ぶちぶちぶち(三十と一夜の短篇第27回)
「セイタカアワダチソウを抜いて、大金を手につかめ!」
康平はそう言いながら、千円札三枚を握りしめて、わたしと牧島に突き出した。確かこのあいだカイジを読んでいた。この男は簡単に影響される。その千円札をつまんで抜いてやろうとするより前に手が引っ込んだ。
「なんだよ、セイタカアワダチソウって」と牧島。
「ばーか。外来種の雑草だよ」わたしは説明した。「ほら、空き地に背の高い草が生えたりしてるだろ? あれだ」
「ほー。あれをセイタカアワダチソウと言うのか。そんなしょーもないことばっか知ってるから、いつまで経っても童貞なんだよ」
「どどど、童貞ちゃうわ! ……で、康平。何が言いたかったんだ?」
「バイトだよ、バイト!」康平が鼻息もフンス!と荒く言い出した。「空き地のセイタカアワダチソウを全部引っこ抜いたら、一人二万になるんだよ!」
これにはわたしも牧島も驚いた。しがない田舎町の、夏休み中の高校生にとって二万は大金だ。宇宙の真理といってもいいだろう。サイフに二万入っていれば、この世の99%はまかなえるというもの。残り1%はロールスロイスとか六本木ヒルズとかそんなのだ。
ただし、康平は見た通り、夢を詰め込んでも、まだ空きがある頭からっぽ野郎だから、確かめることは確かめなきゃいけない。
「二万ジンバブエ・ドルじゃないだろうな?」
「なんだよ、ジンバブエ・ドルって」
「紙切れ同然の金のことだ」
「違う。円だよ、円。日本円で二万円だ」
そこまできくと興味も湧く。
康平の説明ではこうだ。自転車でいける近所のK町に空き地がある。空き地と言っても、住宅街の真ん中の、まわりじゅう家だらけの土地で、そんなに広いものでもなく、庭付き一戸建てが建つ程度。その空き地はいわゆる〈資産家の老人〉の持ち物で、しばらくほったらかしにした空き地をちょいと整地しようと思い立ったらしい。
だが、整地といっても、家を建てようとか誰かに売ろうというものでもないのだろう。それならもっと本格的に専門の業者に頼む。でも、それでバイトを雇って、しかも一人二万も出すのはどうだろう? なんだかカネを無駄にしている気がするし、話に裏がある気がしてくる。もっとも、世にいう〈資産家の老人〉というのはしがない男子高校性たちには及びもつかない金銭感覚をしているのかもしれない。
「こんなバイト、どうやって知ったんだ?」
「うちのじいちゃんが老人会で直接きいたらしい」
「〈資産家の老人〉ってのは老人会に出たりするもんなのか?」
「知らねえよ。確かにじいちゃんは珍しがってたけど」
わたしはどうも違和感を感じた。「なーんか、裏があるんじゃねえの?」
「なんだよ、原。お前行かねえのか?」
「いや。二万は欲しい」
「だろ? じゃあ、おれ、さっそくやるって連絡するぜ」
話はそれからとんとん拍子に進み、次の日、わたしと牧島、それに康平はK町の空き地で〈資産家の老人〉――谷津さんと午前九時に待ち合わせることになった。典型的な住宅街のど真ん中にその空き地はあった。奥が見えないほどセイタカアワダチソウが密集していて、そのなかでもタフな連中は空き地をはみ出して道路のヒビから小さく伸びたりしている。正直な話、二万じゃ安いかもと思い始めた。気温は三十三度。湿度は知らん。虫に刺されるし、日焼けで夜中に絶叫を上げることになると母に言われて、長袖に汚してもいいカーゴパンツ、それにキャップ、首にタオルを巻いての完全武装。はっきり言ってクソ暑い。それは康平と牧島も同じことで、わたしと牧島は康平の儲け話にうっかり乗った自分の愚かさを嘆き始めたところだ。
谷津さんがやってきたのは待ち合わせの五分前。白いミニバンでやってきたのは半袖シャツに短パン姿の気さくな老人だった。
