

 遼子さんがそう言うと、皿を片付けながら柊ちゃんは苦笑していた。

「あいつは野良がいいらしいんだ。家に入れても居つかないで、すぐ外に行っちゃう。家の猫にはなりたくないみたいだ。でもたまにこうして会いに来る。」

「ふ~ん。」

 遼子さんはしばらく猫が消えて行った方向を見ていたが、足元に落ちていたかにかまのビニールに気づき、それを拾う。

「一緒に捨てるからここに入れて。」

 柊ちゃんがトレーを差し出すと、彼女はそれをその中に入れた。

「蚊も出てきたし、そろそろ中に入ろう。」

 柊ちゃんがそう言うと、彼女はうなづいて後に続いた。僕は夕陽に照らされている二人を後ろから眺めながら、その後に続いた。

「ねえ、かにのなぞなぞって、知ってる?」

 リビングに入ってとうとつに遼子さんが言ったので、僕と柊ちゃんは顔を見合わせた。

「なんだそれ?」

 柊ちゃんは笑って彼女を見た。

「最近、父から私たち姉妹に送られてきたメールにそれがあったの。たまに父とも連絡を取っているんだけど、同報送信でそれが送られてきたんだ。かにかま見てたら思い出しちゃった。」

「なぞなぞ?」

「うん。ある国では蟹がたくさん取れる。その蟹はふたの開いたかごにいっぱいに入れておけば、何故かその中からは逃げ出さないんだって。それは何故だ? っていうの。」

「知らない。」

「知らない。答えは?」 

「中の蟹が互いに足を引っ張りあうから、蟹は外に抜け出さないんだって。一匹の蟹が抜け出そうとすると、中に居る蟹がその足を引っ張る。そうやって足を互いにみんなで引っ張り合うためふたは開いてるのに、みんなそこから抜け出せない。逃げられない。これは本当の話らしい。」

「それはまた……」

「なかなかシュールだな。」

 柊ちゃんがそう言うと、遼子さんは

「でしょ。」

 と言った。

「なんでこんななぞなぞを送ってきたのかな、とか思ったけど。」

 机に置いてあったかにかまのパックを取って、遼子さんは冷蔵庫にそれをしまった。

「お父さんと連絡を取っているんだ。」

 柊ちゃんがそう言うと、彼女はうなづいた。

「たまにね。」

「君が離婚したことは伝えてあるの?」

「うん。詳しく話したりしないけど、離婚したことは知ってる。」

「そうか。」

 なんとなく僕は黙って二人を眺めていた。

「遼子はそのなぞなぞになんて答えたの?」

「他の蟹のはさみや足がからみついて、身動きがとれないからじゃないかって。ぱっと頭にその光景が浮んだからだけど。自分の足やはさみを無理に動かしたら、他の蟹の足がとれちゃうでしょ。だから、動けない。ふたは開いてるのに、出られない。」

 柊ちゃんはちょっと彼女を見つめ、少し間を置いてから言った。

「なるほど。それもなかなかシュールな絵だな。」

「妹が何て答えたのか知らないけれど、答えが父から送られて来た時、なんとなく、複雑な気分だった。」

「……父親だから、何かを察したのかもね。」

「……私もチラッとそんなことを考えた。でも、本当のとこはわかんないけど。単なる偶然かもしれないし。」

 彼女がそう言うと、柊ちゃんはまたちょっと黙って彼女を見ていた。

「もしそのかごの中に居るのが君だったとしたら、どうすればそこから抜け出せると思う?」

「私? う~ん、どうかな、抜け出せない気がする。やっぱり身動きとれなそう。」

「そう? 本当はもうちょっと考えたんじゃない?」

「……うん。でも、自分が抜け出せることになるかわからない。私が思ったのは、そもそもみんなで足を引っ張り合うからいけないんでしょ、だったら、自分は足を引っ張られたとしても自分から相手を引っ張ることはしないで、逆に出ようとしている仲間の足場になってでも押し上げてやれば、逃げ出せるものが出てくるじゃない。そうやって先に仲間を出してやるほうに専念すれば、種全体でも学習して、助かるものが出てくるんじゃないかって。そうでないとどちらにしろ延々と同じことの繰り返しになるんじゃないかなって思った。」   

 柊ちゃんは静かな表情で彼女を見ていた。

「まずはその輪を断ち切るしかないってことだね。」

「そう、そんな感じ。やられたらやりかえす、みたいなことをしていても延々と同じことを繰り返すことになるから。私は何よりそのループから自分を解き放ちたい。」



 いつもふらっとやって来てはふらっと帰っていく遼子さんは、ものすごくいっぱい話したかと思うと、また半分幽霊みたいになったり。柊ちゃんとさっきまで話していたかと思うと、その隣ですうすう眠っていたり。

 彼女は柊ちゃんのそばにいると、そのまま眠ってしまうことが多かった。無防備な子供みたいだった。柊ちゃんは友人としての距離をとりながら、そんな彼女を支えていた。傍から見ていると二人の関係はちょっと不思議な関係だった。

 親戚でもないのにここに居候している僕も、考えてみればちょっと不思議な存在でもあるし、柊ちゃんの周りにはちょっと不思議がたくさんあるようだ。

 家族とは違うのに、でも本当の家族以上みたいな、ちょっと不思議な空間がここにはあって、遼子さんはここでそのあたたかい繭に包まれるようにして守られているようだった。僕にしても、それは似たようなものだった。柊ちゃんは本当に、親以上に親のようだったのだ。



 遼子さんと僕が二人で柊ちゃんが会社から帰宅する前に一緒に夕食の準備を始めようとしていたら、由貴よしきが彼女を連れて遊びに来た。

「兄ちゃんはまだ?」

「うん。まだ帰ってないよ。」

 僕が答えると、由貴は「土産だ。」と海外製のお菓子の箱を僕に渡した。遼子さんには「おまえにもあるぞ。」と小さな小箱を渡していた。

「海外旅行に行ってたの?」

「ああ。彩乃あやのと行って来た。」

 由貴はそう言って、僕に彼の彼女を紹介した。女性らしい雰囲気のきれいな人だった。遼子さんとも知り合いのようだった。  

「遼子、元気そうね。」

「彩ちゃんも。お土産見てもいい?」

 二人は仲良く喋っている。 

「来るなら連絡くれればいいのに。」

 僕が言うと、由貴は「兄ちゃんにはメールしといたぞ。」と言って、冷蔵庫を開けて中から炭酸飲料のペットボトルを出してコップに注いだ。 

「そうだったんだ。」

 言っといてくれれば食事もちゃんと準備しといたのになあ、と僕が思っていると、由貴はけろっとした様子で言った。

「ああ。一時間前くらいにな。」

 彩乃さんがせっかく来て下さったのにたいしたものもないし、申し訳ないではないか。

 僕がそう思っていたら、遼子さんが

「かわいい。キィホルダー?」

 箱の中からダルマのような物体を取り出していた。

「小さいけどちゃんとこれ中にもあるんだよ。」

 彩乃さんがそう促すと、遼子さんはマスコットをぱかっと開けて中から一回り小さい同じ形のものを取り出していた。ダルマ型のマスコットはマトリョーシカだった。

「よくできてる!」

 笑って遼子さんはどんどん出てくる一回り小さい精巧なマトリョーシカを見ていた。

「由貴が選んだの。」

「なんかおまえみたいだから。」

 由貴はコップに注いだ炭酸飲料を飲みながら笑った。

「……ありがとう」

 赤ちゃんの起き上がりこぼしにも似ただるま型のマトリョーシカを眺めながら、遼子さんはちょっと複雑そうな表情でお礼を言っていた。

「まだあるんだよ。」

 笑って彩乃さんが促し、遼子さんが小さなマトリョーシカを開けると、最後に出てきたマトリョーシカは純金細工だった。

「兄ちゃんが帰ってきたら夕飯はみんなで外に食いに行こうぜ。」

 由貴がそう言いながら、自分のコップを彩乃さんにわたす。

「あ、もしかして作ってる最中だった? ごめんね。」

 彩乃さんがそう僕らに言ったので、

「ううん、これから始めようとしていたとこ。ちょうどよかった。」

「あ、コーヒーか紅茶、あとジュースとかもありますけど、何がいいですか?」

「あ、おかまいなく。これでじゅうぶん。」

 笑いながら言って彩乃さんは由貴から渡されたコップから炭酸飲料を飲んだ。

「俺はコーヒーもらう。」 

 由貴はそう言ってソファにどかっと座ったので、僕らはなんとなく目を合わせてちょっと笑った。

「せっかくだから、柊ちゃんが帰るまでお茶してようよ。いろいろあるから、彩ちゃんも一緒に選ぼう。」

 遼子さんはそう言って、キッチンの戸棚のところに彩乃さんを連れて行き、一緒にお茶やコーヒーの缶を一緒に選ぶ。

「いろいろあるね。」

「ハーブの効能なんかもけっこう役に立つので、柊ちゃんが仕事用にいろいろ揃えているんです。」

「これはちょっと元気出したいときにいいらしいよ。こっちはリラックス効果があるんだって。新陳代謝を高めて美肌効果があるのもあるよ。」

「あ、じゃあそれ。」

「私もそうしようと思ってた。」

 くすくす笑いながら楽しそうに二人は一緒にお茶を淹れ始めたので、僕はコーヒーメーカーをセットしながら少し華やいだ雰囲気で楽しそうにしている少女のような二人を眺めていた。

