不吉の前兆
ものすごい轟音がしたのは、よく晴れわたった昼下がりのこと。
どこか雷鳴にも、野獣の咆哮にも似たそれは、瞬く間にヘッグズヴァール全域に響き渡った。
こういった騒ぎがあって、村の人々は声を上げ、いっせいに音のしたほうへと向かった。
村の柵が突き破られたらしい。これくらいのことは稀にだが、ある。
しかし、無様な格好で柵の前に倒れているのは、大型の獣ではなく、人間だ。
膝までの胴衣をまとい、革靴をはいただけの、質素な格好をした男。害獣対策用の鋭い突起にやられたのか、体中に穴が開いている……。
「わあっ」
と、どこからともなく悲鳴があがる。人が死んだのだ。
地図上で最北に位置する村ヘッグズヴァールに、略奪者や人殺しどもはまず訪れることはない。
が、平和ボケした村人たちにも、少なくともそのくらいのことは考えがついた。あの無数の棘をまともにくらった獣は死ぬ。人間ならば、ということは想像するまでもない。
人が死んだのだ。秋の中ごろ、それも、収穫祭の第一日目という記念すべき日に。
しかし、ほどなくして、「わあっ」とふたたび声があがった。
今度は村人のものではない。
あろうことか、この男のものだ。彼は生きていたのだ。
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さて、ミラという名の医師は、偶然にもこの場に居合わせてしまっていた。
彼女は偶然にも、男が倒れるところを目の当たりにし、急いで家に戻った。
そしてすぐに、汗をふきつつ、後ろの二人の助手と木で編まれた担架をかついできた。ミラは大柄な体躯をよそに、手際よくかばんから大きめの布をとりだし、最もひどい傷口に強く巻いた。そうしている間もほかの傷口からは、血が噴き出し続けている。
奇跡的に息を吹き返したとはいえ、事態は一刻を争うだろう。それは誰の目にも明らかなことだ。
「聞こえますか? 落ち着いて、もう大丈夫ですから。幸いなことに臓器に達したものは少なく、それもごく浅いものです」
「ぅ、ああ――」
ミラは傷口をおさえる手を休めず、熱心に呼びかけ続ける。男は不安げにうめいた。あるいは、声を失ってしまったのか、その返事は言葉というより空気が漏れ出しているだけのようにも聞こえる。
訳がわからないのは彼女も同じことだった。だが、焦りや不安をいっさい表情に出さず、適切な処置をとる。
やがて彼女の合図で、男は助手たちに引き継がれ、彼らは来た道を戻り始めた。
場に居合わせた一同は歓声をあげたが、しかしそうでない者もいた。
よくあの柵をこえて来られたものだ。そう思う者もいれば、何かの祟りではないか? という者。ある者はわめき散らし、ある者は地にひれ伏して神を仰ぐ。その死体に唾を吐きかける者といった具合だ。
そういった者たちは、各々がなにか不吉なものを感じ取ったのか、足早に立ち去っていった。
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さて、ヘッグズヴァールに住む十四歳の少年エルノは、これまで人の死にざまをこうも生々しくみたことはなかった。
村にでる死人は決して少なくはなく、彼自身も葬儀には何度か立ち会ったことがある。だが、その大抵の死人は清潔な衣服につつまれ、顔もすっぽりとおおわれていた。そればかりか、親族でない者はめったにその死人すら見ることができず、丘の上の教会の神父とささやかな祈りをささげることくらいのものだった。
この日エルノは不幸にも場に居合わせてしまったために、生まれて初めて、血にまみれずたずたになった人間を目にした。しかも平然と息を吹きかけしたのだ。
ただ、ここまでは周りの人間も見た光景だ。実はこのとき、彼が目にしたものはそれだけではなかったのだ。
男がよみがえったとき、胸元あたりのあたりが強烈に光り、エルノの目をくらませた。そして手当中から運ばれていくまで、医師たちの呼びかけにもろくに応じなかったのに、その瞳はエルノを凝視するようにして頑として動かなかった。
果たして、あれらは彼だけが目にした幻だったのだろうか?
エルノは金縛りにおそわれ、医師たちが去ってからもしばらくその場を動けずにいた。