「やあ、時間前に来ているとは関心関心」
谷津さんはバンを下りると、後部ドアを開けた。
「すまんが、手伝ってくれんかね。重くて、僕じゃあ持ち上がらん」
それは容量が五十リットルはありそうなクーラーボックスだ。わたしたちだって一人では持てないくらい大きいもので、三人がかりで何とか下ろした。中には氷とペットボトルがぎっしり詰まっていた。コーラ、烏龍茶、ポカリ、午後の紅茶、原液のままのカルピス。三十本は入っていただろうか。
谷津さんは百均で買った紙コップをわたしにくれながら、
「野良仕事でこの暑さじゃ喉も乾くだろうからな。好きなだけ飲んでくれ。余ったら、持ち帰ってもいいから」
わたしたちは〈資産家の老人〉というのは、強盗に殺られてお昼のニュースになったり、遺産目当てのキャバ嬢と結婚したりする人種だと思っていた。だが、それが公平さを欠いた先入観だったことを認め、今後、〈資産家の老人〉ときいたら、このクーラーボックスとともに谷津さんを思い出そうと、遠ざかっていくミニバンを見ながら言い合った。
もっとも、わたしたちは谷津さんをもっと〈別の〉もので思い出すことになる。
そんな広くはないといっても、セイタカアワダチソウの除草は一筋縄にはいきそうもなかった。
ぶちぶちぶち。
引っこ抜くと感触が手に伝わる。
「なんだよ、これー?」
「セイタカアワダチソウってのは根を深く張るんだよ。それが土のなかでちぎれてるんじゃねえの?」
「根が残るとまた生えるってきいたことがあるぞ」
「そうしたら、バイト代ふいになるのか?」
「おい、待て。この飲み物、バイト代から差し引かれるなんてことないだろうな?」
牧島の不吉な考えにわたしたちは思わず、黙り込んでしまった。
ぶちぶちぶち。
わたしたち三人は黙って、草を抜いた。
ぶちぶちぶち。
喉が乾いたら、例のクーラーボックスから好きなものを飲んだ。牧島の不吉な考えは捨て去ることにした。こんなときは楽観的に行かなければいけない。真夏にセイタカアワダチソウを全滅させるという激務に励むのなら、とにかく楽観的にならなければいけないのだ。
わたしたちは午後の紅茶の烏龍茶割りだとか、自分のカネで払ったのなら絶対にやらないであろう飲み方をして、ぎゃはぎゃは陽気になった。野郎が三人、真夏にバカみたいに草を抜く。そのあいだに話すのはエロいこと、音楽のこと、深夜枠からゴールデンタイムに移った途端つまらなくなったバラエティ番組のこと――。
それに進路のこと。
わたしは東京の大学を受けるつもりでいて、牧島も県外、康平は地元の大学に残るつもりでいたから、高校卒業と同時にわたしたちはバラバラになる。高3の夏休みは夏期講習に忙しくなるだろうから、こんなふうにセイタカアワダチソウを相手に悪戦苦闘するなんて馬鹿ができるのは今年で最後だ。
もちろん、そんなことまで考えて湿っぽくなるにはわたしたちは馬鹿過ぎた。とにかく、そのときは楽しかった。しゃべり、笑い、ジュースを飲み、セイタカアワダチソウを抜いた。
ぶちぶちぶち。
「この、ぶちぶちぶち、ってのはどうも慣れねえな」康平が言った。
「仕方ねえよ、根が深いんだ」と牧島。
「ほんとにそれだけか?」
「だけ、ってなんだよ、だけ、って」
「分かんね」
「分かんね、って、これ、お前が紹介した仕事だろが」
康平は納得いかなげな小難しい顔をしたが、カルピスの烏龍茶割りが思いのほかうまいことを知ると、いつもの馬鹿さ加減を取り戻し、草むしりに戻った。
ぶちぶちぶち。
全てのセイタカアワダチソウを引っこ抜いたら、午後四時半になっていた。途中で谷津さんがまたやってきて、コンビニ弁当のなかでも割と値段のするやつを差し入れに持ってきてくれた時間を除けば、ぶっ通しの作業だったが、思ったよりきつくなかったし、楽しかった。これで一人二万ならおいしい。