 旅行の話なんかを聞きながらコーヒーやお茶を飲んでいたら柊ちゃんが帰って来たので、僕らは外に食事をとりに出かけることにした。海外沿いにあるシーフード料理のお店に入って楽しくお喋りして、外に出ると夜風が気持ちよかったので、僕らはそのまま少し夜の浜辺を散歩することにした。月が海に映って、明るい光の道を波間に映し出していた。

「翔太君、柊さんのところでアルバイトしてるんだよね。」

 彩乃さんに言われて、僕はうなづいた。

「社会勉強も兼ねて、みたいなもんですけど。」

 柊ちゃんと由貴は少し先を二人で話しながら歩いていて、彩乃さんと僕と遼子さんはその後ろを三人で歩いていた。

「進路に悩める高校生だって、由貴が言ってたわよ。」

 彩乃さんが微笑んでそう言って、僕は少し赤面した。

「はあ。」

「社会勉強には違いないけれど、ここでのアルバイト、少し特殊だよね。」

 遼子さんはちょっと笑って言った。

「まあ、確かに。でも、基本的に仕事って、誰かに喜んでもらいたかったり、役に立ちたい気持ちが、原動力になるんだなってことがわかっただけでも、十分勉強になりました。実際にやってみて気づくこともけっこうあったり、学ぶことって多いです。」

「まじめねえ。」

「ほんと。」

 僕はまた少し赤くなった。

「あ、でも、初めからそのつもりだったんじゃないんです。結果的にそうなっただけで、初めはただ進路問題から逃げたくて来た様なもので…」

「よくやってるって、由貴が言ってたわよ。柊さんもだいぶ助かってるみたいだって。」

「私も、翔太君に助けてもらってるよ。」

「やめてくださいよ。」 

 くすくす微笑む二人に挟まれて、僕はなんか照れくさくて居心地悪かった。柊ちゃんと由貴はいつのまにかずっと先にいるし、ちょっと困っていたら、

「ちょっと座ろうよ。」

「そうだね。あの二人、足速いんだもん。ちょっと疲れちゃった。」

「翔太君も。ここで二人が戻って来るの、一緒に待ってようよ。」

 成り行き上、砂浜に三人で腰を下ろすことになってしまった。遼子さんと彩乃さんは、波打ち際のほうにいる柊ちゃんと由貴のシルエットを仲良く眺めている。

「遼子、元気そうでよかった。」

 彩乃さんがそう言って、遼子さんを見て少し微笑んだ。優しい微笑だった。

「いろいろ心配してくれて、ありがとう。」

 遼子さんは少し照れて答える。

「由貴に強引につれて来られたんでしょ?」

「ああ、うん、まあ。でも、今は感謝してるよ。ここにつれて来てもらってよかった。」

「そう、ならよかった。」

「由貴だけでなくて、みんなに感謝してる。彩ちゃんにも、柊ちゃんにも。翔太君にも。私、自分のことでいっぱいで、今もそうだけれど……、いろいろ迷惑かけちゃって、お世話になりっぱなしで……ごめんね。本当にどうもありがとう。」

「そんなこと、遼子は気にしなくていいんだよ。」

「そうですよ。」

 遼子さんは少し気弱な微笑で答えた。

「……もっと早く、連絡くれればよかったのに。」

 彩乃さんは彼女にちょっと沈んだ声でそう言った。

 遼子さんはちょっと黙っていたけれど、静かな声で答える。  

「ごめんね。でも、なんだか、わけわからない状態だったし、支えてくれようとする人にまで散々迷惑かけてきている状態で、これ以上誰かに頼ったら、今度こそ本当に自分が壊れるんじゃないかとも思ったんだよね。退路を断つみたいに一人にならないと、本当に一人で立ち上がれなくなりそうな、そんな気もしていたの。」

「そんな……」

 言いかけて、彩乃さんは僕をチラッと見て口をつぐんだので、遼子さんが言った。

「あ、いいの、翔太君も、私がここに来ることになった経緯知っているから。」

「なんだか成り行きで……」 

 僕がそう言うと、彩乃さんは、ちょっと息をついた。

「ああ、そうなの。」

「すみません。」

「何であなたが謝るのよ。」

「なんとなく。」

「謝るのはこっちのほうだよ。」

 言って遼子さんと僕はちょっと笑った。

 彩乃さんは頬杖をついて遼子さんを眺めながら言った。

「遼子、あまり変わらないね。」

「そう? だいぶ昔と変わった気がするけどな。」

「でも芯のところは昔のままだよ。」

「そうかな。」

 首を傾げる遼子さんに、彩乃さんはさばさばした調子で笑った。

「まあ、この年まで女やってればいろいろあるもんね。変わるところもある。」

「そうでしょ。」

「そこはお互い様よね。」

 ふふっと笑っている二人はなんだか共犯めいた微笑を交わしていた。

「二人は昔からの知り合いですか?」

 僕が尋ねると、彩乃さんはうなづいた。

「そう。十代の頃からのね。」

「同じ学校だったんですか?」

「違うけど。まあ遊び仲間のグループにいたというか。」

「そんな感じ。」

 ふふっと二人はまた共犯めいた微笑みを交わしていた。

「でも、本当に遼子が元気そうで良かった。ここに引っ張ってきた由貴も無駄じゃなかったみたいね。」

 彩乃さんは言って、彼女を優しい表情で見つめた。

「うん。感謝してるよ。」

 彩乃さんはちょっと考えてから彼女に言った。

「離婚を魂を離すって書いて、離魂でもある、と表現した作家がいたけれど、それだけエネルギーを使うことでもあるんだろうなって思った。周りにも離婚経験者がいるけれど、独特のエネルギーの使い方をするみたいだなって見ていて思う。……でも、幸か不幸か遼子は子供がいなかったから、その分よかったのかもね。」  

 彩乃さんがそう言うと、遼子さんはうなづいた。

「そうかも。ほんとうに幸か不幸か、そこはそうなのかもしれない。親のありがたみも、また違う意味で考えさせられた。母のことだけでなく父のことも、考えさせられた。何故父がひとりで家族から去っていかなくてはならなかったのかとか。祖父母の世代のことも。そこから受け継がれてきて今自分につながっているいろんな物事とか、いろいろ遡って考えたりすることも多かったな。なんだかいろんなことをあっという間に駆け抜けて見てきたみたいな、数十年分凝縮して生きた気もするよ。」

「ふうん、そういうものなの。」

「うん。なんだか気分はすっかり年寄り。」

「まだ若いじゃないの。」

 彩乃さんはそう言って笑った。 

 初めて会ったときの遼子さんの姿から老人のようにひからびた印象を持ったことを、僕はなんとなく思い出していた。そんな状態で柊ちゃんに会いたくなんてなかった、と彼女が言っていたことも、同時に思い出していた。遼子さんは彩乃さんに笑顔を返しただけだった。それが初めて会ったときのような無理した笑顔ではないことが、救いのようにも思えた。

「ここに来て、なんとなく、何故私の結婚がああいう形で終わることになってしまったのか、改めてわかったような気もするんだ。」

 遼子さんはそう言って、波打ち際にいる柊ちゃんと由貴のほうを眺めていた。

 彩乃さんは何か言いかけたけれど、黙ってうなづいて遼子さんを見つめた。

「ものすごく勝手なことかもしれないけれど、柊ちゃんに会って、そうして、わかった気がした。うまくいえないけれど、適切な距離というかなんかそういうものが私に必要だったんだな、って思ったんだ。夫は私を助けてくれようとして、支えてくれた。それには感謝してるの、本当に。でも、同時に男女の仲で、彼は私の夫でもあったから、そこに支配と依存の関係というか、そういうものも生じてしまった……ものすごく身勝手なこと考えてると自分でも思うけれど、なんだかそう思ってしまった。私本当にひどいことを言ってると思うけれど。」

