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前編

 僕の友人はちょっと不思議な副業を持っていた。生業は普通の会社員なのだが、その副業の方は少し特殊だ。しいて言えばちょっと変わった身の上相談兼占いのようなものということになるだろうか。彼は知人を介して時折、その副業の依頼を受けていた。その夏、僕は彼の家に居候していたこともあって、少しだけ、その副業を手伝うことになった。手伝うといっても、始めはやってくる相談者の人にお茶を出すとかその程度だったんだけど、事務的な仕事を手伝うようにもなり、そのうち、口述筆記のための書記としてその場に立ち会うようにもなった。

 今の時代、ボイスレコーダーという便利な文明の利器があるのだから、その音声データをそのままコピーして渡してあげればいいじゃないか、と思うのだが(僕が書記をしているその場では、同時に念のためボイスレコーダーを使って録音もしていたのだ)、しかし彼は、書面に書き起こしたものを、希望する相談者に渡していた。

 書面にしたものは、必ず彼が最終チェックをした。それは基本的に誤字脱字のチェックのようなもので、書面自体はただそのまま音声データを書き起こしただけのものだ。文字にする利点といえば、言葉が形を持って目の前に存在することだろうか。聞き間違いを防ぐ効果もあるのかもしれない。文字として書き起こしてみると、こっちの意味で言っていたのか、と思うような同音異義の言葉もあったから。言葉って不思議だ。さらっと聞いていたら、まあそれでも意味は通るかな程度の微妙な言語変換を、活字にして正していくことで、より意味が深みを増したり、微妙な差異を生んだりもする。それは僕にとって、ちょっと新鮮だった。扱う内容自体が微妙で繊細なことだったりするからなのかもしれない。そこらへんをきちんと相手に伝えることに、彼は神経を使っていて、そのため正確さを求めていたのだろう。

 相談内容はもちろん秘密厳守。僕もそのくらいわかっている。けれど、他人の秘密を知るのは、それだけでかなりストレスのかかることだ。その内容が重ければなおさら。その精神的負担をほんの少しだけ分かち合う意味も、僕の手伝いにはあったのかもしれない。

 世の中には様々な悩みや事情を抱えているひとがいる。それを抱えながらもなんとか日常に折り合いをつけてきたんだけれど、それがどうにもならなくなって、縁をたどってやっとここへやってきた。彼の元を訪れる人は、そんなひとたちばかりだった。

 金銭の授受はあるが、それはまあそれほどの額でもなく、かといって安すぎるわけでもない、といったところだろうか。高校生の僕でも小遣いの中から出せる程度だ。あ、友人と言っても、彼は年上の友人なのだ。幼なじみのようなものだ。現在彼は普通の社会人で、僕は進路に悩める高校2年生。いろいろ煮詰まった僕は日常から離れたくて、郊外にある彼の家に夏休みの間だけ居候することになったのだった。ただ世話になるだけではわるいので、なんか手伝えることはあるか、ときいたら、彼からこのアルバイトを頼まれた、というわけ。

 副業、ということもあって、彼の受ける依頼はそんなに数が多くはない。依頼も知人を通してのみで、ごく限られた範囲でしか受けない。持ち込まれる依頼は、必ず受けるというわけでもないようで、けっこう断ってもいる。どういう選別なのかは知る由もないが、僕の知っている限り、彼の受ける相談内容は、もうここに来るしかなかったのだろうなあ、というような、けっこう重くて複雑なものが多かった。相談者自身もあまり口外されたくない内容を持ち込むだけあって、彼のこの不思議な副業は、本当にひっそりと、そのごく限られた縁をたどって持ち込まれるものだけに限られ、依頼者自身も彼のことを他言しないのが暗黙のルールのようなものだった。



「そんなに依頼があるなら、いっそのことこっちを本業にしてみようか、とか考えたりしないの?」

 あるとき僕がそう尋ねたら、彼は書面にした相談内容の紙面から顔を上げずにあっさりとした口調で言った。

「それはない。」

 ひとことだけ、のきっぱりしたその返答に、僕はそのとき、ちょっとだけ食い下がってみた。

「なんで? しゅうちゃんのとこに来る人は、みんなもうここに来るしかなかったみたいな人たちばかりで、それって柊ちゃんにしかできない仕事だからでもあるのに。」 

 そこで初めて彼は書面から顔を上げて、僕の顔を見た。

「まるで俺の本業は、誰にでもできることだとでも言いたいような、口ぶりじゃないか。」

 特に彼の表情も声色も変化なく、それはごくあっさりした口調だったのだが、僕はちょっと焦った。

「あ、いや、べつに、そういうつもりじゃ……!」

 会社員としての彼の仕事がどうのというつもりはなかったのだが、確かにそういう社会一般的な仕事、というより、こっちの特殊な副業のほうが重要なのではないか、という僕の勝手な思いもそこになかったとはいえない。そしてそれは、勝手な僕の価値判断だからして、彼の会社員としてのプライドを損ねないとも、失礼に値しないともいえない。おお、これはもしかしたらとても失礼なことを言ってしまったということか、と今さらながら気づいて、自分でも動揺したのだ。

 そんな僕の心の内を全て見透かすように、彼はちょっとだけ笑った。

「わかっているよ。」

 少しほっとした僕は、

「ごめん、よけいなこと言った。」

 と、謝った。

 柊ちゃんは基本的に表情も声も静かで、あまりそこに色がない。無色透明の水のように、いつも淡々としている。でも、たまに絶妙なタイミングで、優しく微笑んだり、優しい声で相手に言葉をかけるので、これはもうひとつの才能なんじゃないのか、と思うくらいだ。優しすぎも冷たすぎもしない、その独特なクールさがまた、こういった特殊な副業が彼のようなひとにしかできないのでは、と思わせるところでもあった。

 しかし、今度はさすがに僕もそれ以上余計なことは言わず、彼が目を通している書面のチェックが終わるのをおとなしく待つことにした。一通りチェックが済むと、彼は書面に目を落としたまま言った。

「うん、今回は直すところはないよ。ありがとう。これ、このままもらってくよ。」

 僕はまたほっとして、うん、とうなづく。音声データと書き起こしたデータを一緒にPCへ保管して、僕はちょっと息をついた。書面にしたものは依頼者が待っていればその場で渡すし、先に帰ってしまっていた場合は、メールや郵送でも送るのだが、基本的に相談内容の記録を希望する人はみんなリビングで静かに待っていて、手渡しで受け取っていく人が多かった。この日も相談者はリビングで待っていたので、柊ちゃんは封筒にその書類を入れて持っていった。僕はPCのフォルダにデータがきちんと保存されたのを確認して、彼の後を追った。

 リビングへ行くと、相談者の人が柊ちゃんにお礼を言っているところだった。そのひとは柊ちゃんよりもずっと年上の初老の男性だったのだけれど、涙を少しその瞳ににじませながら、ありがとう、と彼の手を握っていた。そして渡された封筒を大切に胸に抱えて帰っていった。その初老の男性は、相談中も柊ちゃんの言葉をきいて、少し泣いていた。あのひとは文字になったあのときの柊ちゃんの言葉を読んで、またひとりで涙を流すのだろうか。僕は小さくなっていくその背中を見送りながら、ぼんやりとそんなことを思っていた。

 

 柊ちゃんにこの副業を本業にしないのか僕が尋ねたのには、ちゃんと理由がある。彼のこのちょっと変わった副業は、彼が持つ特殊な能力にも関わりがあるからだ。サイキックのようなもの、というと途端に話が怪しくなるが、これが事実なのだから仕方ない。どういうわけか、彼にはひとのみえないものが見えたり、きこえたり、わかったりする、ちょっと不思議な能力があるのだ。あまり詳しくは教えてくれないが、僕自身も彼のその能力を幼い頃から目の当たりにしているので、その能力も含めて、の勝手な価値判断をついしてしまった。

 表向き占い、ということにしているが、実際は占いらしくみえる演出として生年月日や名前などを書面に書き記して、数字に置き換えたりして説明して見せているだけなのだ(といってもある程度はそっちの知識も本当に勉強してもいるので、全くのパフォーマンスでもないし、でたらめを言ってるわけではない。肝心なことを占いの内容に織り交ぜて話せるくらいには、そっちの知識も本当に活用しているのだ。ただ使う内容はそのときによって変わる。姓名判断だったり、四柱推命だったり、秘数術であったり様々。肝心の内容を織り交ぜて話せるのに都合のいいものを選んでいるらしく、そこらへんも一通りの知識がないとできないことだ)。

 

「翔太、俺ちょっと眠るから。」 

 柊ちゃんは疲れたようにそう言って、寝室に引き上げていった。たいていはこのまま彼が目を覚ますまで放っておく。最近は依頼の電話が来ても取り次がず、僕が代わりに聴いておいて、依頼内容を後でまとめて確認してもらうようになっていた。依頼内容を詳しく事前に伝えてくる依頼もあれば、例えば『人間関係の問題について』とすっきりしたものもある。受付段階なので、本当は後者の方が望ましいが、依頼者本人に依頼内容をまとめてもらう為、実際には様々だった。メールでも来る依頼と一緒に後で彼が確認できるように、内容は電話で聴いたものも簡潔なログにしてPCへ残す。アルバイトとはいえ、僕もそれなりにちゃんと働いていた。かといってずっと拘束されてるわけでもなく、電話は留守電にしておくこともできたし、好きに外出もできた。この方が、少し柊ちゃんも楽かな、と思いついたことを自分から提案して、彼の了解を得て、それを手伝う。それが少しずつ増えただけのことだった。自主的にしていることなので、その意味では基本的に僕が時間をどう過ごすのかは自由だったのだが、ぶらぶらしているよりは何かしている方が気が紛れるのもあって、そうしていた。   

 リビングを少し片付けていたら、電話が鳴った。依頼だったときのことを考えて子機で取ったら、案の定そうだった。スピーカーでの通話に切り替えて僕はノートPCに聴取した内容をそのまま打ち込んだ。ログを目で確認しながら概要を相手に確認したら、電話の向こうで相手がちょっと笑った。

「なんだ、すっかり事務員だな。」

 電話の相手は柊ちゃんの弟で、つまり僕とも旧知の仲だった。

「だろ。ぶらぶら遊んでるだけじゃないんだよ、僕も。」

「言うじゃん?」

「それより、珍しいね。由貴よしきが柊ちゃんに副業の依頼持って来るなんてさ。」

 雑談になったので、僕はスピーカーをオフにして子機を手に取って言った。由貴は受話器の向こうで、少しため息をついた。

「相談してみるのを依頼者に勧めたのは俺なんだ。昔からの知り合いで、放っても置けなくて。それに俺がこれを伝えないでいたら、兄ちゃんも後で怒りそうだから、訊くだけ訊いてみようかなと思ってさ。多分受けると思うけど。」