抜いたセイタカアワダチソウはあらかじめ言われていた通り、空き地の真ん中に積み上げた。わたしたちの背丈をはるかに超える草の山が出来上がった。最初のほうで抜いた草はもうからからに乾きかけていて、二日もほったらかしにすれば、干し草みたいになるだろう。
「こりゃ運ぶのも一苦労だな」
わたしたちから終了の電話を受けた谷津さんが間もなく白いミニバンでやってきた。好々爺というのは、この人のためにある言葉なのだろうと思うほど、感じがよく、暑い中大変だったねと言い、草の山を見ると、やあ、ありがたい、ご苦労さん、と肩を叩いた。
「じゃあ、これ、バイト代。イロつけておいたから」
白い封筒で受け取り、本人の目の前で見るのは失礼だなと思いつつ、もじもじしてると、遠慮しないで、なかを見な、と言ってくれたので、開けて細長い封筒を覗き込んだ。危うく叫び声を上げるところだった。イロどころの話ではない。中には三万も入っていた。
「あ、ありがとうございます!」
「なに、いいって。若いもんの時間を使ったんだ」
「あの、クーラーボックス、運びましょうか?」
「そうしてくれると、ありがたいが、別の荷物が入ってるから、それを出してからにしてくれんか?」
「はい」
谷津さんは後部ドアを開けると、車のなかに上半身を突っ込んで、しばらくがさごそしてから、二つの赤いポリタンクを引っぱりだした。白いキャップで閉める灯油なんかを入れるやつだ。
わたしたちは谷津さんが何をしようとしているのか、さっぱり分からなかった。いや分かっていたが、そんなわけはないととまどっていたのだ。谷津さんはそんなわたしたちを放っておいて、セイタカアワダチソウの山に近づくと、ポリタンクの中身を盛大にかけ始めた。
「なあ、あれって、まさか」
谷津さんが二つ目のポリタンクを空にすると、百円ライターを取り出し、ちぎれた枯草に火をつけて、セイタカアワダチソウの山に投げた。
一瞬でゴウッと三階建てくらいの炎があがった。半分以上が生草のせいだろう、ガソリンの粘っこい黒煙と生草の水っぽい白煙が絡まり、のたくり、炎にあぶられて、なかなか消えずに空に醜いシミを残していく。
ヤバい。どう見てもヤバい。消防法に違反しているとかそんなレベルの話ではない。空き地の左右は普通に家なのだ。下手をすると燃え移るかもしれない。
「あ、あの、谷津さん」わたしは言った。「これ、まずくないですか?」
谷津さんの顔を見て、言葉を失った。さっきまで人のよさそうな老人だった谷津さんが無表情に燃える炎を凝視している。普通じゃない。かすれた声で、何かとつぶやいた。それが何なのか、よく聞こえなかった。
隣の一戸建てからずんぐりしたおばさんが現れて、叫び声を上げた。
「何してんのよ、あんたたち!」
白髪染めの途中だったのかビニールの薬液避けを首のまわりにまいて、髪がベタベタになったまま、おばさんは谷津さんに食ってかかった。
「火事になったら、どうすんのよ!」
だが、谷津さんは見るものをぞっとさせるあの無表情をしている。
「消防署に電話して消してもらうからね!」
と、言った途端、谷津さんは叫び声を上げた。あがあああああっ! とケダモノじみていて、顔は別人になっていた。
谷津さんが叫んだのを最後にわたしたちはその場から自転車で逃げた。何か、息苦しい何かがその場を支配していたような気がしたのだ。そして、それにそのまま身をさらすことがひどく不吉で危険な気がした。もちろん、ただ、ガソリン混じりの黒煙で胸を悪くしたのかもしれない。
だが、とにかくわたしたちはあの場から離れたかった。
K町の外れで消防車とすれ違った。
まだ午後五時で日は高く、暑い。それに死にもの狂いで自転車をこいだので喉がかわいた。
