固まる血液
弟が母を殺したのではないか?
旭にその考えが浮かんだのは警察署で、検死の結果を見せられたときだった。骨ばった母、清子の体に残された痣の数はおよそ八十。七十二歳の母親はこれだけの暴行に耐えられなかったのではないだろうか。
「事件性はないんですか」
「旭さん。その、もちろん、我々はその線も考えました。しかし、デイケア職員の証言ではよく転んだり、体をぶつけたりする人だったと。病院の担当看護師の証言では、幸せな人生だったと亡くなる直前に言ったと。葬儀屋の話では遺影を手に延々泣きじゃくる弟さんの姿を見たとのことでした。以上のことから警察は事件性なしと判断をしました」
若い刑事は溜息をついてつづける。旭は姿勢を正した。
「でもね、私自身はまだ疑ってるんですよ。私もまだまだ新米ですが、沢山死体を見てきました。清子さんは、その、今まで見た死体のなかで最も青かった」
「青い、というと」
「内出血です。その、一個一個の内出血の範囲が、成人男性の拳程の大きさに広がっているんです。血が溜まって出来た血栓が大きくなり、じわりじわりと血流を止め、脳の血管までも詰まらせた。……まあ、あくまで私の想像ですが」
旭は唾を飲みこんだ。
「最後に一応お聞きしますが、その、旭さんは本当に心あたりがないんですね?」
「ええ。私が知っている弟ならば、そんなことをする人物ではありません」
若い刑事はじっと旭の目を見つめる。
「では、これで捜査は打ち切りになるでしょう。弟の智さんによろしくお伝え下さい」
「失礼します。どうもお世話になりました」
警察署を出て家に着くまでの間、旭は先程浮かんだ考えについて思考を巡らせる。
ずっと気にはなっていたのだ。死に化粧でも隠しきれない、母の青さを。刑事には弟はそんなことをする人物ではないと断言したが、今になって、智を信じたい気持ちと疑わしい気持ちが錯綜する。
疑ってしまう理由は三点。刑事さんの想像の言葉が真に迫っていたこと。弟が介護するようになってから、母がすぐにアルツハイマーを発症したこと。それから、母親をDVしていた亡き父親の血が自分達兄弟には流れていること。刑事さんは、事情聴取の中でそれらは関係ないと否定をしたが、自分の中ではその三点がある以上、弟の疑わしさが晴れない。
「聞いてみるか」
旭は真相を確かめるべく、次の日曜日に行くと智に電話をかけた。
実家まで車で四時間。着いた時にはくたくただった。年季の入った木造の外観に、人の歴史の断片を感じる。入口のチャイムを鳴らすと、弟の智が出迎えてくれた。
「ああ、いらっしゃい」
その声に抑揚はない。三十代後半とはいえ、眼鏡の下の隈やこけた頬がこれまでの壮絶な苦労を物語っていた。
智について辿り着いたリビングは、まだ遺品の整理中で雑然としている。
「散らかしててごめんなさい。なかなか進まなくて」
「いいよ、別に。ゆっくりやってくれ」
旭はダイニングテーブルに荷物をのせて、椅子に座る。智が冷たい麦茶を差し出してくれて、乾いた喉を潤した。
「ここまで車で何時間くらい?」
「そうだな、四時間程かな」
他愛もない雑談をしながら、旭は智を観察する。白い半袖のシャツから伸びる腕は血管が浮き出る程度に細く、人を殺せるような屈強なものではない。
「お昼ご飯は?もう食べたのか?」
「いや、まだだよ。兄ちゃんが来てから作ろうと思ってたんだ」
「へえ、何を?」
「カルボナーラ。僕達、好きだったじゃないか。母さんのカルボナーラ。昨日、母さんの部屋の棚からレシピが出てきたんで、作ってみようかと」
「そうか。それ、俺が作ってやるよ。レシピ見せてみな」
「あ、そうか。兄ちゃん、コックだったね」
弟から渡されたレシピは、母がノートに書き記したものだった。日に焼けてセピア色に染まったレシピは、開くと焦げた埃の匂いがした。
「じゃあ、作ってもらっている間、母さんの部屋を片付けておくよ」