「ふうん。」

 僕は数ヶ月先まで埋まっている予定表を眺めていた。彼の元に来る依頼の殆どを断ってもこの状況。どういう選別の基準で依頼を受けているのか見当もつかない僕としては、そう答えるしかなかった。少し逡巡してから僕は彼に言った。

「起こしてこようか?」

「いや、いい。爆睡中なんだろ?」

「うん、まあ、ここのとこずっとそうだけど……」

 由貴が依頼持ち込むの自体珍しいし、選別基準がわからない僕としては、このまま直接つないだ方がいいような気もしたのだが、由貴はあっさりとした口調で言った。

「受けるなら直接相手に連絡してくれ、と伝えておいてくれればいいよ。」

 これもまた珍しいことだった。依頼者に直接柊ちゃんが連絡するのも(僕が手伝うようになってからはだが)僕が知る限りないことだった。僕は「う、うん、わかった。」とだけ答えた。

「じゃあ、俺も来週にはそっちに顔出すからさ。しっかり働けよ事務員。」

 笑って由貴はそのまま電話を切った。

 電話を終えた僕は、PCのログに『依頼を受ける場合は相手へ直接連絡願う』と付け加えた。それを眺めながら、依頼を受ける際の判断基準みたいなものをちょっと訊いてみようかなあ、と考えていた。重要度とかってやっぱりあるんだろうし、何を優先していけばいいのかその判断基準がわからない僕としては、にわか受付事務員としてちょっと悩むところだった。ちょっとした手伝いのつもりで始めたことだったけれど、なんとなくもう少し自分も何かの役に立てるようになりたいなあ、と思うようにもなっていて、それが自分の仕事を増やしていくことにもつながっているのだけれど、どうやらこのアルバイトに自分でもやりがいのようなものを感じてもいるみたいだ。それは柊ちゃんをちょっとでも手伝えるようになりたい、という気持ちから始まってはいるものの、ちょっとした社会勉強をしているような気分にもなる。仕事を面白く感じるのってこういうことなのかな、と自分の進路問題についてもあれこれ思いを馳せていたら、

「なんだ、まじめに悩んでいるのか?」

 と、背後から突然声がかかったので、僕はうわっとちょっとびっくりした。柊ちゃんがいつのまにか起きて来ていた。足音がしなかったのもあって、僕はかなり驚かされたのだが、当の彼は落ち着いた様子で、淹れてきたばかりのコーヒーの入ったマグカップを二つ両手に持っていて、片方をすすりながらもう片方を僕に手渡してくれた。

「ありがと。」

 ああびっくりした、と思いながら僕はカップを受け取ると、傍らに立ってPC画面を眺めている彼に「もう起きたんだ。今さっき、由貴から電話あったんだよ。この件で。」いつもなら何時間も部屋から出てこないのに、これなら起こしてもよかったかもなあ、と少し思いながら言う。彼は目で内容を確認して「そうか。サンキュ。」とひとこと。マウスを操作して他の依頼内容もチェックしていた。確認が終わると、そのまま彼は自分の携帯電話から電話をかけ、話しながらそのまま寝室のほうへ戻っていった。会話の端から、由貴の持ち込んだ件の依頼者と話しているらしいのはわかったが、そのまま部屋から出て行ってしまったので、後はわからない。しばらくして戻ってきた彼に、

「依頼を受ける際の優先度とかってあるの?」

 と尋ねると、彼の答えは簡潔だった。

「受けるものに関しては全て受けた順にしてる。」

「ふ~ん。」

 僕の顔を見ながら、柊ちゃんは

「なんで?」

「なんか重要度なり選別する判断基準があるのかな、と思って。」

「あるにはあるけど、受けられるものは受けるし、受けられないものは断る、それだけだよ。」

「それってどうやって判断してるの?」

「う~ん、これはもう自分の勘としかいいようがないな。これといって客観的基準になるものが具体的にあるわけではないんだけど、せっかく来てもらっても、あまり役に立てそうにないな、ってのは、なんとなくあるんだよね。それはもう内容を見なくても、始めにわかるんだ。一応念のため内容を確認して、それでもその感じがなくならなければ、それは断る。内容を確認して迷う時は、一旦保留にして、少し時間を置いてからその依頼をもう一度確認するんだけど、それを受けることになるのは稀かな。それに受けたとしても、本当に殆ど伝えられることがないから、わざわざ来てもらっても申し訳ないんだよね。」

「そうなの?」

「うん。なんていうか、何も伝えないほうがいいことってあるんだよ。答えが得られない、それがその人に必要なことっていうのもあって、でもそれは俺が決めてるんじゃないんだよね。」

「誰が決めるの?」

 僕が目を丸くすると、彼は困った顔になった。それから思案げに間を置いてから、説明してくれた。

「その人自身が自分を導く力を持ってるようなものでさ、基本的に俺が伝える事ってのは、それをまあ、通訳代わりに言葉にして翻訳してるだけのようなものなんだよ。だからしいて言えば、この場合も、その人を導く力そのものからストップがかかる、っていう感じかな。」

「ストップがかかる?」

「うん、何か見えても言ってくれるな、って。」

「でも、依頼者は相談したくて依頼をしてくるんでしょ?」

「説明が難しいな。」

 柊ちゃんは頭をかいた。それから僕を見て、逆に訊いてきた。

「でも何で急に? 今までそんなこと訊いたことなかったじゃない?」

 僕はそこで質問の趣旨を思い出した。いつのまにか脱線していた。

「ああ、うん。元はといえばさっき由貴からの電話を受けたときに、起こして直接つないだ方がいいのかなって思ったからなんだ。なんか優先順位とか重要度とかがあるなら、そうした方がいいのかなって。でも、今の質問は、単なる好奇心から。」

「ふ~ん、そうか。」

 柊ちゃんはそう言って、ちょっと笑って自分のカップからひとくちコーヒーを飲んだ。

「ええと、まずその好奇心の質問のほうだけど、今翔太が俺に質問する始めの目的があって、なんとなく流れで脱線して話がこっちに来たんだろ? そんな風に、当初の目的なり理由が何事にもあるんだよ。ただそれが、例えば生まれる前から決められてたものだったとしたら、って考えてみてよ。話がぶっ飛ぶけど。」

「話が急に大きくなったね。」

「だから話がぶっ飛ぶけどって、言ったじゃないか。」   

 彼はちょっといやそうに言った。

「そうだね。ごめん、続きどうぞ。」

「……なに笑ってんだよ。」

「なんでも? 早く続き聞かせてよ。」

「……だからやなんだよ。こういうの。」ぶつぶつ言いながら、柊ちゃんはむすっとした。

「途中でやめたら気になるじゃん? 教えてよ、ききたい!」

 彼は少しため息をついて、説明してくれた。

「……例えば、ひとが予め自分でカリキュラムを決めて生まれてくるようなものと考えてみてよ。魂やエネルギーの向かう方向性がある。そうして人生で起こって来る問題ってのが、元はといえば自分で決めたその課題に沿っている、とする。基底にそういうエネルギーの方向性があると。そうすると当初の目的や理由が大元にあるってことになるだろ? でも生まれてきたらそれをきれいに忘れて脱線することもあるわけ。でもそこを本人が意識しないでも、また自分を当初の目的に導く力も持っていて、例えば俺が何か見えたものを伝えると、今その脱線をせっかく修正しようとしているのに、逆に更に脱線してしまうとか、邪魔することになりそうだと、その本人も意識してないところから俺にストップがかかるんだよ。」

 わかりやすいといえば、わかりやすい説明だった。それがどんなものか、という具体的なイメージは壮大すぎてわからないにしても、理屈としてはわかった。

「なるほど。」

 へえ、そうなのか、と僕が感心していると、柊ちゃんは

「納得した?」

「うん。」

「じゃあ、この話はこれで終わり。」

 もうちょっとあれこれ訊いてみたくなった僕に、彼は笑って言った。

「で、本筋に戻るけど、優先順位とか重要度は気にせず今まで通りにしてくれるだけで、だいぶ助かってるよ。いろいろ助けてくれるからついあれこれと頼ってしまっているけど、しょーたは元はここにちょっと休みに来たんだろ? 本来の自分の目的は果たせてるの?」 

「それも僕をみればわかる?」

「そりゃわかるけど、きけばいいことにまで、いつもいつもアンテナ張ってないよ。」

「へえ、そうなんだね。いつも見えてるのかと思ってた。」

「そんなの疲れちゃうよ。一応それなりにオンオフがあるんだよ。」

 わくわくして僕が「そうなの? 便利だね!」と言うと、

「今までそんなこと興味示さなかったのに、どうしたんだよ?」

「だって考えてみたら、けっこうすごいことなんだもん。今まではなんか当たり前みたいに思ってたけど。柊ちゃんにこのまま弟子入りでもしようかな。」

「なに言い出すんだよ。」

 あきれて柊ちゃんは僕を見た。

「なんで? いいじゃん、弟子とらないの?」

「……はじめに言っておくけど、それ、見事に脱線してるからな。」

「え~?」

 かなりいい考えだと思ってた僕はものすごくがっかりしたが、気を取り直した。

「何で? なんか見えたの?」

「いや、そんなのいちいち見なくてもわかる。」

「なんだよ、それ~。」

「おまえ、自分の進路に悩んでここに来たんだろ? 進学する方向に迷っていたんじゃないか。元はといえば、そもそも今から受験に備えるために、ちゃんと考えたくて整理しに来たんだろう? なのに今は、受験勉強から逃げたいって、顔に書いてあるぞ。」

「え、うそ。」

 どきっとしてたじろぐ僕に、柊ちゃんは笑った。

「ほら、当たった。」

「なんだよ。当てずっぽうなわけ?」

「でも図星だろ。」

 ちぇっと面白くなく思いながら、僕はふと思いついて言った。

「ねえ、じゃあさ、僕はどの方向へ進めばいいか教えてよ?」

 彼はちょっと僕を見てから、いつもの淡々とした口調であっさりと言った。

「そんなの自分で考えて決めるんだよ。」

 それはそうだけど……。

 正しい方向性があるならまっすぐそこに進むほうがいいじゃないか。がんばってみて、やっぱりだめだったとか、将来実際の職につながらなかった、とか、途中で結局方向転換することになるのは嫌だった。だから余計に進路に迷うのだ。これといってなりたいものや、やりたいこと、夢や希望があるやつはいいな、と思う。迷いがないから。僕にはその情熱もないのに、岐路に立たされて、無理やりに将来進む方向を今から選ばないといけないみたいな空気で、決め手になるものが見つからないまま、将来への不安だけがある。それが嫌で逃げてきたのもあったのだ。静かなところで自分を整理する時間があれば、何か見えてくるかもって──と、そこまで考えたところで、僕ははっとした。