「……なんとなくわかる気もするわ。結果として、相手を弱らせたり、だめにしてしまうような手助けもあるのよ。」

 彩乃さんは言った。

 僕は黙っていたが、何故かそこは同感だった。

 柊ちゃんが遼子さんに接するときの様子を見てきていたから、かもしれない。

 柊ちゃんが彼女に接するとき、そこにはいつも適切な距離や礼節のようなものと、よけいなものや逃げのない、誠実さのようなものがあったからだ。それがどれだけ彼女に安心感をもたらしていたかも、見ていてよくわかった。こういうものは理屈ではない。きっと感覚的にダイレクトに相手に伝わるものなのだ。

 人間なら誰でも相手からよく思われたい気持ちや、互いの関係性を考慮する思考が働くのは当然だ。そこによけいな味付けやごまかし、ある種の駆け引きや心理操作のようなものが生まれるときもある。

 でもそれは、どんな些細なものであっても、傷ついて弱った人には精神的な感染症のように痛みや発熱を起こさせてしまうこともある。

 現実としてそういうこともある。

 何かでとても傷ついていたり、心を病んでしまった人を支えるって、本当にたいへんなことだ。

 ありのままにも歪んでも映し出してしまう鏡を前にして、自分自身を精査されるような、厳しい立場に立たされてしまうことなのだ。

 何かでとても傷ついていたり心を病んでしまった人を支えるときには、そういう割に合わないような厳しい要求の前に否応なく立たされてしまうことも現実としてあるのだ。

 そしてそこには何か適切な距離感のような、ある種のバランス感覚が必要なのだな、というのは、柊ちゃんをよく見ているとわかった。

 だから、一般的にもそういう専門家の手助けが必要になるのだろうと思う。

「愛情や思いやりだけではどうにもならないことってあるものね。そうしようと思ってしたことではなくても、結果的に相手が立ち上がる力を奪ってしまう手助けも、現実にはあるものだもの。たとえそれが良かれと思ってしたことであってもね。だから、ややこしかったり、悲しい結末になることもある。そういうものなのよ。」

 彩乃さんは遼子さんにそう言った。

「本当に彼に対して申し訳ない気持ちを持ちながらも、こんな人でなしみたいなこと、考えてしまう。なのに、やはり別れるべくして別離の道を辿ったんだな、ってどこかで酷く醒めているような自分がいる。ゆるしてともいえない、あまりにも申し訳なさすぎて。自分で自分が厄介な人間なんだな、って本当に思う。自分が自分であることを悲しく思う、彼と居ると私はいつもそうだったけど、今はもっとそうなの。」

 遼子さんが罪悪感や自己嫌悪の嵐をその心中に抱えているのが、僕にもわかった。でもそれは、自分でその葛藤をも超えていく何かを見つけるしかないんだろう。

「遼子の元旦那さんがどう思っているのかは私たちにはわからないけれど、後はもう神のみぞ知るよ。それぞれが自分の人生に責任を持つしかないんだもの。現実に遼子は自分にできる最善と思える選択をしたのでしょう? それでよかったんだよ。私たちは遼子が決めたその道を応援したい。」

 彩乃さんは彼女にそう言って僕を見たので、僕はうなづいた。彩乃さんは続けて彼女へ言った。

「支える側には支える側の、支えてもらう側には支えてもらう側の、その立場になってみないとわからないことがある。遼子はただそれを、支えてもらう側に立って、現実として知っただけのことだと思う。どこかで酷く醒めて物事を見ている自分がいるのは、それだけ冷静に物事を見ていることでもあるでしょう? その力が遼子自身を支えてここまで導いたんだって、私は信じたい。それを責める必要なんてないと思う。ありのままに現実を冷静に見るときには、ある種の非情さが存在するのは必然のことだと私は思うけれど?」

 彩乃さんはその女性的な容姿からは意外なほど男前なさばけた人だった。なんとなくすっきりした、風通しのいいことを言ってくれる人だった。大人のかっこいい女性という感じがした。 

「彩乃さんかっこいいです。」

 僕がそう言うと、彩乃さんはきょとん、とした顔をした。その表情が打って変わってあまりにも可愛らしかったので、思わず僕と遼子さんは笑ってしまった。

「何で笑うのよ。」

「いえ、なんかつくづくギャップがある人だなと思って。」

 彩乃さんはちょっと赤くなって言った。

「もう、人が真面目に話しているのに。」

 遼子さんは笑いながらその目からにじんだ涙をちょっと指でぬぐった。

「うん、ごめん。彩ちゃんありがとう。」

「……遼子、旦那さんと離婚した後でも会ってるんだって?」

「うん、たまに。彼がうちに来る。今は友達って感じで、今の関係の方が良好な気もする。」

「遼子がちゃんとやっていけるのか、心配なのかもね。」

 彩乃さんはそう言って彼女を見つめた。

 遼子さんは少し視線を伏せた。

「多分責任感じてるのか、それで様子をみに来てくれてるのかもしれない。本当に優しい人だから。彼は本当に心のやさしい、おおらかで、素直な心の人で、私は本当に彼が大好きだった。こんな人になれたらいいな、っていつも本当は憧れ半分嫉妬も感じるくらい尊敬もしていた。その気持ちは今でも変わらないけれど、結婚しているときは、不安や自信のなさからそれを素直に信じることができなくなっていた。だから手離してようやくそれを素直に見ることができるようになれた気がする。」

「……欲張りになったり、自信のなさから自分や相手を見失ったり、意地張ったり、恋するってなかなか厄介だもんね。恋っていうと聞こえがいいけど、何か身も蓋もなく自分の欲望丸出しになるっていうかさあ……」

 彩乃さんはため息をついた。

「そうだね。」

 遼子さんはちょっと笑った。

「……会っていて大丈夫なの?」

 遼子さんはちょっと彼女を見つめ返して笑った。

「彼の前ではしっかりしてないと、って思うから、それはそれで自分にもいいの。ここにいるときみたいに、ぐずぐずした自分で日常いるわけではないよ。とにかく自分がしっかりした姿でいないと話が進まないからそうしてたんだけど、でも、それが支えにもなった気がする。」

「ふうん」

「悲しみに沈んでばかりではどちらにしろ、歩き出せないから、ふりでもなんでもいいから元気にしてるほうがよかったんだ。

 もうだめだってわかっていても、彼は優しすぎて、終わらせるべき結婚を彼のほうからは終わらせることができないのがわかってたし。とにかく彼を私から解放してあげないといけない、その気持ちが自分を支えてもいた気がする。

 彼には幸せになってほしい。温かい家庭や子どもを持って、夢を実現してほしい。私がそのそばにいられないのは本当に悲しいけれど、私にできる恩返しはそれだけだし。」

 こうして彩乃さんとやりとりしている彼女もかなり元気そうだった。半分幽霊みたいな状態でいるときが嘘みたいに。日常の顔と、非日常の顔、みんなそれぞれを使い分けて生きているんだなあ、と、改めて思う。どっちが嘘で本当、というわけでもなく、どちらもそれなりに真実なんだろう。自然に切り替わるだけなのかもしれない。僕はなんとなくそんなことを思いながら二人の様子を眺めていた。

 柊ちゃんと由貴はまだ波打ち際のほうで、二人で何か話しているようだった。遼子さんと彩乃さんは一緒に月明かりに浮かび上がる彼らのシルエットを眺めていた。


 僕は遼子さんみたいに優しくもないので、彼女が訥々と話す内容を聞きながら、いつもふと思うことがあった。

 信仰を持っている人の中には、人を善意で理解しすぎる傾向のある人と、そういった人の善意につけ込むことをたいして悪気なく平気でする人がいて、その両方の人たちにとってよくない温床になってしまう土壌が宗教というものの中にそもそも基本的な問題としてあるんじゃないのかなあ、と。

 信じる心は誠実さとか愛とかと同じように人として大切なもの尊いものだけれど、それを悪用されたり、したりするのを助長する側面があるのではないか。

 あまりに善意で人を理解しようとしすぎる人(それは僕からみた遼子さんのようなひとだ)をかえって真実や真理から遠ざけてしまうとか盲目にさせてしまうんじゃないかとか、何だかそういうようなことをいつも思ってしまったのだった。

 ひとことでいえば、善だけ求めて信じるってなんだかバランスが悪いことなんじゃないのかなってことなんだけど。悪をすすんで求めよ信じよというわけではないけど、あるものをあるままに認めるニュートラルな姿勢は必要なんじゃないかな、とか。

 彼女がここに来たばかりの頃の様子が僕には強烈なインパクトがあったのもある。

 あんなにまでなるのには、それなりのことがやはりあったんだろう、と思うのだ。

 ここに相談に来る人たちのいろんなことを聞いてしまった僕からすれば(そして柊ちゃんからしたらもっとそうなんじゃないかと思うんだけど)、ひとりの人があんな風になるまでには、周囲の人たちに何も問題がないなんてありえないように思う。

 『ガス燈』という昔の映画があるのだけれど、それは妻が自分の正気や認識能力を疑うように、夫がある種の心理的な小細工を演出するサスペンス映画で、ガスライティングという言葉は他者の現実認識や感覚を狂わせる心理的な虐待のことを指す。