近くに百円均一の自販機がなかったので、仕方なく百二十円払ってジュースを買って飲んだ。あれだけあったペットボトルを一本も持ち帰らなかったのはマヌケとしか言いようがないが、何より、わたしたちはホッとしていた。
「ったく。払いがよすぎるから何かあるとは思ってたけど」牧島が言った。「まさか、キチガイとは思わなかったぜ」
「やべーよ、あのじいさん」と、わたし。「マジモンのサイコパスなんじゃねえの?」
「おい、康平」
「なんだよ?」
「今度、儲かるバイトを見つけても、おれに紹介するなよ」
「なんだよ、でも、三万もらっただろ」
「これ、あとで事情聴取されるかな?」
もし、そうなら三十万でも割りに合わない気がした。
「なあ」わたしは言った。「あのじいさんがつぶやいたの、きいてたか?」
「つぶやくって?」
「何を?」
「おれも自信はないんだけどな。あのじいさん、草が燃えるのを見ながら、こう言ったんだよ」
コレデ二度ト出テコナイ
「なんだよ、それ」
「分からねえからきいてるんだよ」
「やべー、やっぱやべーよ」
康平はやべーを連呼し、牧島は警察沙汰になるんじゃないかと心配した。わたしはというと、手のひらに残った違和感が気になっていた。あの〈ぶちぶちぶち〉という感覚。あのときは根っこが張っているからだと思っていたが、谷津さんのあの豹変ぶりとコレデ二度ト出テコナイという怪談っぽい言葉をきいて、あの感触はどうも普通のものじゃない気がしていたのだ。
二人と別れて、家路に向かうころには太陽が西に傾き紅色に空が燃えた。コンビニの裏手にセイタカアワダチソウが生えているのを見つけると、わたしは自転車を止めた。
それはあの空き地に生えていたのと比べると小ぶりだったが、それでも九十センチくらいの丈はある。わたしはそれを引っこ抜いた。
セイタカアワダチソウは抜けた。何の感触もなく、あっさりと。
その後のことは人づての噂できいたので、本当ではないことまで混じっているかもしれない。ただ、あのときは町じゅうがこの噂で持ちきりだった。
案の定、谷津さんは消防車と警察を呼ばれた。というのも、あのおばさんとは別のお隣さんが水を張ったバケツを持って駆けつけると、谷津さんは出刃包丁を持ち出して、相手を脅かしたらしい。この包丁がわたしの母経由では柳葉包丁に、お隣の野岡さん経由だと果物ナイフになる。ビームサーベルを持ち出すものは今のところいないが、それも時間の問題だろう。
話を戻すと、谷津さんはその場で現行犯逮捕され、消防がやってきて消火した後にはセイタカアワダチソウの灰が残るだけだった。
逮捕された谷津さんはにんまりしていたという。
ところが、話はこれで終わらなかった。
谷津さんは殺人を自供し始めたのだ。
K町の警察署の総務に務めている女性警官の友だちの母親の飼い犬のトリマーの従妹からという非常に疑わしいルートから仕入れた話では谷津さんは四十年前、女を殺して、あの空き地に埋めたのだ。それがこの夏になって、変な夢を見たらしい。白骨化した女の幽霊が草に姿を変えて、自分に襲いかかる夢を見て、幽霊に取り殺される前に焼き払おうとして、わたしたちを雇い、あの派手なボヤを引き起こしたのだ。
かくしてあの土地は警察がブルーシートを張って、谷津さんの供述を元に殺した女を埋めた場所を掘り返した。わたしたちもこのとき任意の事情聴取を受けたが、たいしたことは話せなかったし、たいしたことを相手の刑事も期待していないようだった。
というのも、谷津さんの言うとおり掘った穴から出てきたのは、ただの犬の骨だったのだ。警察はあちこち掘ってみたが、結局、見つかったのは犬の骨だけだった。