 柊ちゃんにこんな風に安易に頼ろうと思ってここへ来たわけではなかったのに。行き詰まっていた僕を、何も聞かずに黙って受け入れてくれて、静かな環境で過ごせるように、十分彼は気を配ってくれていたし、何より静かな環境が必要だからここにいるのは柊ちゃん自身なのだった、ということに思い至り、僕はかああっと全身から火が出るくらい恥ずかしくなった。

「~っごめん! こんなこというつもりじゃなかったのに。そんなつもりで、ここに来たんじゃなかったのに…」

 柊ちゃんは静かに

「わかっているよ。」

 とひとこと。

 その声からは彼の感情が何も読み取れなかったので、僕はおずおずと顔を上げて彼の顔を見たけど、やっぱりその表情からも何も読み取ることはできなかった。

「しょーた、先がどうなるか解れば努力するの?」

「え?」

「努力すれば夢が必ず叶うってわけじゃないのが現実だよね。目的を持って始めた努力が、必ずしもその目的で報われないこともある。でも、必ず叶うって保証がなくても、それでも叶えたいから、そうやって意志を持って努力し続けるものなんじゃない? そこに思わぬ才能が開花することだってあるんだよ。始めは考えもしなかった新しい道や次の扉が開くこともある。そういう意味では、努力ってものは全く無駄ではない。こうすればこうなる、って確証があって何事もできれば、それは楽だろうけれど、なんでもそうとはいかないんだよ。それにそれだけでは意味もないんだよ。」  

 心をそのまま見透かされてしまった。

 恥ずかしいのを通り越して、なんだか気が抜けてしまった。

「うん、ごめん。」

「何か見えるならちょっとくらい教えてくれてもいいのに、って思う?」

「ううん! そんなこと思ってない……」

 さっきはちょっと思ったけれど。柊ちゃんはわかるからいいじゃん、とかも、さっきはちょっと思ったけど。でも、今は本当にそんな気持ちはなかった。だから、嘘じゃない…んだけど、と僕が彼を見上げると、柊ちゃんはちょっとからかうように笑った。

「そう?」

「うん。」

 なんとなく笑ってる柊ちゃんにほっとして、僕は

「でも、さっきはちょっとそう思ったけど。」

 と付け加えた。

 柊ちゃんはぼくの頭をくしゃくしゃと右手でかき回して笑った。

「弟子はとらないけど、おまえは有能な秘書みたいだから、俺もスカウトしたいのはやまやまではある。でも、これからどんな才能が他にも開花するかも未知数だから、ここで足止めはできないのが本当のところだよ。それにちゃんと雇えるほどこの仕事は収入もないからな!」

「有能な秘書みたい?」

 自分でも単純だと思うけど、つい嬉しくなってしまう。少しは役にたってたということだよね。

「いつのまにか頼りきりだから。助かっているよ。でもこれに慣れちゃうと、しょーたがいなくなったら、その分たいへんになるかなあ。」

 それでつい訊いてしまった。

「これ本業にしても、依頼も多いし人も雇えそうだよね。なんでそうしないの? 仕事が二つもあるから自分の時間もあまりないし、たいへんなんじゃないの?」

「本業にはできないよ。これ生業にしてしまったら、依頼をちゃんと選択できなくなるし、そうしたら多分、この能力も働かなくなりそうだし。無理だね。」

「ふ~ん、そういうもの?」

「食べてくための仕事が別にあるから、依頼も受けられるんだよ。」

「逆かと思ってた。今の本業があるから、副業の依頼があまり受けられないのかなって。」

「違うよ。」

 彼の答えはあっさりとしたものだった。

 生活のための仕事となったら、そのために最低限必要な依頼数も必然的に決まってくる。けれど、依頼自体がいくら多くても、受けられるものとそうでないものがある以上、自分の必要に応じて依頼を受けるわけにはいかない、ということなんだろう。それをしてしまったら肝心の能力も働かなくなる、というのは、潔癖な彼の性格によるものなのか、この能力自体がそういうものだからなのかはわからないけれど、どちらにしろ彼自身のためにそう都合よくはいかない、ということではあるんだろう。

 そもそもこの副業に金銭の授受があるにしても、それはどうしても必要なことだからなんだそうだ。彼の元に依頼を持ってくるのは、実はその殆どがプロのいわゆる相談業を営んでいる知人から(仲介される)なのが実情で、そうした人たちがその必要性を彼に注意したからなのだ。

 相談を受ける人と受けてもらう人には、金銭の授受という境界線があってこそ相手と自分を守れるのだそうだ。自分の問題と相手の問題を混同してしまうような境界の問題は双方に起こりうる。こうなると、本来問題解決できるはずの相談者本人の力も弱らせてしまい、心理的な退行を惹き起こしてしまったり、本来の問題からズレた新たな問題が持ち上がったり、いろいろトラブルが起きてくる。心理療法などのプロでもそうなのだ。それでも専門家であれば対応できる術もある。けれど柊ちゃんは専門家ではない。相談を受ける側もする側も守る為には、まず相談者自身に自分の問題である、という自覚を持ってもらうことが必要で、受ける側も自分の立場をわきまえることが必要。相談をきいてもらうということは、自分の問題のために他者の時間をかりる、ということでもある。金銭の授受というのは、現実的なひとつの境界線として機能するのだそうだ。双方にその自覚を促す役割を果たす。プロの間でも必ずそれが必要なのだから、柊ちゃんならよけい必要だ、ということで、金銭の授受が彼にも約束させられた、とのこと。なので基本的に金額を決めるのも柊ちゃんじゃない。依頼を持ってくるプロのひとに決めてもらって、彼はそれを相談者から受け取っているだけだった。

「今までの依頼分はもう確認したから、連絡頼めるかな。」

 マウスをさっきからカチカチいわせてチェックボックスをクリックしていた柊ちゃんは、PC画面から顔を上げて、僕に言った。

「あ、うんいいよ。今やっちゃう。」

「サンキュ。俺シャワー浴びてくる。」

 言って彼は肩をこきこきいわせて軽くストレッチしながら部屋から出て行った。平日は会社員。週末は副業の依頼を受ける。祭日はお休みだけど、本業の仕事を持ち帰ってしていることもある。働きすぎだと思うけどなあ。でもそれが彼の日課のようだ。だいたい平日でも依頼はメールでも電話でも来るから、そのチェックもして、連絡もなるべく早くして、とやっているのだ。それを一人で今までやっていたのだ。

 僕はお断りの連絡から始めようと、フラグのついていない案件から確認した。全部で九件。内五件はメールでの依頼なので、メールで返信する。残り四件は電話での依頼だったので、こっちは電話で、と画面をスクロールしていき、最後で僕は、あれ、と画面に目を留めた。由貴からの電話の依頼にフラグがついてない。でも、直接依頼者へ電話してたみたいだったよな、それは受けるってことなのでは? と思いつつ、後で確認しようと、スクロールした画面をトップに戻した。とりあえず八件のお断りの連絡の作業を終え、連絡の済んだメールとログの削除をしてから、今度はフラグのついている方を予定表と照らし合わせて連絡する。こっちは二件だった。確認待ち一件を残して作業終了。特に他にすることもないので、僕はコーヒーでも淹れようとキッチンへ向かった。きれいに機能的に整えられたキッチンで、夕飯何にしようかなあ(ここの家は基本的に自炊なのだ。居候の僕が最近作ることが多いけど、柊ちゃんの方が料理の腕は全然上である)と、コーヒーが落ちるのを待ちながら冷蔵庫を開けて考えていたら、

「夕飯にするにはまだ時間もあるし、ちょっと出かけないか?」 

 柊ちゃんがいつのまにか車のキィを持ってそばに来ていた。

「どこ行くの?」

「買出し、と、近くの海。」

 依頼者からの相談を受けた後の彼の行動はたいてい2パターンだ。①とにかくものすごく眠る。②海へドライブ。今日は両方らしい。こんな日もあるのか。何かとイレギュラーが続く日である。

「うん、行く!」

「すぐ出れる?」

 あ、コーヒー、とコーヒーメーカーに目をやると、ちょうど落ちたところだった。

「せっかくだからこれ持って行こうよ。ちょっと待ってて。」

「遠足に行く子供みたいだな。」

 きげんよく魔法瓶の水筒にコーヒーを移し変えている僕にちょっと笑って、彼は「先に車出しとく」とガレージへ行こうとしたので、「そういえば、由貴からの依頼の件フラグがついてなかったけど、あれってお断りするの?」と後ろから僕は声をかけた。

「ああ、あれ、依頼を受けるわけではないから、ログも削除しといていいよ。連絡は必要ないけど。」

 あ、そうだったのか。

 柊ちゃんは電話を留守電に切り替えてそのまま家から出て行ったので、僕は水筒を持って後を追いかけた。



「金曜の夜に来客があるから。」

 朝食の席で彼は僕にそう言った。

「あ、そうなんだ。」

「もしかしたら、そのまましばらく家に滞在させるかもしれない。」

 彼の今住んでいる家は、元は彼の父親が別荘代わりに所有していたものなので、ゲストルームがいくつかある。その一つを副業用の部屋にしたり、僕が使わせてもらっているが、使用していない部屋がまだあるのだ。

「居候が増えるのか。」

「そんなとこ。」

「準備しておくことがあればやるけど? どうせひまだし。」 

「う~ん、じゃあ使ってない部屋に風通して使えるようにしておいてもらえると、助かる。でも、無理しなくていいよ。」

「やることがある方がいいんだよね。僕も気が紛れるし。」

「夏休みの課題どうなってんの。」

 え、それは。まあ、ぼちぼち。

 口ごもる僕に彼はコーヒーを飲みながら

「こっちは助かるけど、おまえ自分の本分をちゃんと優先しろよ。後で泣きついても、俺助けてやれないからな。」

「わかってるよ。そんな、夏休みの課題手伝ってくれとは、さすがに僕も言わないよ。」

「ならいいけど。」

「ちょっと合宿みたいで楽しいね。」

 うきうきする僕に彼は言った。

「ああ、でも、今度来るのはおまえみたいに元気はないと思う。もしかしたら本当の休養目的で滞在させることになるかもしれない。由貴の話だとだいぶ弱ってるみたいなこと言っていたから。」

「ふ~ん。由貴の友達?」

「そうだけど、俺の友人でもある。しょーたみたいに、昔なじみみたいなものなんだよ。おっと、もうこんな時間。ごちそうさま。」

 腕時計を見て彼はすぐに席を立ち、足早に洗面所へ行った。朝は忙しい。ちなみに朝食を用意するのは殆ど柊ちゃんだ。僕が起きるより彼のほうが早起きで、これは何度かチャレンジしたけど僕が朝食を用意できた日は(情けないことに)なかった。ので、後片付けは僕がすると宣言して、今日に至る。

「あ、それからその客は女性だから。一応言っとく。」

 出社準備を整えた柊ちゃんはキッチンに顔だけ出してそう言うと、いつものようにきびきびとした無駄のない動作で「行って来る。」と、そのままビジネスマンとして家を出て行った。後に残った僕は、だいぶ遅れて、

「あ、そうなんだ。」

 とまぬけた返事をした。彼はとっくに家を出ていたため、ぞれは既に独り言だった。

 女の同居人ってこと?