 そのようにして健康な他者を神経衰弱にさせて、周囲にも本人にもそう思い込ませてしまうような種類の嫌がらせを日常に平気で行っているような人やそういう集団や共同体も実際にあるのだ。

 そうして本当に精神病に追い込まれたり自殺したりする人もいる。

 少なくとも彼女の家族の人たちは、そういう種類の嫌がらせを彼女にしていたのだ。彼女の元旦那さんまで関与していたのかどうかまではわからないけれど。

 僕はここに来て色んな人のディープな話を好むと好まざると見聞きするようになってからよく思うことがある。

 精神が病んでいるとして烙印を押された人たちの中には、そのひと個人の問題としてその病理があったのではなく、その個人を取り巻く周囲の『関係性自体が病んでいる』ものだったからこそ、そのように追い込まれたり、そのように周囲や本人にまで思い込ませてしまって、スケープゴートが全ての罪を背負うように歴史や社会の中に埋もれてしまったケースが沢山あったのではないか、そんなふうに思うようになった。

 彼らが真実を口にしても、それを口にすればするほど狂人や被害妄想だと、そのひと個人に問題があるのだと思われてしまったりするような、陰湿で微妙な小細工を意図的に手練手管にしているような、そういう悪質な関係性に絡め捕られてしまい、脱け出すことができず、本当に精神や身体を病んでしまったり自殺をしてしまったりしたような人たちの存在のことを、ふと思ったのだ。そういう闇から闇へと葬り去られ消えていった悲しい存在がどれだけいたことかと──そして、そのようにして大切な誰かを喪った悲しい存在もどれだけいたことかと──



 由貴と彩乃さんは翌日休みだということもあり、泊まっていくことになった。彩乃さんと遼子さんは嬉しそうに少しはしゃいでいた。由貴は「これで飲める」と早速買ってきたビールをうまそうに飲んでいた。

 由貴の海外旅行の写真のデータをTVの画面に映してみんなで観賞した。異国情緒漂うその風景の写真を、柊ちゃんは興味深そうに眺めていた。中には変わった形の聖堂のような建物の写真もあった。

 へえ、面白い形の建物だな。教会ではあるんだろうけれど、どことなく中東風の雰囲気もある。僕がそう思っていたら、

「これはロシア正教教会の写真だよ。」

 柊ちゃんはそう教えてくれた。

 他にもいろいろ写真を見て教えてくれた。中には世界遺産の聖堂もあって、そこはひとつの建物なのにキリスト教の教会とイスラム教のモスクが共存するという聖堂だった。

「面白いね。こんな場所が在るんだ。」 

 中東の美しい建築と西洋の美しい建築が融合しているような不思議な建物の写真を僕は眺めた。

「きれいだったよ。なんだか不思議なところだった。コーランが聞えてるそばで、クリスチャンが祈っているの。私はどちらも良いなって単純に思った。」

 彩乃さんはそう言っていた。

 遼子さんは興味深そうにTV画面に映し出された美しい聖堂の映像に見入っていた。

 柊ちゃんは由貴が撮ってきた写真を嬉しそうに眺めていた。

「旅行に行く前に土産何がいいか聞いたら、風景の写真いっぱい撮ってきてくれ、って言われてたんだ。」

 由貴が僕に言った。

「あ、そうなんだ。」

「俺たちの曾じいちゃん、ここの国の人だったんだ。結局曾じいちゃんは自分の国には戻らずに日本で亡くなったらしい。ロシア人の血がちょっと混じってるんだ、俺たち。だから俺たちにとってもこれは祖国の風景でもあるんだよ。八分の一祖国ってわけ。」

 由貴は僕にそう言ってTV画面に視線をやる。

八分の一祖国。彼らの曾祖父の故郷の風景……遠い異国の風景……それを見ている柊ちゃんを、僕はなんとなく眺めていた。

「そうだったのか…」

「デジカメだとデータをそのまま渡せるから便利だよな。」

「そうだね。」

「由貴サンキュ。」

 柊ちゃんは嬉しそうに次々にTV画面に映し出される写真を眺めていた。本当は自分で行って見たいのだろうけれど、彼は忙しいから自分では行けないんだよな。なんとなく僕はその姿を眺めながら思っていた。

 みんなでいろいろ喋っていたらあっという間に時間が経った。明日も仕事がある柊ちゃんは一番早く寝室に引っ込んだが、由貴も彩乃さんも遼子さんもまだまだ元気で、楽しそうにいろいろ喋っていた。僕もそこに混じっていたのだが、そのうち少し眠くなってきてしまい、気づいたらそのままソファに横になって眠っていたようだ。

 肩にはタオルケットのようなものがかけられている。ぼんやりと女性同士の話し声が聞えていた。

 ゆっくり目を開けると、明かりを落としたリビングで、遼子さんと彩乃さんが声を落として、ひそひそ話してはくすくす笑いあっていた。そこには由貴はもういなかった。

 どれくらい眠っていたのかな、とぼうっとしながらまだ眠気が残る頭で考えていた。眠気がまだ全身に残っていて、体を動かすのがめんどうなため、僕はまた少し目を閉じた。

 遼子さんと彩乃さんのひそめた声がリビングに響いていた。夢うつつにさっき目にした二人の姿の残像が残っていた。薄明かりの中でくすくす笑いあう二人は、まるで少女のようにも魔女のようにも見えた。うとうとしながらそうしてなんとなく僕はそのまま二人の声を聞いていた。聞き耳を立てるつもりはなかったが、話の内容は嫌でも聞き取れてしまった。

「子供をもたなかったのは、育てることや自分が親になることに自信がなかったからでもあるんだけど……でも離婚を決意する直前に、ちょっと不思議なこともあったんだよね。」

 遼子さんのつぶやくような声が聞えていた。

「不思議なこと?」

「妙なときに祖母が夢枕に立った、と言うか……」

「そういえば、離婚する前年におばあさんが亡くなった、って言っていたね。」

 彩乃さんが彼女にそう言うのを、僕はなんとなくうす目を開けて眺めた。 

「祖母が亡くなってからそれまで夢に見ることはなかったんだけれど……なんていうか、私、結婚してからもバースコントロールだけは怠らなかったんだけれど、うっかりしていて一度だけ、切らしてたのにそのままそうなりそうなときがあって……」

「ああ。そりゃ夫婦だしね。」  

 彩乃さんは笑って答える。

「えーと、まあ、その、ちょうど避妊具切らしてるときだったものだから、そういう雰囲気になったときに断ろうとしたわけよ。」

 話の内容に、僕は焦って目を閉じた。いえ、決して盗み聞きするつもりではなく、本当にここで起きるのもはばかれて、そのまま寝たふりをついとっさにしてしまったのだ。ただ耳はダンボ状態だったけど……(耳が聞いてしまうんだから仕方ない。だって健康な男子高生だもん。ここは仕方ないということにしておこう)。

 二人は僕がここにいるのも忘れているようで、そのまま女性同士のお喋りを気楽な感じで続けていた。

「私はちょっと風邪気味で熱っぽくもあったし、そのうちになんかふっと意識を失うというか、一瞬眠り込んだみたいで、そのときに亡くなった祖母が夢に出てきたんだ。このままだと子供ができてしまう、というようなことを私に教えるの。それでいいのか、って。」

「へえ……」

「それでまたふっと意識が戻ったら、いつもならそこでやめるはずの彼が、まだ私にキスしていて、なんかやめそうもない雰囲気だったの。その前に私がかなり落ち込んでもいたから、抱くことで慰めようとしていたのかもしれないけど、私が何度かふっと意識が遠くなって眠くなって眠り込んでも起こそうとして、続けようとするんだよね。避妊具は切らしてるし、ああ、やばいなこのままだと、って私もはっとして、それで疲れてるから、ってことをわかってもらってやめてもらったことがあったんだ。

 それで、その後でよくよく考えてみて、ああこれがもう答えなんだなって自分でも悟ったんだよね。

 子供ができれば変わる、案ずるより産むが易し、とかも言われたこともあったけれど、どうしても私はここが譲れなかった。それは多分この先も変わらないだろうなって。そんな私と結婚生活を続けるってことは、彼からそれを奪うことでもあるんだなって、そう思ったら、もうここで決めないといけないんだな、って自分でも踏ん切りがついたというか。