「無理しないようにな」
「うん。ありがとう」
母の部屋の端にある、鏡台に映った弟は、時に慈しむように遺品の手触りを確かめながらせっせと手を動かした。
見た感じだと、智に変わったところはない。昨年は盆と正月にしか帰らなかったので空白は空いているのだが、二年前に仲睦まじく生活していたときの物腰の柔らかさ。お盆に会った時に、法事にて甲斐甲斐しく働く生真面目さ。母の葬式の時に見せた表情から分かる、心の優しさ。そのどれもが変わっていないように思えた。
なんだ、思い過ごしか。レシピと冷蔵庫の食材を照らし合わせながら旭は静かに息を吐き出した。今は、やつれた弟に栄養のあるものを食わせてやることだけ考えよう。こいつの出番はないかもな。旭はそっと、ポケットの中の二つの小瓶を指でなぞった。
もう一度母の部屋を見ると、鏡台に映る智は腕を振り上げ、床に何かを叩きつけた。バリンと、陶器の割れた鋭い音が響く。
「どうした?智」
「あ、ごめんね。なんでもないよ。落としちゃったんだ」
見間違いか?いや、そんなはずはない。
「落とした?叩き割ったんじゃないのか?」
「落としたって言ってるだろ!」
威圧的な恫喝と、何か、木を殴る鈍い音。鏡に映る範囲にいないのでどのような表情をしているのかは分からない。目を見開いて、弟のいる部屋の鏡台を凝視した。
「すまん。怒ることないじゃないか」
「怒る?何の話?」
母の部屋から出てきた智は口の端に笑みを浮かべていた。
「それより、これ見てよ。今、母さんの部屋から出てきたんだ。これ、母さんに似てない?」
智が差し出したガラスのコップには、黒髪女性のキャラクターが描かれている。
「ああ、そうかもな。髪形とかほうれい線がそっくりだ」
「今日は、これを使うよ」
旭にコップを渡し、智は再び箒とちりとりを持って母の部屋へと帰っていった。それを茫然と見送る。
確かに、俺には床に叩きつけたように見えたんだがな。……四時間のドライブで目がかすんだか。
腕で目を擦って、レシピを見直す。懐かしい母の字で書かれたそれは、料理の手順だけでなく、兄弟それぞれがどんな感想を言ったのかまで事細かに書かれていた。
「マメだったんだな、うちの母親は。……おっと」
落としたレシピは風に吹かれて勝手にめくれ、オムライスのレシピのページが開かれた。そのページを見て、ハッと息を飲んだ。日付は一年前のものである。
四月三日。今日は旭が自立していなくなって、初めてのオムライス。智は喜んでくれるかな?手順は簡単。切った人参、玉ねぎ、ソーセージ、ピーマンを炒めてご飯を投入。ケチャップで味付けし、弱火で一分蓋を閉じる。卵は広く固めに。
レシピ自体はなんの変哲もなかったが、その上に真っ黒な色で、
「これは不味かった。五発殴ってやった」
と乱雑な大きな字で書かれていた。
五発殴ってやった。五発殴ってやった。頭の中で文字が反復する。急いで他のページをめくる。その他の卵焼きのページにも、オムレツのページにも昨日の日付で、死んでくれてよかっただとか、投げた椅子があごに当たって大笑いなどと弟の字で書かれている。
動悸が高まり、レシピを持つ手が震える。疑惑が確信に変わる瞬間の、ぞっとする背筋の冷ややかさを感じた。
ああ、智が殺したんだ、母を。
パスタを茹でる右手は自然とポケットに伸び、二つの小瓶をシンクの上に並べた。茹であがったパスタに白いソースを絡めて、パルメザンとブラックペッパーとパセリを振りかける。二つの皿に取り分けた後、茹でておいた卵を二つお湯から取り出す。一つを割って自分の皿に。固めにゆでたもう一つは丁寧に殻を剥き、箸先で開けた穴に透明な小瓶の液体を流し込む。震える指は少し液体を溢れさせ、白いソースに混ざり合った。
「だ、大丈夫。俺の推理が間違っていれば、茶色の小瓶の液体を飲ませればいいんだ」