 最近の柊ちゃんの身辺に女性の影があまりにもないのですっかり忘れてたけど、そういえば昔からもてたし、女性が(しかもきれいなひとがたくさん)その身辺にいないことのほうが珍しかったのを僕は思い出していた。

 う~ん、もしかしたら僕おじゃまかなあ。ここは自分から遠慮するべきだろうか?? 夏休み期間全部ここで滞在するつもりだったけれども、もしかしたら早く切り上げることになるかも???

 突如発生した自分の身の振り方問題についてしばし考えていたが、ま、成り行きに任せようと、思い直した。   



「すごいな。」

「有能な秘書だから。」

 これはさりげなく、ここにこのまま滞在する切符を手放したくない僕のアピールでもあったのだが、そんなことお構いなしの柊ちゃんには

「スカウトしたいのはやまやまだが、雇えるほどの甲斐性はない。自分の進路は自分で切り開けよ。」

 とダメ押しされてしまった。

 ゲストルームを掃除してリネン類もきちんと整えると、僕がここへ来たときと同じ部屋が出来上がった。ベッドのマットレスや布団もちゃんと干したし、すぐに使える状態だ。

「わかってるよ。」

 言いながら僕は、部屋を見回してチェックしている彼を眺めた。

「他に必要なものがあれば買い物にも行くけど?」

「いや、それは俺が準備しとくからいいよ。サンキュ。」

「明後日の夜来るんでしょ。その人。夕飯はどうするの?」

「あ、じゃあ一応4人分用意しておいてもらえると助かる。」

「四人?」

「由貴が一緒に来る。」

「あ、そうなんだ。」

「簡単なものでいいよ。デリバリー頼んでもいいし、あ、でもご飯だけは炊いといてもらおうかな。」

「OK。」

 一通り部屋のチェックを終えたらしく、柊ちゃんは僕をしみじみと見て言った。

「なんかここへ来てからというもの、日増しにおまえ活き活きとしてるな。来たばっかりのときはどんより曇りきっていたのに。」

「なんだろうね? 仕事が面白いってこういう感じなのかな、って思うことが、ここへ来て多くってさ。進路を頭だけで悩んでるより、実際バイトとかで自分の体使って体験してみるとかもいいのかも、とか最近思うようになったんだよね。バイトで体験できる仕事も限られてるけど、でも職場見学のため雑用でもいいから、ってお願いすれば、実際に働いている人たちを間近で見学させてもらえることもあるかもしれないし。」

「前向きだな。」

「どうせなら面白いって思える方向に進もうかな、って。そうしたらちょっと気楽になったんだ。」

「ふ~ん、迷ったら楽しいほう?」

「そう。そんな感じ。だめかな?」

「いいんじゃない? しょーたらしくて。」

 まさにここぞ、というタイミングでの、優しい微笑みと温かい声だった。なぜなら、ものすごく僕は嬉しかったから。ほんとうに思わず涙が出そうなほどだった。これには自分でも驚いたけど。

 なんとなく、大丈夫、このまま進め、と背中を優しく押してもらえた、そんな気がしてしまったのだ。

 これだけでもここへ来た甲斐が、充分あった。そんな風にも思ってしまったほどだった。でも、できるならこのまま夏休み中は滞在したい。そんなわけで僕のその感動は、現実志向にすぐ切り替わった。

「他になんかやっとくことある?」

「もう充分だよ。実際滞在することになるかどうかはわからないんだけど、一応準備だけしておきたかったんだ。助かったよ、ありがとう。」

 よし、ポイントゲットも抜かりなし。 

 と思いつつも、僕はなんとなく考えていた。自分がお客様を迎える準備をしていて始めて気づいたんだけれど、これって、柊ちゃんが僕のためにこうして実際に環境を整えて、迎えてくれていたってことでもあるのだ。実際に自分がやってみるまで、当たり前のことなのに気づかなかったけど、忙しい中手間ひまかけてそうして自分を迎え入れてくれていた、そのことのありがたみのようなものに、本当に気づかされたのだ。それは僕にとっては、目から鱗、というくらいの衝撃でもあった。

 受け取るほうは当たり前のように思えることでも、実際にはそこにはそれだけの時間や手がかけられていて、それは実際に自分がしてみるまで、本当にそのありがたみや込められている心のようなものにちゃんと気づかないことって、あるのだ。自分では感謝しているつもりだったけど、わかっていなかったのだ。それって、考えてみるといろんなことにあてはまる。そう考えると、なんだか改めて世界を見直したような新鮮な驚きがいっぱいあった。つまり、僕の目から鱗が落ちた、なのだった。

「こっちこそいろいろ勉強になったから、お礼を言いたいくらいだけどね。」

「そう?」

「実際やってみて、初めて気づくことって多いんだね。」

 一人で納得していたら、柊ちゃんは

「まあ、そうかもね。」

 と僕の頭をくしゃくしゃかき回して笑った。そのまま一緒に部屋を出ようとしたのだが、ドアを閉める前に思い出したように彼は僕に言った。

「花瓶、出しといてくれるかな。倉庫にいくつかあるから、そうだな、ガラス製のこんくらいの大きさのやつ。」

「花瓶?」

「うん。あのサイドテーブルに置けるくらいのやつ。」

 花瓶ねえ……。

「ふ~ん?」

「なににやにやしてるんだよ?」

「べつに?」

 花瓶だって。それってつまり、そこに花を飾るってことだよね。花だよ、花! ふう~ん、へえ~、あのいつも女にクールだった柊ちゃんが? なんかこりゃ面白いことになってきたぞ? 僕がにやにやしてたら、柊ちゃんはむすっとして

「何か勘違いしてるみたいだから言っとくけど、花を置くのは、それが疲れた人の心を慰めてくれるからだからな。」

「そうだよね。わかるよ。お見舞いにも花持ってくしね。」

 にやにやしながら僕が言うと、彼はちょっと赤くなった。

「……勘違いするなよ。本当にそうなんだからな。」 

「顔赤いよ?」

 うわ~おもしれ~。

「おまえがすぐそうやって小学生並みに勘違いするから、逆に恥ずかしくなっちまったんだよ! ばか!」       

「ふ~ん?」

「小学生レベルのおまえといると、調子くるうんだよな。」

 ぶつぶつ言いながら彼はゲストルームのドアを閉めた。



「翔太、これから仕事モードに切り替えとけよ。」

 当日早めに会社から帰宅した柊ちゃんは、ネクタイをゆるめながら僕にそう言った。

「へ?」

「口述筆記で相談室に入るときと同じように。」

「うん?」

 神妙にしていろ、ということか?    

 花束買って帰って来た柊ちゃんを見て笑ってしまったから怒ってんのかな。

 淡い薄桃色のコスモスとカスミ草の花束を丁寧にほどいて、さっきまで彼はゲストルームのサイドテーブルに置かれた花瓶に生けていた。僕には生け花の心得などないが、花瓶に生けられた花は花束のときよりも、やわらかく華やいで見えた。そういう美的センスのようなものが彼にはあるんだな、とつい感心してしまい、からかうのも忘れて見入ってしまった。

 花を生ける人の手がきれいだと思ったのは初めてだった。こわれものでも扱うみたいに、花にそっと優しく触れて、丁寧に生けていた。

 それを見ていたら、これから来るという女の人は、本当に本当に疲れた状態でここへ来るのかもな、と、なんだか妙に納得してしまった。からかって面白がったりして悪かったかも。そう思いつつ僕は、言われた通り仕事モードに切り替えた。それからちょっとしてから、由貴とその来客の訪問があったのだけれど、そこで僕は改めて彼に言われたことの意味を悟った。


「悪い、遅くなった。」

 由貴がそう言って先に玄関から入ってきて、後から彼女が続いて入って来た。

「おかえり。」

 柊ちゃんはそう言って二人を出迎えていた。

「こっちは翔太。夏休み中ここで預かっているんだ。こっちは遼子りょうこ。」

「はじめまして。」

「どうも。」

 柊ちゃんに互いを紹介されて僕らは挨拶し、リビングへみんなで向かった。

「なんかこいつ、珍しく車酔いしたみたいなんだ。ちょっと休ませてやったほうがいいかも。」由貴はそう言って、「だいじょうぶだよ」と言う遼子さんに「さっきまで死にそうな顔でぐったりしてたくせに」と言っていた。

「部屋で少し休むか?」

 柊ちゃんがそう言うと、遼子さんは笑って「ありがとう。でもだいじょうぶ。由貴はちょっと大げさなんだよ。」と答えた。僕はキッチンで清涼感のあるハーブティを淹れてそれを出した。彼女はそれを飲んで

「おいしい。すっきりするね。」

 と僕に笑いかける。

「よかったです。」

 少しほっとして僕は彼女に微笑んだ。

「俺はお茶よりビールがいい。」

 由貴がそう言うので、僕は冷蔵庫から瓶ビールとグラスを持ってきた。

「俺はいい。」

 柊ちゃんは断っていたが、由貴に「一杯だけ飲めば?」とグラスに注がれて、飲んでいた。

「食事は? 済んでるの?」

 柊ちゃんが二人に尋ねると、

「まだ。でも何かつまめればいいかな。」

「私はあまりおなかすいてない。」

 キッチンで夕食を温めなおしていた僕にもそれは聞えた。柊ちゃんが聞えたかどうか確認するようにちらっとこっちを見たので、僕は黙ってうなづく。温め直した惣菜や冷やしたサラダを大皿のままテーブルに並べたり取り皿を置けば、おつまみとしても取り分けられるのでそうした。

「ごめん、全部やってもらって。」

 しばらくして柊ちゃんがキッチンへ入って来た。

「ううん。それより、柊ちゃんは向こうに行っていたほうがいいんじゃないの?」

「翔太も、もうこっちはいいから、おいで。」

「うん。」

  

 遼子さんはものすごく痩せていて、顔は洗いすぎて赤むけた肌のようなつっぱった肌をしていて、お化粧をしていないので、一見年齢がよくわからない感じだった。普通じゃないやせ方をしている細い手足はひからびた老人を連想させた。仕事モードでいろ、と柊ちゃんが言ったのは、ポーカーフェイスでいろ、という事だった。何を見ても聞いても、動揺するな。僕は因幡の白兎のような、ひりひりした痛々しい印象を彼女に持った。遼子さんはよく笑う人だったけど、その笑顔はまるで泣いているみたいな印象だった。