 そのきっかけになった出来事でもあったんだよね。本当になんとも妙なときに夢枕に立たれたけど。」

「それはそうね……でも夢枕に立つほうも、なかなか妙な気分だったでしょうけどね。」

「そうだね。」

 二人はそのまま少し笑いあっていた。

「幸か不幸か、それで今に至る、か。」

「そんなとこ。」

「おばあちゃん、なかなかナイスなタイミングでの登場だったね!」

「確かに!」

「そこはやっぱ幽霊の特権?」

「そ、そうなのかな?」

 そこでまた二人は笑っていた。

 それから遼子さんは、しんみりした声で言った。

「…あのとき、彼が抱きしめてくれる腕の中で肌を触れ合わせていると、ふだん私よりも肌の温度が高くてあたたかいはずの彼の肌をなんだかひんやりと感じたの。

 なんとなく触れてるそばから自分の体温も奪われていくように、寒くて、私は震えていた。

 彼は私を抱きしめてくれていたんだけれど、寒気がしていた。

 私が少し熱っぽくて、彼より私のほうが今体温が高いからなんだな、ってわかった。

 それで思ったの。

 ああ、たぶん、ふだん私の方が彼より肌の温度が低いから、いつもこうやって彼のあたたかさを私は奪ってきたんだろうな、ってなんとなく思ったんだ。

 一番大切な、誰よりも大切にしたい人から、こうやって私を温めてきてくれたその人から、いつもこうして私は本当はその温度を奪ってきた、それがなんだか悲しくて、時間も、優しいあたたかいその心さえも、彼から私はこうしてずっと奪ってきてしまったんだ、って、抱きしめてくれて眠る彼の腕の中で、なんとなく思っていたんだ。」

 彩乃さんはしばらく黙っていた。

 遼子さんはちょっと笑った。それから言った。 

「母も不安定なところがある人だったし、疑心暗鬼になってよく父とけんかしていた。だから子供に自分と同じ思いをさせるのだけは嫌で、それがいつも私にブレーキをかけさせていたんだけれど、それが結局、私や彼を守ったのかも。どっちみち、二人はうまくいかなかったと思う。でも子供がいたら、それでも無理して続けようと更に年を重ねてがんばってしまったかもしれないし、そうして更に互いの傷を深めたかもしれない。

 後で取りに来るからって彼の荷物がまだ少し家に置いてあるんだけど、そこに彼の小さい頃のアルバムがあるの。

 小さな子供の姿で写っている彼の写真を眺めると、彼の子供もこんなかんじできっと可愛いだろうなと思うんだ。本当は私もその子を自分の腕に抱いて育ててみたかった。でもそれは私には叶わない夢なんだな──ってなんか淡々と眺めてた。ただ、ああそういうものなんだなあって思って。」

「そういうもの?」

 彩乃さんは言った。

「彼はちゃんと彼にふさわしい女性と出逢って子供を持つことも、あたたかい家庭を持つこともできるし、そうしてくれることが自然な流れというか。今まで堰き止めてた不自然なものを自然なところに返した、ほどいた、みたいな感じかなあ」

「……その方が自分自身の気持ちも楽ってこと?」

 遼子さんは「そうかもしれない」とあっさりした口調で言った。

 彩乃さんは少し間を置いて、遼子さんに言った。

「でも彼だけじゃなくて、遼子も幸せにならないといけないのよ?」

「ありがとう。こうやって話せるのは彩ちゃんだからかも。」

「互いに年をとったからこういう話も笑って話せるようになったのかな。やあねえ、なんか年齢感じちゃうわ。」

「その言い方が既に、おばちゃんぽい。」

「ほんとね。でも私たちはまだまだよ! ぎりぎりお姉さん、で通る!」

「ぎりぎりってとこがなかなか謙虚だね!」

「まあ、そこは一応控えめに。十代の頃は、二十歳過ぎたらおばちゃんよ! なんてものすごいことを言ってたし。今の私がそばでそれをきいたら、確実に頭はたいてるわね」

 二人があははと笑いあっているところへ、

「まだ起きてたの。」

 と柊ちゃんがやって来たのが声でわかった。

「あ、柊ちゃん、ごめんね。うるさかった?」

「夜中なのにごめんなさい。」

「いや、ただ目が覚めただけ。」

「そうならいいけど。」

「楽しそうだなあ。何話してたの?」

 二人はちょっとくすくす笑ってから一緒に答えた。

「女同士の話。」 

「ふ~ん?」

「女だけでしか話せないこともあるもんね。」

「そうそう。」

 華やいだようにくすくす笑いあう二人に、柊ちゃんは

「あいつもここにいるじゃないか?」

 と、僕に目をやった、ようだ。 

 う、今ここで、それは。

 僕は更に狸寝入りを続ける。

「翔太君寝てるもん。」

「うん、ぐっすり。」

 そうそう、そういうことにしといてください。

 僕が狸寝入りを続けていたら、誰かが近づいてくる気配がして、いきなりばこっと頭をはたかれた。

「ちょっと、柊ちゃん、そんな乱暴な。」

 遼子さんの声で、今のは柊ちゃんなのだということがわかった。それでも僕はここで起きるべきか少し考えていたら、上から柊ちゃんの声が降ってきた。

「こら、ここで寝たら風邪ひくだろ。起きろ。」

 それで僕は今目覚めたような小芝居をしつつ目を開けた。僕と目が合うと、柊ちゃんは、にやっと笑った。僕はむすっとして言った。

「なんか頭たたかれた気がするんだけど…?」

「気のせいじゃないか? 寝てたんだろ、夢でもみたんじゃない?」

 しれっとして柊ちゃんは言った。

「嘘よ。たたいてた。」

「たたいてた。」

 口々に言う遼子さんと彩乃さんをバックに、柊ちゃんは僕をにやにやしながら見た。僕はむすっとしていた。

「……たたくことないじゃないか。」

「風邪ひいたら可哀想だから、起こしてやったんだよ。」

 またしれっとして柊ちゃんは言った。

「……起きるよ。」

 僕はそう言って、ごそごそとソファから身を起こした。

「何か飲む? 私たちはお茶を淹れるけれど。」

 遼子さんが僕たちに声をかけた。

「それならリラックス効果のハーブティがいいんじゃない? 安眠効果もあるし。」

 柊ちゃんが答えると、

「うん、じゃあそうする。柊ちゃんも飲む?」

「うん。」

「翔太君は?」

「僕もください。」

 遼子さんと彩乃さんは楽しそうに笑いながらキッチンへ行き、お茶の準備を始めた。彩乃さんは明るい理知的な感じの人で、遼子さんは彼女といると、リラックスして楽しい気分になるようだった。彼女もなんとなく柊ちゃんのように、適切な距離感のバランス感覚のようなものが優れている人のように見えた。遼子さんは、そんな彼女といることで、今までにない活気が出ているようだ。二人は本当に楽しそうだった。柊ちゃんはその二人の様子を眺めながら、ちょっと微笑んでいた。 

「楽しそうだね。」

 二人は笑顔で

「久しぶりにゆっくり喋ったからかな。」

「そうね。こんな風に夜通しでお喋りなんて、いつ以来だろうね。」

 少女のようにも二人の魔女のようにも見える。年齢を感じさせない不思議なムードが二人を神秘的な華やかさで包んでいた。 

「そうしていると、なんだか女学生みたいだね。」

 柊ちゃんはちょっと笑って言った。

「そう?」

「まだいける?」

 きげんよく二人は答える。

「なんだ、そのまだいけるって。」

「ちょうどまだぎりぎりお姉さんで通るよって、お互いに言ってたんだよね。」

「そうそう。」

「なんだそれ。」

 ぷっと吹き出して柊ちゃんは笑っていた。

「まあ十代の子からしたら、すっかりおばちゃんの部類に入るかもしれないけどさ?」

 彩乃さんが笑いながら僕を見たので、僕はぶんぶんと首を横にふった。

「ここでうなづいたら、思い切り頭をはたいてやろうと思ってたところよ。」

 笑って言う彩乃さんは、その魅力的な女性らしい容姿とは裏腹にとても男前な人で、本気でそうしそうでもあったので、僕はたらっと冷や汗を流す思いだった。 

「だと。よかったな。」

 柊ちゃんは笑って僕を見た。

「翔太君の年の頃に戻れるなら戻りたいわ。」

「ほんと。いいなあ、若くって。まだまだこれからだもんね。」

 彩乃さんと遼子さんは笑って僕を眺めた。

「……僕は早く大人になりたい気もします。」

「そう?」

「はい。」

「まあ、私も昔はそうだったかも。でも、通り過ぎてみたら、その時にしかできないことっていっぱいあったんだな、って思うし、もっとこうしておけばよかった、って思うことも山ほどあるんだよね。」

 遼子さんはうたうようにそう言って、ちょっと笑った。

「そういうものですか?」

「うん。特に、学生時代って、勉強したければそうできる環境が周囲から与えられている、ものすごくいい時代でもあるんだよね。その頃はそんな風に思わなかったけれど、今となっては、それってものすごく人生の中でも恵まれている期間でもある気がする。」

 なんだ、説教のパターンか。と思う僕に、彼女は笑った。

「本当にそう思うから言うだけだよ。」

「そうですか。」

「まあ、日本はそういう意味で本当に恵まれてるからな。それをどう活かすかは当人しだいだけどさ。」

 柊ちゃんも言った。 

「でも若いエネルギーを勉学だけに捧げろって言うのも、なかなか無理な話かもね。」

「そうね、私たちなんか実際そうだったしね!」

「そうだね!」

「その私たちが言ってもねえ、かもね!」

 遼子さんと彩乃さんは、少女のようにくすくす笑いあっていた。 

「なんだか二人の魔女がいるみたいだ。」

 柊ちゃんが軽く息をついて言った。

「何よ、失礼ね。」

「魔女って、それはないんじゃない?」

 僕も柊ちゃんと同感だったが黙っていたら、彼はくすっと魅力的な笑顔で笑って、抗議の眼差しを送る二人に言った。

「年齢を感じさせないから、魅力的な二人の魔女みたいだって言ったんだよ。そうしてると本当に少女みたいだから。」

 おお、さすがだ、柊ちゃん!