結局、谷津さんは傷害未遂や銃刀法違反で起訴されたが、年齢が年齢だったので、執行猶予がついた。それでも拘置所から出ると、そのまま精神病院に入院した。これがまた噂話なのだが、谷津さんは女が犬の骨を身代わりにして、土から這い出ている、襲ってくる、と半狂乱になっていたからだ。たぶん、一生、病院から出られないだろう。
谷津さんの結構な財産をめぐって、親族同士のむしり合いが始まったが、わたしの母など事件よりもこっちの噂話のほうが好きなようだった。
このころになると、わたしたちも心持ち楽になってきて、やっぱりあのじいさん、キチガイだったんだな、犬の骨なんかのために頭がイカレちまったんだから、と茶化しあい、夏休みが始まると、刑事の取り調べを受けたという稀有な経験をクラスメートに自慢したりした。
高3の夏。わたしと牧島は市内の精神病院にいた。
入院しているのはわたしたちではない。康平だ。
介護士に手をひかれながら現れた康平にわたしと牧島は何も言えなかった。痩せて頬がこけて、飛び出して見える目が小動物みたいにあちこち動いている。何かを恐れて、巣穴に隠れた小動物のように。
「よう、康平。元気にマスかいてっか?」
「……」
「それとも、病院じゃマスもかかせてもらえないってか?」
「……」
「お前、慣れねえ勉強して知恵熱出たんじゃねえかって、牧島と言い合ってたんだぜ」
「……」
わたしと牧島の空元気ばかりが切なく落ちる。康平が入院したのはほんの二週間前で、最後に見たのは夏期講習の帰りだった。あのときの康平はいつもの康平だったのだ。
「なあ、どうしたんだよ、お前。おれたちにできることがあったら言えよ。だって、おかしいじゃねえか、こんなの。お前、最後に会ったときはいつもどおりだったろ? 何があったんだよ?」
「女だ……」
「女?」
「草に女がいた。女は本当にいたんだ」
「おい、康平……」
突然、康平が暴れ出した。バネ仕掛けのおもちゃみたいに椅子から飛び上がり、両腕を振り回しながら叫んだのだ。虚空に目をむき出して、頭をふりながら。
「なんで、おれなんだよ! なんで、谷津のジジイじゃねえんだよ! なんで、おれなんだよぉ!」
康平はあっという間に介護士に連れて行かれた。たぶん鎮静剤でも打たれて、隔離部屋に入れられるのだろう。
病院からの帰り道、わたしと牧島は黙っていた。一年前の夏、谷津、いないはずの女。
もし、康平がああなった原因が一年前のあの出来事なら、康平は――もう二度と康平には会うことができない気がした。
夏休みが終わると、康平が普通に登校してきた。
「しゃきーん。ふっかーつ!」
減った体重は戻り、顔つやがよくなり、いつも通り、馬鹿なこと言ってぎゃはぎゃは笑ういつもの康平になって。
わたしは本当に大丈夫なのか自信がなかったが、一週間経ち、二週間経ち、そのうち、あれはたぶん夏バテか受験ノイローゼってやつだったのだ、インターネットで調べると、似たような状態に陥る受験生は少なくないらしく、康平も去年の夏のことが幻覚になったように思い込んだだけなんだと信じるようになった。そうして、いつもの生活が戻り、わたしと牧島などはあの面談室でのトチ狂った康平のモノマネをして茶化したが、康平は「クソむかつくぜ、てめーら」と笑いながら、わたしたちの尻を狙って、ミドルキックを放ってきた。
そのうち、受験も本番になっていき、あのイカれた老人のイカれた妄想が引き起こした様々なことは複素数や墾田永年私財法の下に埋もれていった。
康平が自殺したときいたのは上京して二年目、大学二年の夏のことだった。
故郷を離れたわたしと牧島は夏期休暇と年末には必ず故郷に戻り、康平を誘って三人で徹夜で面子の足りない麻雀をするのが恒例行事になっていた。
そうやって里帰りする前夜、康平が自殺したと母から電話があった。