 軽くみんなで食事してしばらくして、由貴が「翔太、ちょっと付き合え」と僕を酔い覚ましに散歩に誘ったので、僕らは近くの海岸までぶらぶら歩くことにした。夏の夜だし、外を歩くのは気持ちがよかった。

「遼子さんが、由貴が持ち込んだ依頼の人?」

「そう。」

 あのときの依頼者の名前と同じだったので、紹介されたときに多分そうだろうな、と思っていた。相談内容も少し記憶しているが、けっこう複雑だった気がする。

「柊ちゃん依頼受けないって言ってたよ。」

「ふ~ん、じゃあそうなんだろ。」

 由貴はどちらでもいい、と言う感じで答えた。

「いなばの白兎みたいな人だったね。」

「……おまえうまいこというな。」

 由貴はちょっと笑った。

「だいぶ緊張してるみたいだったね。彼女。」

「昔はあんなやつじゃなかったんだけどなあ。」

「ふ~ん?」

「兄ちゃんと会うのも久々だし、初めは嫌がってた遼子を無理にここまで引っ張ってきたから、それもあるんだろ。」

「そうなの?」 

「あいつがだいぶまいってるみたいだったから、ものすごく腕のいい占い師がいるからみてもらえって、それが兄ちゃんだとは言わずに話を聞きだしたんだ。ちょっと強引だったから、ものすごく後で怒られた。」

「そりゃそうだろ。」

 あきれる僕に、由貴は肩をすくめた。

「それしか思いつかなかったんだよ。あいつあんなに痛々しいくせに、強がるし。あそこまで外から見て絶対大丈夫じゃないのに、だいじょうぶ、と言う神経がわからん。こりゃ俺じゃ手に負えないってわかったけど、放っておくわけにもいかないし。」

 ものすごくおおざっぱで乱暴な意見だったけど、言わんとしてることの意味はよくわかった。

「誰かが止めてあげないといけないって思ったんだね。」

 あなたは今とても傷ついている状態だから。

 あなたに今必要なことはがんばることより、休息をとることだから。

 そう言って止めてあげなかったら、そのままどんどん進んでどんどん傷ついていってしまいそうな、どこか強迫観念めいたものが彼女を突き動かしてるのは、僕にもその雰囲気でなんとなくわかった。

 神経や心が参ってしまっているのを通り越して麻痺してる感じ。それが常態化してしまっている、そういう人特有の印象を僕は彼女に持った。

「本当は家族とかがその役割をするんだろうけれど、あいつにはその家族がいないんだよ。だから兄ちゃんのとこに連れてきたんだ。」

 遼子さんと由貴と柊ちゃんは幼なじみで、遼子さんと由貴がまだ十代の頃、よく一緒に過ごした仲間なのだそうだ。その当時にはもう成人していた柊ちゃんは、二人にとって父兄代わりみたいなものだったとか。


「だって仕方ないじゃん。俺たち酒飲んじゃったし。」

 由貴がそう言うと、遼子さんはちょっと怒った。

「ちょっと寄るだけって言ってたのに。」

「泊まってもらってもこっちは大丈夫だから。君も疲れてるだろ?」

 柊ちゃんがそう言うと、遼子さんも観念したのか

「……ありがとう。」

 と言った。

 酔い覚ましの散歩から僕らが帰ると、遼子さんはソファでうたた寝をしていた。

「さっきまで少し話してたんだけど。……疲れてたんだろ。」柊ちゃんは落とした声でそう言って、彼女の肩からずり落ちそうになっていたタオルケットを静かにかけなおしていた。あまり音を立てないようにリビングを片付けて、ダイニングテーブルに移動し、軽く夜食を取りながら僕らが話していたら、彼女が目を覚ました。時刻が深夜になっていたのに驚いて由貴に帰ろうと言ったところ、先ほどの展開となったのだ。

 目を覚ましてからの遼子さんは、前よりリラックスしているように見えた。まず、もう無理に笑ったりしない。それから気を使って会話のために喋るということをしない。

「少し何か食べない? 遼子、殆ど何も食べてなかっただろ?」

 柊ちゃんがそう言うと、彼女はおとなしくうなづいて、ダイニングテーブルの席に僕らと一緒についた。柊ちゃんはコンロに火をつけて、小なべでごはんをおかゆにしていた。由貴はあいかわらずビールを飲んでいた。僕は自分と彼女にお茶を淹れて、それをちびちびと飲んでいた。僕と由貴が喋っている間、遼子さんは少し眠そうにぼうっとしていた。

 深夜のダイニングルームは、なんか奇妙な場所だった。オレンジ色がかった暖かい光のまゆに、みんながすっぽりとくるまれてるみたいな、そんな感じだった。寄せ集めだけど、ひとつの家族みたいな。

 できあがったおかゆを丸いスープカップに入れて、柊ちゃんは遼子さんの目の前に置いた。しばらくそれを眺めていた彼女はゆっくりした動作で手を合わせた。

「………いただきます。」

「どうぞ。」

 遼子さんの隣には柊ちゃんが座っていた。

 彼女はスプーンでおかゆをすくって

「熱いから気をつけて。」

 と言う柊ちゃんにうなづいてから、ふーふーと息を吹きかけて冷まし、そうっと口に入れた。ごくん、と飲み込んでから、「おいしい……」と言って、もう一口スプーンですくい、それに息を吹きかけ、ゆっくりと口に入れた。

 気づくと、彼女はスプーンでおかゆを口に運びながら、ぽろぽろ涙をこぼしていた。まるでスプーンでおかゆが口に入ると、その分中から涙がぽろぽろっと出てくる仕掛けのようだった。何も言わずに、スプーンですくったおかゆを口に運び、彼女はただ涙をこぼしていた。

 何故使うかどうかさえもわからないゲストルームに、わざわざ花を飾ったのか、柊ちゃんの気持ちが今は少しだけ理解できるような気がする。

 休息を必要としている友人をゆっくり休ませてあげたかったんだろう。いらっしゃい、おかえり、あなたを待っていた、何でもいいけど、とにかく歓迎しています、というやさしい祈りや真心のようなものが、そこにはあったんだろう。



 裏庭の草木にホースで水をまいていたら、遼子さんがぶかぶかの柊ちゃんのサンダルをはいて、そばに来ていた。

「気持ちよさそうだね。」

「やりますか?」

「水まきもそうだけど、草木が、ってこと。」

「ああ。」

 夏の暑い日差しにやかれてもなお緑青々と繁る裏庭にある木々や草花は、水のしずくをしたたらせながら、光を受けてつやつやきらきらしていた。

「昔はこの根元あたりにコスモスが一杯咲いてたんだけど、今もそうなのかな?」

 遼子さんは僕の後ろに回り、常緑樹の足元にひろがる草むらにしゃがんで辺りを見回していた。

「僕は今年始めてここに来たので…」

 水がそちらにいかないようにホースの向きを気をつけながら僕が言うと、

「コスモスって秋の花だもんね。早咲きのもあるんだけど。」言いながら、彼女は立ち上がってスカートのすそをはらった。

 ホースの口を指でちょっとつぶして水が扇状にひろがるのを、指の力加減で形を変えて遊んでたら、水しぶきの中に虹がかかった。

 きれいだな、と思って、遼子さんを呼ぼうとしたら、

「きれいだね」

 といつのまにか彼女は近くに来て、しゃがんでそれを見ていた。

 猫みたいな人だ。

 遼子さんは居候ではないが、ふらっとやって来て、少し滞在して、帰っていく。

 初めのころは眠ってばかりだった。柊ちゃんか由貴に連れて来られて、そのままリビングのソファかゲストルームで昏々と眠ってしまうのだ。うわごとのように、「ごめんなさい、ごめんなさい」と眠りながら泣いていることもよくあった。たまに自分の寝言で目覚めることもあって、ぼうっとしている彼女の頭を、柊ちゃんは子供の頭をなでるみたいに黙ってなでていたりすることもよくあった。そのうちに彼女は安心したようにまた眠りにつく。

 そうやって眠りながら何かを蓄えていったのか、薄紙をはぐように彼女は変わっていった。まず赤むけて張り詰めていたような肌がだんだん白く柔らかい感じになってきて、やせすぎだった身体は今もやせてはいるけれど、前ほどではなくなった。

 日焼け止めのための薄化粧をして、長袖の麻シャツを羽織り、ロングスカートをはいている今の姿だと、以前のように病的な違和感は感じさせなかった。

 心ここにあらずの半分幽霊みたいな感じでいることが多かったけれど、初対面の時の彼女のように、無理に笑ったり喋ったりしない分、こちらのほうがあるべき姿に近いんだろうと思う。

「柊ちゃんは?」

 蛇口をきゅっとひねって水を止め、僕が彼女に尋ねると、彼女は二階の彼の寝室の窓を指差した。

「眠ってる。」

「今日はパターン①か。」

「なにそれ?」

「副業は疲れるんでしょう。依頼者からの相談を受けた後、柊ちゃんの行動はたいてい2パターンなんです。①とにかくものすごく眠る。②海へドライブ。稀に①+②もありますけど。」

 手でひさしを作って、二階の窓を目を少し眇めて見ていた遼子さんは、そのままでぽつりとつぶやくように言った。

「……まさか柊ちゃんが占い師やってるなんて、思ってもみなかった。」

「そういえば、遼子さん、由貴にだまされたんですよね。」

「びっくりしたよ。やけに占い勧めるな、と思ってたら、その占い師って柊ちゃんだったんだもん。そんなこと考えもしなかったから、興味本位でじゃあお願いって頼んだら、依頼をもらったんだけど、って突然柊ちゃんから電話がかかってくるじゃない。最初は何のことだかわからなかった。」

「そりゃ驚きますよね。」

「もうびっくりだよ。占いで答えが得られるのか半信半疑だったけれど、その占い師がどんな風に答えるのか興味もあって、つい本当にききたいことを相談内容として、由貴に伝えてしまった。そしたらこんなことに。」

「めちゃくちゃ怒られたと由貴は言っていました。」

 彼女はちょっと笑った。

「あの時は本当に、なんてことしてくれるんだ、ってものすごく腹が立ったから。」

「それはそうでしょう。」  

 陽射しの眩しさと暑さから逃げるように、僕らはガラス戸を引いてリビングに入った。室内はエアコンが効いていて涼しかった。冷蔵庫からソーダ水を出しグラス二つに注いで、僕と遼子さんは立ったままそれを飲んだ。