 妙に感心する僕の前で

「柊さん、なかなかいいこと言うわね!」

 彩乃さんはころっときげんよく言っていた。

「だろ?」

 楽しげに笑っている三人を眺めながら、僕はちょっと不思議な気持ちでそれを眺めていた。時間が不思議な流れ方をして、それぞれを包んでいるみたいだった。

「こうしていると、時間が戻ったみたいな、錯覚をしそうだよ。」

 柊ちゃんは優しい瞳で二人を見ていた。 

「なんだか私もそんな気がしていたところ。」

 彩乃さんも言った。

「……そうだね。なんか懐かしい気がするよ。それだけ時間が経ったということでもあるんだろうけれど。」

 遼子さんがそう言うと、柊ちゃんは彼女をまっすぐ見つめた。 

「心の中には、未来に向かうきらきらしたエネルギーを持っていた頃の遼子がまだいるはずだよ。本当に元気で明るかった頃の遼子が、俺には見えるよ。君は素直で元気で、本当に楽しそうによく笑っていた。そのエネルギーは君の中に、そのまま残っている。君はまだまだ種子のようなものなんだよ。」

「……柊さん、本当に良いこと言うわね!」

 彩乃さんは笑ってそう言って、遼子さんを眺めた。

 遼子さんはぽつりと言った。

「そういうエネルギーが、まだ私に残っているのかな。」

「残っているよ。大丈夫だよ。」

 確信に満ちた声で、きっぱりと柊ちゃんは彼女にそう言った。本当に柊ちゃんは親以上に親だったのだ。見守り育もうとする、あたたかくてやわらかな、優しい陽射しのようでもあり、乾いた土壌を優しくうるおす慈雨のようでもあった。



 その日、僕らは三人でDVDを観ていた。近くのレンタルショップで遼子さんが借りてきた映画だった。柊ちゃんと遼子さんはソファに。僕は直接ラグマットの上に足を伸ばして座ってTVを観ていた。遼子さんはソファの上でひざを抱えて座っていた。

 その映画は精神的なストレスを抱える女の子が主人公で、自殺未遂をした彼女が立ち直っていくまでを描く物語だった。中でも印象的だったのは、その抱える罪悪感や自分を責める気持ちから泣きながら、主人公の女の子に突然みるみるうちに蕁麻疹がでて、化け物のような姿になってしまうシーンだった。

 自分の罪は自分が一番よく知っている。自分を責めずにいられない心の苦しさとか、そういうものは外からではわからないけれど、もし相手がそれによって苦しんでいるとしたら、そこに追い討ちをかけて責めるようなことはしたくないことだ。僕はそのまるで化け物のようになってしまった少女の姿を眺めながら、なんとなくそんなことを思っていた。

 遼子さんはそのシーンに息を呑んで、黙ったまま映画を観ていた。

 しばらくして、柊ちゃんが遼子さんにふと思い出したように、尋ねた。

「そういえば、遼子、今日ここで昼寝していたときに夢をみながら泣き出して、俺が起こした後もしばらく泣きじゃくっていたな。どんな夢見てたの?」

 映画の途中だというのに珍しく声をかける柊ちゃんに、僕はTVから目を離してそちらにちらっと目をやった。遼子さんはふっと我に返ったように彼を見て、ああ…と少し黙った。

「……妹の夢を見ていた。」

 柊ちゃんは彼女を見つめて

「そう。」

 と言った。

 しばらくそのまま沈黙。

 でも柊ちゃんの透明な眼差しは彼女に注がれたままだった。

「…妹が一人でうたを歌っていた。がらんとした、ただっ広い白い空間で、一人ひざを抱えているの。幼い女の子のような無邪気な声で、なぐさめるような、はげますような歌なんだけど、明るいかわいい小さな女の子みたいな声で、~心、つかれちゃったね、~~だね、って自分に問いかけるような自分で励ますような感じのうたを、一人でぽつんとしてひざを抱えながら小さな声で歌っていて、私はそれを少し離れたところから立って見ているの。

 私は、この子(妹)が本当はゆるせなくて、憎んでもいて、未だにどうしても心の整理がつかずにいるけれども、この子はこういう心の本当にやさしい傷つきやすいちいさな子供でもあって、もしかしたら私は彼女を本当に誤解しているだけなのかもしれない可能性だってあるんだ……と思ったら、たまらなくなって泣けてきてしまって、泣き出してしまう…そういう夢だった。

 柊ちゃんが起こしてくれて、泣きながら目が覚めても、自分でも説明のつきようのない感情でいっぱいでたまらなくて、目が覚めてもしばらく声をあげて泣いていた。思い出すと、また涙が出てくる…」

 言いながら遼子さんは涙ぐんでいて、柊ちゃんは近くにあったティッシュの箱を彼女のそばに置いていた。遼子さんはティッシュを取って、はなを少しかんだ。

「幼い少女の声で歌っていた、その声があんまりにも無邪気で可愛らしくて、せつなくてたまらなくなった……なんであんな夢をみたんだろう?」

 彼女は涙ぐみながら鼻声で言った。

 柊ちゃんは立ち上がり、リビングのガラス戸を開けた。室内にひんやりと肌に心地よいみずみずしい空気が入ってくる。

「打つ人も打たれる人も もろともに ただひとときの夢のたわむれ、といううたがあるんだよ」

 柊ちゃんはそう言って彼女を見た。

「どういう意味?」

 柊ちゃんは静かな声で言った。

「打つ人と打たれる人、憎悪に燃える人と受ける人の不思議にして悲しい出会いではあるが、それはただひとときの、たわいもない出来事に過ぎない。それより人間にはこころがあるのだから、お互いに早く目覚めることが肝心である、というような意味。」

「なにそれ?」

 僕が訊ねると、彼は説明してくれた。

「夢窓国師が旅の途中で暴漢に襲われて怪我をしたことがあったんだ。弟子たちが殺気立って暴漢を取り押さえようとしたんだけれど、それを怪我をした夢窓国師が押しとどめて一首詠んだ。そうして弟子をいさめたんだよ。」

 遼子さんは黙って彼を見上げていた。

「戦乱の世に各地に寺を開いたひとなんだ。後醍醐天皇追善のために天龍寺を建てその開山となり、傑僧が集まって門流も栄えた。夢窓派、または嵯峨門派といって、五山文学の最盛期をつくったんだ。でも、純粋の禅風ではなく、密教系の法系ともいわれているんだよ。」

 静かな夜気が庭の向こうの森林から抜けてきて、この室内を満たしていた。遼子さんは静かなほとんど囁くような声で言った。

「……私、信仰って、真理であったり、善なるものとか真実とか、そういうものを信じたり、人の心に目覚めさせていくものだと思ってたんだ。だから…」

 それから低い押し殺したような声で言った。

「本当に苦しかった。おなかの中にどろどろに溶けた鉄の塊を流し込まれているような気分だった。でもその怒りに自分を見失いたくなかったから、ぐっとこらえていたの。相手にというより、自分に負けたくなかったのかもしれない。感情にまかせて人を責めたり争うようなことはもうしたくなかったから。私、この繰り返しを断ちたい、もうこんなことの繰り返しから解放されたい、ずっとそう思っていた。でもどうしたらいいのかわからなかったの。

 私、何とか頑張ってみたの。でも、更に悲劇を重ねて招くみたいなものだった。頑張れば頑張るほど、蟻地獄にのまれていくみたいに、更なる悲劇を次々と招くだけだった。

 今までのやり方では、このやり方ではもうこの先は進めない、もう通用しないんだ、っていう感じは現実からひしひしとわかるけれど、じゃあこれからどうしたらいいのか、本当に解らなくって、そのまま切実さだけがどんどん迫ってくるみたいだった。