翌日、実家に着くや喪服なんて持ってないから、父親のおさがりの喪服を着て、康平の家へ出かけていった。ご焼香を上げて、棺のなかの康平を見たが、恐怖のために歪むとか、妄想にやられてやつれるといった様子はない、月並みだが眠っているような死に顔だった。
康平の親戚や近所の人間が母屋でお坊さんと一緒に酒盛りをし出すと、わたしは牧島と小さな庭に出た。
「あのじいさんはまだ生きてるらしい」牧島が言った。
「どのじいさんだよ?」
「谷津のじいさんだよ。精神病院にいるんだと」
「あいつとこれがどう関係するんだよ」
「あのじいさんが言ったことが本当だったら? 本当に、昔、女を殺してて、それがあそこに埋められて、その女の幽霊が草に乗り移って、それをおれたちが引っこ抜いて、それで取りつかれたら? ほら、康平のやつ、高3のとき、おかしくなってただろ? あれは受験ノイローゼなんかじゃなくて、あいつが言ってたことが本当なら?」
「そんなこと――そんなに気になるのか?」
「そりゃそうだろ。もしかしたら、女の幽霊に取り殺されたのかも」
「わかった。じゃあ、確かめよう」
わたしと牧島は台所に行った。親戚のおばさんやご近所さんたちがお構いなしに食い続ける男たちのために料理を用意し、空っぽのビール瓶を受け取り、冷たいビール瓶を持っていく。見るとわたしの母が筑前煮を小皿に分けていた。
「母さん。おばさんはどこ?」
母は筑前煮からちょっと目を離すと、台所の隅にいるけど、そっとしておいてあげなさいよ、子どもに先に死なれることくらい辛いことなんてないんだから、と釘を刺してきた。
確かに自殺した息子が女の幽霊にうなされていたかなんてきけるものではない。ただ、なんというか、親友のよしみというか、もし、牧島の言うことが本当なら、わたしたちだけでも理解しなくてはいけない気がしてもいた。
康平の母親は台所の隅の椅子に腰かけ、ぼうっとしていた。挨拶すると笑ったが、呆けたようでくっきりとしない。
「あら、牧島くんと原くん」
子どもに自殺された母親にしては若々しく見えた。心労で老けた雰囲気はない。だが、その若さは決して薄情な健康的な若さではない。もっと、こう、死というものが分からないくらいに若く、幼くなって、この不条理から身を守ろうとしているような危うさだ。
「こんなときにこんなことをきくのは、無神経かもしれませんが」
「なぁに?」
「康平、自殺する前の日、何か言ってませんでしたか? 女がどうとか――」
「女? さあ、何も言ってなかったと思うわ。いつも通り、元気に帰ってきて、食事をして、自分の部屋へ上がっていって――朝、部屋へ行ったら、ぶらさがってたの。あの子」
「あの、すいませんでした」
「あら、いいのよ。あなたたちは浩平の一番のお友達だもの。二年前だって、心配して康平を見舞にきてくれたでしょ? きっとあれがあったから、あの子はあんなにはやく立ち直れたんだと思う。病院の先生もびっくりしてたんだから」
それから、康平の母親は夢でも見るように微笑んだ。実際、康平の母親は夢でしか我が子と会えないのだ。わたしと牧島は台所を出て、また小さな庭に出た。
「やっぱり違ったのかな」
「考えすぎなんだよ」わたしは言った。「あのじいさんは頭がいかれてて、自分のことを人殺しだと思ってて、殺した女の霊が外来種の雑草に乗り移るなんて馬鹿げたことを言ってさ。でも、証拠なんてひとつもない。康平が死んだのは何か別の理由じゃね?」
牧島は考えるのに疲れたらしく、手をふって、母屋の飲み会へと足を運んでいく。
わたしは開いた手のひらをじっと見た。生命線の頼りない手のひらから、月明りに漂白された死人のような指へと視線を這い上らせる。
セイタカアワダチソウを抜いたとき、指に伝わったあの感触。
ぶちぶちぶち。
忘れられない。忘れられない。
あれは女の髪をむしり取る感触だった。