「……私、本当はこんなぼろぼろの状態で彼に会いたくなんてなかったんだ。」

「柊ちゃんに、ってことですよね。」

「うん。柊ちゃんにはいろいろ昔心配かけさせたりしてたから、こんな最悪な形で再会なんてしたくなかったよ。」

「そうですね。最悪といえばそうですね。」

「本当よね。」

 僕はちょっと考えてから、彼女に言った。

「……でも、そうでもしなかったら、本当にあなたのことを大切に思っている人たちに、本当にあなたが苦しんでいて、支えを必要としているってことも、届かなかった。あなたはきっと、助けを求めようとも、思わなかったでしょうし、しなかったでしょうね。」

「そうだね。」

 彼女は冷凍庫から指で直接氷をつまんでグラスに落とし、グラスを揺らして中の氷をからから鳴らし、その響きを楽しんでいる。

「神様って意地悪なんだか親切なんだかわからないことをするものなんだね。」



 私の家族は信仰を持っています。母と妹はその宗教にとても熱心で伝道熱から延々とその信仰について語ることもあります。私は若い内に結婚をして家族の元を離れましたが、妹は私の心配をするようなことを言いながら信仰の話を使って不安を煽ったり、夫への不信の種をまくようなことを言ったりします。何のためにそんなことをしたいのか、私には全く理解できませんでした。私はだんだん情緒不安定になってしまい、カウンセリングなども受けてみましたが、あまり効果はなかったです。夫にこれ以上迷惑をかけられないので、私は離婚をすることにしました。母や妹の言う信仰の論理によるとそれは因縁のせいなのだそうです。信仰の全てが悪いとは思いませんが、私は素晴らしいことを語りながら、人の不和や不安を煽るような人の行動が理解できず信じられないのです。何故こんなことをするのでしょうか。私はこうされるだけのことをしてきたということでしょうか。考えても仕方ないことなのかもしれませんが、理由や意味がわかるなら知りたいです。私はただなぜそうなるのかその理由が知りたい、と今でも思ってしまいます。


 保留にしたまま別のフォルダに残して削除し忘れていたログ──初めに由貴から聞いた依頼の相談内容──を読みながら、僕はあのとき思ったことを思い出していた。

 この人、理由を知って、どうするつもりなのだろう。それが例えば、ものすごくくだらない嫉妬とか足の引っ張り合いとか、人間のそういった側面が引き起こした単純な悲劇で、そこに信仰がからんでいるのでややこしくなっているけれど、高尚な意味や理由などその家族の行動にはなく、人間の暗い理不尽な側面を単純にあぶりだすだけ、という結果だったら、そうしたらどうするのかな、と思ったのだ。

 信仰の話などをして自分のことを思うような心配するようなことを言ってくるのに、実際には不安や不和を煽るようなことをする、そういう人の行動は信じられない──このひと、全部ちゃんと答えを自分で言ってるのに、宗教と言う未知の分野が入ってきているので、自分がわかっていないだけで、本当に家族は自分のためを思ってくれていたのではないのか、という気持ちも捨てられないでいるのだ。きっと。

 信仰の話自体は素晴らしいものだから。それを信じる人たちも善良なひとだと、どこかでそれを信じたり、信じたい気持ちがあるんだろうか。それとも、それが家族だから?

 理由が知りたいというのは、つまり、このひとは何を信じたらいいのかわからないような、感覚が麻痺した状態なのだろう。自分の身に起きた事に関して、どういう立ち位置を自分が取っていいのかもわからない。怒っていいのか、悲しんでいいのか、反省すればいいのか、そのどれもなのか? それがそのまま保留状態のままになっているんじゃないだろうか。そのなかで、元の理由がわかれば、真偽もはっきりしてくる、そうすればこの件に関しての自分の立ち位置も決められる、そんなニュアンスが漂っていた。

 本来なら怒りや悲しみや後悔など、理由やその正当性など関係なく感情が爆発するようなところで、そのエネルギーが保留にされたまま、『正当な理由』を持った『出口』を、求めているとしたら??

 僕はそれを思って、あのときとても気になったのだった。

 この依頼は遼子さんが取り下げたのもあって受けられることはなかったわけだけれど、この内容は柊ちゃんも知っている。遼子さんはこんなこと柊ちゃんに知られたくなんてなかっただろうけれど。二人はこのことについて、何か会話を交わしたりしたのだろうか?

 僕はこのログを削除して、ため息をついた。       

 人間って、実際に目に見えているのにそれを信じられなかったり、信じようとしなかったり、それを見ている自分のほうを疑ってみたりするものなのだな、と思った。そうまでして認められない事実。そこには、その人がどうしても捨てきれない何かが秘められているのだろう。それがそうまでして護るべきものかどうか、その判断能力が麻痺してしまうほどの何か。



 僕は最近、見守るってのはけっこう精神的にハードなことなのだな、と柊ちゃんと遼子さんを見ていて思う。親が危なっかしい子をはらはらしながら、でもいたずらに手を出したりせずに、何かあったらすぐに対応できるよう神経は張っていながらも、そっと見守るような心。柊ちゃんは、そういう意味で本当に親のようだった。

 多分僕が行き詰まってここへ来たときも、きっと柊ちゃんはこんな感じで見守っていてくれたんだろう。なんとなく二人を見ていて僕は思った。ちょっと不思議な感じだった。今僕はどちらの気持ちもわかるような気がしながら、こうして二人を見つめているのだから。

 遼子さんは自分の中に沈み込んでいることが多かった。そういう彼女は半分幽霊みたいな感じだった。半分こっちの世界にいて、半分ここじゃない遠いところにいる、そんな感じ。それはものすごく敏感で繊細なところと、おそろしく鈍感なところが、一人の人間の中に同居しているようにも見えた。

 

 真夜中、どこからか低いぼそぼそとした話し声が聞えてくる。目を覚ました僕は、時計を見て深夜の二時をまわったところだと確認して、一瞬ぞっとしたけれど、多分柊ちゃんと遼子さんが起きていて話しているのかもしれない、と思い直した。なんとなくのども渇いていたので、水を飲みに台所へ行くと、案の定電気がこうこうとついていて、ダイニングテーブルをはさんで柊ちゃんと遼子さんが向き合っていた。テーブルの上にはマグカップが二つ置かれていた。

「起きてたんだね。」

 言いながら僕がキッチンへ入っていくと、柊ちゃんが顔を上げた。

「翔太も眠れないのか?」

「ううん、僕は目が覚めただけ。」

 冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取って、コップに水を注ぎながら、僕は遼子さんのほうを見た。彼女の肌は日ごと白くなっていくように透明感が出てきていた。初対面の時の彼女は、まるで赤鬼のように張り詰めた肌が少しくすんで赤かったが、今は少し青白い。ぼうっとどこか遠いところを彷徨っているような瞳をしてほおづえをついていた。

 彼女はさっきまで話していたかと思ったら、急にここから心だけが遠いところにいくみたいに、こんな風に自分の中に沈みこむことが多かった。どうやらそうして会話が途切れたところに、僕はやってきたようだった。

「柊ちゃんは眠れないの?」

「日中けっこう眠ったからかも。」

 水を飲んでいたら、遼子さんがこちらへ戻ってきたようで、顔を上げて僕と柊ちゃんを見た。

「コーヒー淹れるけど、飲むか?」

 柊ちゃんが遼子さんに声をかけると、遼子さんはうなづいた。

「翔太は?」

 立ち上がってコーヒーメーカーのところへ行きながら、柊ちゃんは僕にも訊いたので、「もらう」と僕も答える。さらさらと粉をフィルターに入れている音を背後に聞きながら僕は立ったままでいたので、遼子さんが

「座れば?」

 と僕に声をかけた。

「ああ、うん。」

 コーヒーを淹れてもらうことになったので立ち去るきっかけを失った僕は、彼女の斜め前に座った。おじゃまじゃないかな、と思いながらも、ついここに残ってしまったのだが、いざ席についてみてなんとなく居心地悪かった。

「柊ちゃんが面白いこと言うんだよ。」

 遼子さんは僕にそう言った。

「なに?」

「半死半生の猫みたいだって言うの。半分生きていて、半分死んでる。」

 僕はそれが彼女のことをさして言ったことなのだと思い、

「ああ…」

 となんとなく言った。

「知ってるの?」

「え?」

 知ってる? 何を? 問いかけの意味がわからず、僕はききかえした。そのやり取りを聞いていた柊ちゃんが、察したのか「遼子が言ってるのは、シュレーディンガーの猫のことだよ。」と、僕に言った。

「なにそれ? 知らない。」

「そういうパラドックスの思考実験の話があるんだよ。」

「何の話? 話が全く見えないんだけど?」

 柊ちゃんは調理台にもたれてこっちを向きながら、僕に説明した。

「シュレーディンガーは物理学者。量子論についての論文を1935年にドイツの科学雑誌に発表したんだけど、その中で、彼は猫を使った思考実験を使って、量子論が抱える問題点を指摘したんだよ。これが『シュレーディンガーの猫』。」

「物理学の話をしてたわけ?」

 やっぱりコーヒー断って、さっさと寝室戻ればよかった。

 後悔していたら、遼子さんが僕に言った。

「私は難しいことや詳しいことはわからない。ただちょっと、面白かっただけ。」

「ふ~ん?」

 コーヒーメーカーがコポコポと音をたて始めた。

 柊ちゃんは調理台にもたれたまま、僕の方を向いて言った。

「鉄の箱の中に放射性物質と、放射線の検出装置、そして検出装置に連動した毒ガス発生装置を置くとする。放射性物質が原子崩壊を起こすと、放射線を出す。放射線を出した検出装置は信号を毒ガス発生装置に送り、毒ガスを発生させる仕組みになっている。この箱の中に生きた猫を入れ、ふたを閉じる。この実験で一時間以内に放射性物質が原子核崩壊を起こす確率は五十パーセントであるとする。一時間が経過した。箱の中の猫はこのときどうなっているか?」

「……頭の中だけでの理論上の実験とはいえ、なんか残酷だね。」

「そうだね。」

「箱のふたを開ければ猫の生死はわかるけど、ふたを開ける前の箱の中の猫の状態が、外にいる僕らからしてみれば、いわば半死半生ってわけだね。」

 そこで遼子さんが口を開いた。

「そういうことみたい。」

「量子論では、観測前の放射性物質の状態について『原子核崩壊を起こした状態』と『原子核崩壊を起こしていない状態が』が半分ずつ重ね合わさっていると、考える。これが量子論に基づく考え方なんだよ。観測すればその有無は判明するけれど。観測する前の状態については『重ねあわせになっている』とするんだ。」

「ふ~ん。」

「でもそれが、実は一方に決まっているけれど、箱の外にいる私たちはそれを知らない、とみなさずに、猫の生と死の状態が重ねあわせになっていて、生死のどちらか一方だけには決まっていない、と考えるんだって。箱を開けてみたとたんにどちらか一方に決定される。っていうの。へんなはなしでしょ。」