 ──苦しい。ここから脱け出したい。それなのにどうしたらいいのかわからない──今までのやり方ではもう救いがないのはなんとなくわかるけれど、でもじゃあどうしたらいいの?? それとも自分の努力が足りないの??? 自分がわかっていないだけなの???? そんなふうに混乱していっぱいいっぱいになってしまった。だから、少し離れてみよう、そうしたら何か見えてくるかもって、思ったんだ。」

 柊ちゃんはきっぱりと言った。

「当然だよ。君はそれだけ傷ついてもいたんだから。」

 遼子さんは涙を目にためて黙っていた。

「……その相手から大上段に立ったように身勝手な論理で説教までされたら瞋恚しんいの炎が燃え上がるのは当然だろうし、それを抱えたままでいるのは、本当にとても苦しかっただろう……」

 遼子さんは静かに涙を流し始め、何も言わないまま、ただ滂沱ぼうだの涙を流していた。

 瞋恚──怒り──仏教ではそれを心の毒と説くけれど、柊ちゃんはちょっと違うスタンスをとっていた。

 彼は怒りのもつ本来のエネルギーを解放することの大切さをよくクライアントに話すことがあった。封印されている真実のエネルギーを解放する方法を自分なりに見つけるように、その方法を自分で見つけることの大切さを伝える。

 怒りに限らずネガティブな感情を封じてしまうのではなく、そこにある真実の力(たとえば怒りには叡知、統合的知性や希求、困難を打ち破るエネルギーが封印され潜んでいるらしい)を解放してその人本来の道へ導く力や感覚を取り戻すことが大切なのだと、言葉やいろんな比喩を使って話していたし、遼子さんにもそれをそれとなく伝えていたのを僕は何度か見ていた。

 僕は固唾を飲むようにして遼子さんを見つめていた。

 彼女はまた自分の中に沈み込んでここではないどこかを彷徨っているようだったので、その表情から他に読み取れるものは何もなかった。

 ふと僕はこんなイメージを想像した。柊ちゃんが呼び水を送り、彼女はそれを頼りに深い深い水底へと潜っていく。何度も、何度も──そうしてそこにある自分の心の奥の深層水を少しずつ呼び戻すのだ── 

 水の結晶を多く含んだ夜の空気は、何かの粗熱を静かに取り去るように辺りを漂い、何かをそっとうるおしていくように僕には感じられた。

 しばらくして遼子さんは泣きながら黙って彼を見上げた。

 それから低い静かな声で言った。

「……ひとの大切なものを奪っておいて、知らん顔をしてのうのうとしていて、本当にゆるせない……本当は私はずっとそう思っていたの。」

 柊ちゃんは静かに頷いていた。

 遼子さんはティッシュではなをかみ、泣きはらったあとの少し呆然とした表情をしていた。

 開け放したカーテンを揺らして、微かに潮の香りのする風が室内に入ってきた。夜になればもう自然の風で十分涼しい。TVから流れる音声が庭から聞える虫の声と一緒に、やけに響いていた。遼子さんはふとその視線を移動させた。彼女は窓の向こうに見える夜空をぼんやりと眺めている。空には満月が輝いていた。何となく僕と柊ちゃんは無言で目を合わせた。

「柊ちゃんは信仰とか宗教って、どう思ってるの?」

 それまで黙って事の成り行きを眺めていた僕は、好奇心から訊いてみた。

 柊ちゃんのように、人の見えないものが見えたりわかる人は、どう考えているんだろうか? という素朴な疑問からだった。

「いろいろあるな、って思っているけど?」

「僕もそう思うけれど……」

 ちらっと遼子さんを見ると、彼女はひざを抱えたまま柊ちゃんを眺めている。柊ちゃんはちょっと考えてから言った。

「本来は橋渡しのようなものじゃないのかな、と思う。」

「ふ~ん?」

「全ての源である真理に還りたい触れたい、そういう魂が求める希求から編み出された伝統であったり、技術のようなものじゃないかなって思ってる。」

「技術?」

 意外な言葉に僕はちょっと驚いたけど、柊ちゃんはうなづいて淡々と続けた。

「本来は現世利益的なものというより、何故この世に生を受け死んでいくのか、どこからやって来て、どこへと還っていくのか、それに意味があるのか、そういう根源的な問いや魂の希求に答えるためのものなんじゃないのかな。そのための乗り物。実際にそこへ運ぶひとつのアートのようなもの。だからその術は一つではない。それぞれの道があるし、その行き方もそれぞれだろうと思う。

 肝心なのは、それはひとつの手段であって、本来の目的そのものではない、ということにも気づいていることなんじゃないかなと思う」

 ふ~ん。そうなのか。柊ちゃんはそんなふうに思っているのか。彼らしいといえば、そういう気もしないでもないような。僕はそんなことをなんとなく考えていた。

 遼子さんはソファの上でひざを抱えたまま、黙って柊ちゃんを見つめている。柊ちゃんはそのまま続けて言った。

「……いろいろなものがあるし、中には危険性を孕んでいるものもあるのが現実だしね。」

「柊ちゃんはそういうの、わかるの?」

 僕が尋ねると、彼は少し間を置いてから言った。

「なんとなく。でも、宗教に限らず、結局それは唯一無二の絶対的な方法を自分たちは持っている、自分たちは救いを与える、という傲慢な姿勢や確信をする人間の心の方に潜んでいるんじゃないかと思う。その専横性のほうに。

 実際、あらゆるものをも正当化してしまう危険性がそこにあるから。」

「……歴史がそれを証明しているよね。」

 僕が言うと、彼はうなづいた。

「これはあくまで俺の視点からの感じ方だけど──実際に橋を渡ることと、橋自体を取り違えたり混同することが根本にあるんじゃないかなと思う。いつの間にか大切なものがすり替わってしまう──意図的にしろ、無自覚にしろ──何かそういうことが長く長く繰り返されてきてしまっているように、俺には見えるから。身近なところで言うと、例えば、美徳を生きることと、美徳を主張することを取り違えている(*自分自身の問題を、他者へ責任転嫁している→【求めるエネルギーを自分自身が生きること】と【そのエネルギーを他者から獲ようとする(搾取しようとする)】ことの差違なのだそうだ。後に柊ちゃんから説明してもらった*)ケースをよく見るけど」

 それまでぼんやり僕たちを見ているとばかり思っていた遼子さんが辛らつなコメントをした。

「言ってる事は正しいけど、実際の行動が、それを、堂々と否定してるってよくあるもんね」

 どうやらこっちにしっかり戻ってきているらしいキレのよいコメントである。僕と柊ちゃんはちょっと笑ってしまいそうになり、思わず互いに目を合わせて牽制してしまった。

「本当にその通りだ、と言うより他に思いつかないキレのいいコメントだと思います。」

 何故か僕はそんな奇妙な返答をつい遼子さんにしていた。

「どうもありがとう」

「どういたしまして」

 なんて珍妙なやり取りまでしていたら、柊ちゃんはそんな僕らを見てちょっと吹き出していた。

「奇妙な現象だなあって、前々から思ってたの。声高に善を勧めたり美徳を主張しながらも、相手や周囲の人たちの素朴な善性につけこむみたいな嫌がらせが、日常にも沢山あるでしょう?

 美徳を使ったいじめや虐待をしているのに、加害者自身が倒錯した正しさに酔っているひどいものもある……。

 それって、要は他者の善意や善性をあてにして、利用して、つけこむようにして、自分の悪巧みを正当化させる、一種の詐術みたいだなぁって。善を勧めながら本当には踏みにじっている──言葉で勧める事と正反対の事を、その行動で勧めている、伝播させ、拡散させている──そんな風に私には感じられるものだから、ものすごく混乱させられたの……」

 遼子さんがそう言っている間、柊ちゃんは彼女を静かに見守るように見つめていた。

「それで今もまだ混乱中なの。立ち位置が決められないまま保留中。自分の感じ方が間違ってるのかも知れないし、視方が未熟でわかってないだけなのかもって、立ち止まって、そうして途方にくれてる感じなの。」

 正直なひとだ。

 何となく僕はそう思っていた。

 柊ちゃんは彼女をじっと見ていたが少し間をおいてから言った。

「本来自然なエネルギーを支配しよう、制圧しよう、という在り方が大元にあるんじゃないかと思う。構造上の病みたいなものかな。懲罰観念もそこからきている様にみえるから。」

「懲罰観念?」

「罰を与えよう、支配しようという発想」

「わかる気がする……」

 遼子さんは姿勢を少しただす様にして柊ちゃんをじっと見ていた。もっと何か話して、聞かせてって目で訴えているようにも、見える。僕も同じように思っていたからかも知れない。

 柊ちゃんは彼女をじっと見ていたが、ちょっと考えてから僕らにこんなことを話した。

「そもそも支配構造自体が局所限定的かつ暫定ざんてい的なもののはずなのに、それを敷衍ふえんしてしまうところから悲劇が生まれてしまうような、そんな構造の病を今まで何度となくみてきた。