「量子論のなかではそうなんだよ。観測前に『重ね合わせ』の状態にある対象物は、観測された途端に波が収縮して、ただひとつの状態に決まる。ミクロの世界ではそうなんだよ。古典物理学などのマクロの世界の常識が成り立たなくなる世界なんだから。」

 僕は、んん? とそこで思わず眉根を寄せた。

「放射性物質が原子核崩壊を起こすかどうかは、ミクロの世界の現象だよね。でもそれに連動している猫の生死はマクロの物体の現象じゃないか。だったら、ミクロの世界ではそうでもマクロの世界の常識も成り立たないとおかしくなってこない? その常識から言えば猫の生死は既に決まっていることになるんじゃない?」

 柊ちゃんはけろっとして答えた。

「それがシュレーディンガーの猫と呼ばれるパラドックスなんだよ。彼が提示したこの疑問に対して、誰をも納得させる解答は見つかってないけど、多世界解釈の考え方もある。いわゆるパラレルワールド。『猫が生きている世界』と『猫が死んでいる世界』が平行して存在することになるから。」

「可能性の数だけ世界が同時進行で枝分かれしていくってこと? 確かめようがないじゃん、そんなの。」

「まあね。」

「なんかぐるっと一回りしてもとの道に戻ってきてしまったみたいな気分になるな。うまく煙にまかれたような。」 

 遼子さんはそう言って柊ちゃんを見た。

「そんな物理学者の難儀な疑問につきあってらんないよ。あほくさ。たとえパラレルワールドが存在したとしても、確かめようないし。僕の生きているのはこの世界だもん。」

 僕がそう言うと、柊ちゃんは笑った。

「ばっさりだな。」

「元はといえば何の話からそんな話になったわけ?」

 遼子さんは、ん~と、とちょっと記憶をたどるように首をかしげた。どうやら話がどんどん枝分かれして行き着いたのが物理学の難問だったようだ。なんだったっけ? と遼子さんはけっこうな間を置いて、おもむろに、おお、という顔をしてから答えた。まんがみたいにわかりやすい人だ。

「由貴が持ち込んでしまった占いの件、私もやっぱり頼めないかな? って話をしていたの。だって、柊ちゃん、占いって言ってるけど、本当は能力使ってみて答えてるんでしょ?」

 おっと。そんな話だったのか。

「それ、で?」

 僕が二人を見比べると、遼子さんは

「受けられないって。」

「……ふ~ん」

 僕はなんとなく柊ちゃんのほうを見た。彼は腕組みをして、淡々とした口調で彼女に答えた。

「しようがないだろ。俺が受けられるのはごく限られたケースなんだよ。実際受けられないものの方が多いんだ。持ち込まれる依頼に対して、殆ど役に立てない場合が多いんだよ。万能ってわけではないんだから。俺の能力ってその程度なんだよ。」

 そうか、受けられないケースなのか。

 なんとなく僕は黙って二人を見ていた。

「翔太がよく知ってるよ。こいつが今、依頼の受付やってくれてるから。」

 こっちにボール投げるのかよ、と僕は思いつつ、遼子さんに言った。

「本当ですよ。今のところ依頼のほぼ八割位はお断りしてるんです。」

「翔太君が受付もしてたの?」

 あ、と思いつつ僕はうなづいた。

「じゃあ、依頼のあった相談内容も知ってるんだ。」

 まっすぐ僕を見て訊いてくる彼女に、僕はゆっくりうなづいた。そうしてできるだけ落ち着いた声で答えた。

「でも秘密厳守なのはきちんとわかってますよ。」

「そう。」

「信頼できない人間に俺の仕事を手伝わせたりはしないよ。」

 柊ちゃんが静かな声でそう言った。彼の表情も声も淡々としていて、それは真夜中のダイニングキッチンに静かに響いた。

 遼子さんは柊ちゃんの顔を見つめていたけれど、ふとその視線を移動させて言った。

「あ、コーヒー落ちたみたい。」

 柊ちゃんはコーヒーポットと棚から出したマグカップを持って僕の隣に来た。そして立ったままテーブルの上に置かれた三つのカップにコーヒーを注ぐと、ポットをコーヒーメーカーに戻してから、僕の隣の椅子に腰を下ろした。なんとなく黙ったまま三人で熱いコーヒーをすする。

 う~ん、苦い。でもいい香りだった。

 なんか奇妙な感じだった。はからずも自分の懊悩をさらけ出すことになってしまった人が目の前にいて、同様にそれを知ることになってしまった柊ちゃんと僕がいて、その三人が黙り込んだまま同じものをこうして飲んでいる。

「なんだか変な感じ。」

 遼子さんは気の抜けたような声で言った。

「そうですね。」

 僕も同意した。

 柊ちゃんは一人涼しい顔をしてコーヒーを飲んでいる。

 遼子さんは片手で頬杖をついて、僕と柊ちゃんの顔を交互に眺めてから、僕に言った。

「私、肝心なことを相手に訊けないまま、あれこれ頭で考えちゃうの。訊けば確かめられるかもしれないことも、なんだか訊けないで、そのまま立ち往生してしまうんだ。」

 僕は彼女に言った。

「確かめられるなら訊いてみればいいじゃないですか。肝心なことならなおさら。」

 彼女はカップをテーブルに置いて、それに視線を落とした。

「そう思うんだけど、何故かそれができなかったの。それで、今もできないでいるんだ。」

 ふと、これは何の話なのだろう? と僕は思った。

「確かめるのが怖いんじゃないんですか?」

 なんとなく僕がそう言うと、彼女は言った。

「初めはそうだったんだけど、今は違う。……と思う。」

 僕はおずおずと遼子さんに言った。 

「……わからないでもないんですが、漠然としていてなんかいまいち話がみえにくいです。もうちょっと具体的な話にして頂けると助かるんですけど……」

 遼子さんはちょっと考えてから話し出した。

「私の家族は信仰を持っているの。その宗教が良い悪いというのではないんだ。私も一応同じ信仰を持って育ってきたから。

 ただ、私は少し距離を置いていたのね。そういう私に、家族はその信仰についていろいろ語ることがあった。家族からすると、私には教えて導く必要があるということになるんでしょう。それはよくわかるのだけれど、困ったことがひとつあって、それを私の不安を煽るようなことを織り交ぜながらしてくるってことがあったんだ。それが神仏を使った脅しのように、私には聞えたわけ。

 それで神経も参ってしまって、十代のうちに私は家族から離れて暮らすことにしたの。付き合っていた彼が、このままでは遼子がだめになってしまうから、と私の家族に言って連れ出してくれたのよ。それで彼と結婚をした。自分の家庭を持ったの。

 家を出た私に妹がたまに連絡をしてきて、会うとその信仰の話になった。それだけだったらよかったんだけど、彼女は私が結婚する前から、夫への私の不信や不安を煽るようなことをよく言ってきたり、匂わせるようなところがあって、そこに宗教の話も織り交ぜた。それは私が結婚してからも続いたの。

 始めは流すようにしていたのだけれど、私も不安から夫への疑心暗鬼に取り付かれるようになってしまって、自分でもそれが抑えられなくなってしまったの。もともと私が不安定だったので、私の夫はそのせいだと思ってたみたい。そのうち落ち着くだろうって感じだった。

 でも、何かおかしことが周りで続いたり、無言電話が頻繁にかかってきたりして、日を追うごとに疑心暗鬼が酷くなってしまって、それで彼を疑ったり責めたりの繰り返し。発作のようにそれが起きて、彼はそういう私を文句も言わず受け止めてくれるけれど、その後には後悔とか自己嫌悪の嵐が来る。その繰り返しに私自身がもう疲れ果ててしまった。

 結婚すると子供のことや家のことや相手の家族との問題も現実的に避けて通れないでしょ。でも、私には、とても無理だったの。特に子供を生むことが怖かった。

 彼はそのうち落ち着くだろうって、待ってくれていたけれど、彼の家族や周囲は何故子供を作ろうとしないのか不審に思っていて、それもよく言われた。

 私自身があまりにも不安定だったから、彼はカウンセリングが受けられるところを探してくれて一緒に行こうとしてくれたけど、私は一人で行ってみたの。

 精神病院とか心療内科とかカウンセリングとかいろいろいってみたけれどあまり効果もなくて、それがいつ解決するのか自分でも先が見えなくて、でも時間はどんどんたっていく。

 私は自分の問題だから仕方ないとしても、彼の時間もそこで奪っているんだなと思うと、先の見えない私にいつまでもつき合わせてしまうのが申し訳なくて、彼に支えてもらうこともつらかったの。

 自分で自分がどうにもならないし、支えてもらっているのに相手を疑ったり責めたりもするし、自己嫌悪や罪悪感でめちゃくちゃで、そんな自分に自分でも疲れ果ててしまって、これ以上相手に迷惑もかけられないから、結局離婚することにした。私にはそれしかしようがなかったから、彼には申し訳なかったけれど、私から解放された方が彼のためにも良いと思ったの。

 でもそこで疑問が残った。何故妹は私にあんなふうに疑いを吹き込むようなことや不安を煽ることをしたんだろう? もしかしたら彼と妹が関係を持っていて、そのためではないのか? って疑問は、結婚前にも思ったことだった。

 それで、もし誰か別の相手がいるなら、正直に話してほしい、もしそうなら別れてほしい、って、彼に何度も何度も私はお願いしたり責めたりしてきてしまったのだけれど、彼は私の考えすぎでそんなことはない、といつも押し問答になっていた。

 結局離婚もしたのだしもう一度それを訊いてみたら、はっきりするかもしれないと思ったのだけれど、もし本当に彼には何の罪もなかったとしたら、散々疑ったり責めたりしてきて迷惑をかけてきているのに、最後に更にまた疑いをぶつけることになってしまう、そう思うと、申し訳なくてとても訊けなかった。訊いてはいけないような気がしたの。」

「で、そのまま疑問だけが残ってるんですね、今でも。」

「私よりもずっと真剣に信仰を持っている妹が、果たしてそういう一般的な倫理に背くような事をするだろうか? と思うと、なんだか本当にわからなくなるんだ。でも一方で伝道熱から信仰を教え導こうとしながら、もう一方ではひとの不安や不信、不和を煽り立てるようなことを実際しているわけだから、それも両立できてしまうものなのかしら?」

 僕は返答に困ってしまった。

「私のことを心配するようなことを言って彼に近づいて、私のいないところで彼に信仰の話をしていたというのならありそうだけど。そこで得た情報を使って今度は私のところへ来て、彼に不信を抱かせるようなことをほのめかしていた、とか、考えたくはないけれど、こっちの方がありそうな気もするけど……」