 支配の階層構造は下位の隷属を必要としている以上、事実上の奴隷制や権力の腐敗を生み出さずにはいられないけれど、自然本来の階層構造はいわば成長や発達、進化の階層構造で、包摂して超える、哲学でいう止揚しようをもっと包摂的にしたような働きがあるんだ。

 それは支配や操作、搾取の構造とは全く別の階層構造で、育むように包みこむ、そうしてその段階を、ゆっくりと木が育っていくように自然に創発的に超えていくようなイメージかな。

 少なくともそれぞれの成長段階を必要なもの、在るべきものとしてその存在を尊重するエネルギーだから、より気遣い、愛情深くなる、包摂的になる──本来の自然なエネルギーの方向って、そういうものなんだよ。」

 へえ、面白いな。何となく生物の細胞組織の階層構造なんかを連想しながら、僕は彼の話に聞き入ってしまった。有機体は細胞を超えて含んでいる、細胞は分子を超えて含み、分子は原子を──とまあ、こんなふうに(こういう上位の段階が下位の段階を超えて含んでいく入れ子上の階層構造をホラーキ―というらしい。後に柊ちゃんが教えてくれた)。

「……柊ちゃんて面白いこと言うよね。なんか、考え方の種みたいなものをぽんって投げてくる……」

 遼子さんはそう言った。

 二人はじっと目を合わせていた。

 しばらくして柊ちゃんは彼女に、こう言った。

「宗教や信仰が全て悪いとは言わない。それによって人が育まれたり支えられるのも否定しない。

 大切なのは、あらゆるものを、自分の心の奥深くをも、見極める心の目を持つことなんじゃないかと思う。それを磨くこと。」

 遼子さんは黙ったまま柊ちゃんをじっと見ている。柊ちゃんも黙って彼女を見つめている。柊ちゃんは続けて言った。

「全てが試金石や砥石といしみたいなもので、宗教も例外じゃないと思う。

 支配や煽動をするものは何でも利用するものだから。

 結局は自分しだいなんだよ。何を信じ、自分の命をどう運ぶかは、自分で決めているんだから。自分で選んでそうしている。厳しいかもしれないけれど、何をどう信じ込まされたとしても、その責任は本人の選択にかかっているし、いずれにせよ、本人が責任をとるしかない。

 自らの衝動がどこから来て、どこへ向かおうとしているのか、一人一人が自分で見極めるしかない──そこがわからなければ、同じことを繰り返してしまうんじゃないかと思う。」

 柊ちゃんの声は静かだった。優しくも冷たくもない。よけいなごまかしのない響きを持っていて、辺りを包むように静かに響いた。そしてその余韻は、不思議な波紋を広げていくようだった。遼子さんは柊ちゃんの顔をまっすぐに見つめていた。

「本当は君も、それを、よくわかっているだろう?」

 柊ちゃんは彼女に、ひとことずつ何かをこめるように、ゆっくり区切るようにして言った。

 遼子さんはひざを抱えたまま黙って静かにうなづいていた。柊ちゃんは何も言わずただ優しく微笑み、うなずいていた。

 僕は何となく黙って考えていた。

 柊ちゃんのところに来る依頼者は、何故か信仰がらみの悩みを持っている人が結構いて、以前からちょっと不思議に思っていたのだ。救いを求めた先で悩ましい事態を引き受ける皮肉な矛盾があるように思えていたのもある。そして遼子さんも例外じゃないし──何でそうなるのかな? と単純に不思議だったのだ。そもそも救いって何なのだ、と思うけど。

 でもそれも含めて、さっき柊ちゃんが言ったように、自らの衝動がどこから来て、どこへ向かおうとしているのか、一人一人が自分で見極めるしかない、それに尽きるのかも知れない。

 僕の眼から見た(独断と偏見かもしれないけど)狭い範囲の結論では、人の持つあらゆる善なるものや信じる心を、人を支配したり操作したり搾取したりするための道具として使う人たちが現実にいて、そういう人たちに自分の力を与えてしまうか、与えないか、それは結局その選択をする自分しだい。どこかの時点で立ち止まって考える機会があるのならそれを逃さないこと──そして現実にその岐路に立ち止まった人たちが、柊ちゃんのところに、こうして遼子さんのようにやって来るのだろう、ということだった。

 自分の命を運ぶことに責任をもつこと、自分の感覚を信じて、その力を取り戻しなさい───そんな風に、背中をやさしく押してもらう為に。



 夏休みももうすぐ終わろうという頃だった。その日は遼子さんが来ていない日で、僕は柊ちゃんとの残りの日々を過ごす中、名残惜しむように自分に与えられた役割をこなしていた。ここは僕にとって不思議な空間だった。ずっとこうしていたい気持ちがないといえば嘘になるけれど、戻っていくべき自分の日常の世界を忘れたことはなかった。だからよけい寂しい気持ちになったりした。 

 本日最後の依頼者の口述筆記をプリントアウトしていたら、柊ちゃんが確認のためにやってきた。プリンターから吐き出される紙を取って、彼は目を通していく。機械の動作音が単調に響く中、彼はペンを片手に書面の文字を追っていた。最初のころは誤字脱字も多かったのでプリントする前にPCの画面上で確認してもらって、直接柊ちゃんが修正していたのだけれど、僕が慣れるにつれてプリントしたものを確認する方式になった。テストの採点を待つように、彼の片手に持ったペンをつい見てしまう。

「うん、今回もこれでOK。このままもらってくよ。」

 ほっとしつつ書類用の封筒を差し出すと、彼はそれに書類を入れて部屋を出て行った。後の作業を終えてから僕もリビングへ向かうと、依頼者の女性がすっきりした表情で彼にお礼を言っていた。玄関先までお見送りする僕らに彼女は笑顔で手を振って、封筒をしまったかばんを大切そうに抱えて帰っていった。その背中を見送っていた僕に、柊ちゃんは

「海にでも行くか。」

 と声をかけてくる。

 今日はパターン②のようだ。

「いいね。ちょうど日が沈むところが見れそうだし。」

 日没までまだ少し時間があったので、僕らは歩いて海まで行くことにした。

 家の近くの林道を抜けると、ちょっとしたプライベートビーチのようなところに出る。正確にはそこは浜辺ではないが、切り立った崖の上が開けた草原になっていて、その丘から海が見えるのだ。車が通れる道ではないのもあってか、人が来ることがめったにないので、そこはいつも静かで見晴らしがよく、プライベートスペースのような感じを味わえる。

 ちょうど西日に照らされたそこは、金色の草の波が揺れる海原みたいだった。草の波を進んでいけば、その向こうには本物の海が広がっている。

「ここはいつ来てもきれいだな。」

 柊ちゃんは潮風に髪を洗わせながら、遥か向こうの水平線を見ていた。黄金色に輝く水面には船のシルエットがある。

 その風景は確かにきれいだったけれど、なんだか僕は寂しい気持ちにもなった。黄金色の光がこうやって世界を美しく染め上げて、そうして水平線の向こうにやがて沈んでいく日の名残が、僕をなんとなく感傷的にさせたのかもしれない。

「柊ちゃんには何が見えてたの?」

 僕がたずねると、彼は僕を見た。

「遼子の依頼を受けられない、って言ったあのとき、何が見えてたか? ってこと?」

 僕はうなづいた。訊いていいのかわからなくて訊けなかったけど、本当はずっと気になっていたことを、僕はたずねてみたのだ。

「一言で言うなら、とても長い時間がかかる、ってことかな。」

「ふ~ん。そうだったんだ。」

「うん。」

 僕はなんとなく黙ったまま水平線に沈んでいく太陽を眺めていた。

「見えてるのに教えなくて、冷たいやつだと思う?」

 柊ちゃんは前を向いたまま僕にそうたずねた。

「ううん? ずっと見守って、そっと支えきていたの、わかってるし。親が子を見守るみたいだった。本当に。柊ちゃんは親以上に親だった。それに、言わないほうがいいから言わなかったんでしょ。それは僕もわかってるよ。冷たくなんて全然ない。ただちょっと訊いてみたかっただけ。」  

 まだ明るい静かできれいな日の名残。ここはまるでサンクチュアリみたいだ。そんなことを思いながら、僕は夕陽が沈んでいくその海辺の景色を眺めていた。


 柊ちゃんのところで過ごした夏休みはそうして終わった。今でも時々思い出す。何気なく彼のそばで過ごしていた日々の中、通り過ぎていったことのひとつひとつ、ふとしたときに、ちょっと不思議な気持ちで思い返したりする。

 いつか柊ちゃんのような大人のひとになりたいな、そうなれたらいいな、と僕は思ってもいるけれど、どうやら今のところ、それはかなり遠い目標のようだ。


  《終り》       


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