「う~ん…」

 さらに返答に困るではないか。

 そんな僕に、彼女は言った。

「そんなことよりも、そもそも彼女は何が目的で、私の不安や不信をあれほどにまで執拗に煽ろうとしたのか、理由はなんなのか、私にはそれが疑問なの。妹に直接訊いてみればいいのだろうけれど、でも結局、きちんと訊いてみたとして、相手がちゃんと本当に正直に答えてくれるだろうか? に行き着いてしまうんだ。そこで立ち往生になるんだよね。ばかみたいだなって、自分でも思うけど、なんか身動き取れなくなってしまうの。」

 疑問が疑問を呼び、入れ子仕様になっていたり、あちこちに飛び火したり。疑い出したらきりがない、の見本のようだった。

「妹さんとは?」

「今は連絡を殆ど取っていない。お互い関わらない方がいい気がして。」

 ごもっとも。

「遼子さん自身の信仰はどうなってるんです?」

「なんだか何を信じていいのかわからなくなってしまって、信仰を捨てたわけではないけれど、少し距離を置いている。よけいにややこしくなる気がするから。」

「なるほど。」

「罪悪感とか寂寥感にいてもたってもいられない時もあるの。そういうときに、クリスチャンで言うなら聖書のような本があって、それを抱いて眠ることで、少し落ち着くこともあるから、支えでもあるにはあるのだけれど、自分でも立ち位置が決められない感じ、が正直なとこかな。」

「聖書のような本? 経典のようなものですか?」

「まあそんなとこ。」

「なるほど。」

「こういうのって、考え出すときりがないのね。相手がちゃんと疑問に答えてくれるのかどうかでいえば、自分を守る嘘もあれば、相手を守るためにつく嘘もあるでしょう。

 彼は私には真実を受け止め切れないと思って、嘘をついているのかな? とかも当時考えたりした。私があまりにも不安定だったから。

 自分を守るための可能性もあるけれど。

 そんなことを延々と考えて堂々巡りしては、自己嫌悪になって、もう本当に何を信じていいのかわからなくなってしまってたんだ。

 今も考え出すとそうなってしまう。立ち往生したまま、そのまま時が止まってしまっているみたいなんだ。」 

 それで勢いあまって占いに懸けてみようということになったのか。なるほど。思わず一人で納得してしまった。

「さっきからずっと、黙ってるね。」

 一人黙々と隣でコーヒーをすすっている柊ちゃんに、僕は言った。

「さっきも同じ話を聴いてたから。」

 遼子さんが僕に答えた。

「そうなんだ?」

 僕が彼を見ると

「うん。」

 柊ちゃんはうなづいた。

「ふ~ん。」

「私、同じこと延々と喋ってたんだわ…」

 遼子さんは自分でそう言いながら、改めてそれに気づいたように、つぶやいた。「なにやってんだろ。やることも堂々巡りだね。」そう自嘲気味に言った。

「今まで、誰にも言えないで一人で抱えてたんだから、吐き出せるようになった事のほうを、評価したほうがいいんじゃない?」

 柊ちゃんは静かな声で優しくそう言った。

 僕はなんとなく黙って二人を眺めていた。

 遼子さんの心中にはいろんな葛藤が渦巻いているようで、柊ちゃんはそんな彼女を静かに見守ってるという感じだった。

「人を疑うって、いやなものよね。すごく失礼なことだと、思う。自分がひとから思いもよらない疑いの目を向けられたら、本当に傷つくもの。そんな風に見えるのか、ってショックだし、そういう風に見られていた事にも傷つく。」

「そうだな。」

「……それから悲しくなる事もある。こうやって相手が傷つくってことがわからないくらい、自分のことでいっぱいなんだなって、思うこともある。

 相手の善意とか真心とかを守るよりも、自分が傷つきたくない気持ちでいっぱいなんだな、ってわかるから、何も言えなくなることもある。

 そう見えるのなら仕方ない、そういう自分なんだろうな、って、思うこともある……。

 それをよくわかっていたつもりだったのに、いざ自分が追い詰められると、私自身がもう疑心暗鬼の虜になってしまっていた。

 ……これは相手に失礼なことだ、その真心や善意まで傷つけたり踏みにじることだって、頭ではわかっているのに、自分が止められなかった。

 ぶつけるだけぶつけて、相手が傷ついてるのを見て、初めて我に返るんだけれど、ものすごくそれで後悔して、自分を責めるんだけど、振り子のように、また、その攻撃の矢は疑いとなって相手へ向かう。その繰り返しだった。

 結局私は、自分が一番大事で、相手の気持ちなんかお構いなしなんだな、って、相手を大切に思う気持ちは、簡単に自分を守る気持ちに吹き飛ばされてしまう、それだけの心しか持ち合わせていない人間なんだな、って、いやというほどわかった。心の礼儀作法も何もあったものじゃない。ものすごく最低で失礼な人間なんだって。離婚に至ったのは、結局は自分がそういう人間だからってことがよくわかったからだった。」

 元のきっかけがなんであれ、結局はそういうことだ、ということなんだろう。それに関して、誰かのせいにしたり、責めるつもりはない。彼女の中では、そう整理がついているようだった。

「本当に一人で、いろいろ突き詰めて考えたんだね。」

 柊ちゃんの声は静かで、優しくて、その場をそのまま包み込むように、深夜の台所に響いた。彼女はその響きを沁みこませるようにして、自分の心の中に降りていく。

「相手を大切に思う気持ちがあるつもりだったけれど、結局は自分のことだけしか考えていないようなものだった。

 夫に愛情を持っているつもりだったけれど、それもよくわからなくなってきてしまったりで、とてもこのままでは一緒にやっていくなんてできないって思った。

 このまま迷惑をかけ続けるわけにはいかない、って、覚悟をやっと決めることができたから、離婚することにした。

 それは本当に、今まで散々あんなに迷惑をかけてきて、ずっと支えてもらってきておいて、今さらこんなことになって、ほんとうに申し訳なかったけれど、でも、私は少しほっとした。これでもう解放される、彼を傷つけ続けることをしないですむ、って。

 それに、一番失いたくないものをあきらめても、彼の未来を守りたい気持ちが、ちゃんと自分にもあった、ってわかったからもある。

 彼は元々あまり家庭に恵まれた人ではなかったから、その分自分であたたかい家庭を作りたがっていた。子供に囲まれたあたたかい家庭を夢見てた。

 それを一緒に実現できる相手は私ではない、とわかってしまったのはつらかったけれど、まだお互い若いし、彼はまだ十分やり直しがきくもの。それは早ければ早いほどいいだろう、と思ったし、彼にそうしてほしかった。最後に私が望むものはそれだけだった。

 私は彼のことをちゃんと大切に思ってたし、愛してたんだなって、別離の手続きをすべてやり切って、初めてそれが自分でも確かめられたような気がした。

 変な話だけど、それだけでも、嬉しかった。

 手離して初めてちゃんとあったことが確かめられた。

 何を信じていいかわからなくなって自分さえも信じられなくなっていた中で、それは、やっと信じていいものだと、確認できたものだった。

 もう遅いけど、でも、確かめられずに終わってしまうよりは、ずっとよかった。」

 自分の心に、信じられるものが、残ってた。

 最終的に、彼女が手にしたものが、それだった。

 僕は彼女を眺めながら、なんとなく思っていた。この心の旅のようなもので、結局、彼女が一番探し求めているものって、そこにあるんじゃないだろうか。

 柊ちゃんは彼女の頭に、右手をぽん、と置いた。

 そのまま、何も言わずに、ぽんぽん、とかるくたたいて、それから立ち上がった。

「冷めただろ、それ。温かいの入れなおそうか?」

 遼子さんのカップに残っている冷めたコーヒーに視線を送る。

「俺はまだ飲みたいから、新しく落とすけど、どうする?」

「あ、じゃあ、お願い。ありがとう。」

「翔太は?」

 僕のコーヒーはほぼ飲みきっていた。

「僕ももらう。」

 柊ちゃんはコーヒーメーカーの前に移動して、フィルターや粉をセットしながら、こちらに背を向けたままで言った。

「英語のLoveとBelieveとの間には語源的関連があってさ、Loveは、ドイツ語のLieve『愛』、lieben『愛する』や、オランダ語のliefde『愛』等と共にゲルマン基語をへて印欧基語leubh―『大切な・大切に思う』に遡るんだよ。」

「へえ……」

 遼子さんは興味深そうに聴きながら、彼の背中を見ていた。

 柊ちゃんはコーヒーメーカーに水を注ぎながら

「ゲルマン基語のgalaubjan『大切に思う』が意味上二つの方向に発展して、一つが『ひとを大切に思う』から『愛しく思う』Loveに。もう一つは『人の言ったことやしたことを大切に思う』から『信じる』Believeとなったそうだよ。密接な関わりがあるんだ。愛することと信じることは、ひとの心のあり方、現われの上でも。言語的にも。」

「そうなの……」

 Believeって、信頼する、とか、存在(信実性)を信じる、信仰する、って意味もあるんだったよな……と、僕は口には出さずになんとなく思っていた。

 そう考えると、彼女が経験したことって、皮肉といえば皮肉だ。信仰を説こうとする者が、相手の信じる心や他者を大切に思う心に、疑心を吹き込もうとする。信じることを基盤とするものを勧めながら、その基盤となる信ずる心を砕こうともする。そういう矛盾した図式が出来上がる。なんだか奇妙な話だ。

「柊ちゃんて面白いこと言うよね。」

 遼子さんはそう言って彼のほうを見ていた。

「そう?」

 柊ちゃんはちょっと微笑んで彼女を見る。

 遼子さんと柊ちゃんはそのまましばらく互いを見ていたけれど、ふと遼子さんは視線を宙に移動させた。

「私が疑心暗鬼に取り付かれていた間、推測は疑惑から派生していろいろな形を取った。こうかもしれない、ああかもしれない。それで、もしこうだったら? って。

 それが現実ではなくても、同じような重みを持って私の中に幾つも存在していた感じだったの。

 例えば今目の前にいる相手が、嘘を言っている世界と、真実を言っている世界、両方が同じだけ同時に自分の中にあって、それを抱えながら相手と現実の中で、話をしている。その間私の心は相反する二つの世界でも同時に動いてる。でも、現実としてはそのどちらかはわからないので、私の心は目の前にいる相手と今話している現実の世界と、それと同じくらい重みを持つ二つの全く別の世界に、同時にそれぞれいるみたいな奇妙な感じだった。

 両極端に引き裂かれながらも、そこにいる、みたいな……柊ちゃんて、そういう風に、人に考えさせるようなことを、いつもぽんと投げてくるよね。」

「そうかな。」

 ひょうひょうとした様子で彼は答えていた。コーヒーメーカーからはコーヒーのいい香りが漂っている。僕はそんな二人を眺めていた。

「そうだよ。」

 遼子さんはそう言っていた。



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