旭は茶色の小瓶をポケットに再び忍ばせた。
「待たせたな。はい、カルボナーラ」
食欲をそそる湯気を伴なって、カルボナーラが智の前に置かれた。
「おお、流石コック。いい匂いがする」
智はフォークを使ってくるくると巻いて、大きな口で頬張った。
「懐かしいな、この味」
「そうか」
「よく、母さんが作ってくれたよね。工場勤務から帰った時も、よく作り置きしてくれてたし、子供の頃は兄ちゃんが部活でいなかったから、休日昼間はよくこっそり作ってもらってたんだ」
「母さんと二人で食ってたのか?」
「うん。夜は父さんが荒れてたから。優しかったなあ、母さん」
二口目に卵を割る。水気を失った黄身が白いソースと交わったのを見て、智の手が止まった。
「どうした?」
「いや」
黄身が混ざったパスタを口に頬張ったのを確認した。ここから先は慎重に。そう思うと唇が震える。
話を始める。
「そんな優しい母さんを、お前、殺しただろ」
旭は検死結果を出して見せた。更に言葉を続ける。
「この一年、この家で何があったのか聞かせてもらおう。……この、レシピに書かれた言葉と照らし合わせてな」
レシピの黒い文字が書かれてあるページを開いて粗雑に机の上へ放り投げた。
智はフォークを皿に置く。俯き、じっと動かない。旭は、何があっても良いように、地に足をつけて身構えた。智の眼鏡が差し込む太陽光で光り、両腕の筋肉が収縮を始めた。呼吸は乱れ、浅い呼吸と深い呼吸を繰り返す。
「水をくれ」
「後でな。今は俺の言ったことに答えろ」
その瞬間、机はひっくり返され、旭の眉間に拳が突き刺さった。一瞬飛んだ意識が戻ると、床にうつ伏せに倒れていることに気がつく。
「不味いんだよ、糞が。固ゆで卵は嫌いだっつってんだろ!水!」
次の一撃はみぞおちに。蹴るつま先が食い込んで、苦しくて涎が出た。旭はひいひいと、赤子のような声をあげて、母の部屋へと這っていく。智は冷蔵庫から麦茶を出して、そのまま飲むと兄の後をゆっくりと追った。
ドアを閉めて、鏡台で塞いだ旭は咳をしながら座り込んだ。
これか。と旭は思った。眼光鋭く獲物を狙う蛇の目。父親そっくりだ。体の奥で発せられる痛みから分かる一発の重さ。これを母親は一年も受け続けていたのか!弟にまかせっきりで放っておいたことへの自責の念が、心までも苦しめる。
ドン、ドンと扉が叩かれ、乱暴にドアノブを回す音が聞こえる。
「でてきてよ、兄ちゃん」
やけに甘ったるく、媚びる声で旭を誘う。
「ねえ、料理に何か入れたでしょ。体がおかしいんだけど」
「そうだ、毒を入れた。お前はこれから死ぬ」
これだけを言うのもやっとだ。
「解毒剤は?持ってるんでしょ?」
「持ってる。だから答えろ。お前が一年間、今みたいに暴行して母親を殺したんだな」
ドアを叩く音が続く。
「ねえ、解毒剤」
「答えろ!」
旭はありったけの声で叫ぶと、智は叩く手を止めて言った。
「……違う、あれはしつけだよ。殺したんじゃない。排泄もまともに出来ない獣をムチ打つのと一緒だよ」
「お前はそんな奴じゃなかっただろ!」
「母さんの介護を俺に押し付けたお前に何が分かる!さあ、喋っただろ!渡せ!」
旭はポケットから茶色の小瓶を取り出すと、扉に投げつけた。液体が壁をつたって、床のカーペットに染み込んでいく。
「てめえ、割ったな!」
「ちゃんと取らねえ、お前が悪い。母親の仇だ、潔く死ね」
「くそっ」
智はドアから離れていった。旭は天を仰ぐと、目の奥に涙が溢れた。
ああ、俺が悪い。一人暮らしに今更憧れて出ていった俺が。帰省したときに気がつかなかった俺が。智を一人にした俺が。思えば、電話が来るたびに、沈んでいく声が苦しんでいるサインだったじゃないか!もう、取り返しがつかない。
家の中は本当に静かだ。物音一つない。智はどこに行ったのだろう。薬局にでも駆けこんでいるのだろうか。
頭を抱えてうずくまると、轟音が耳を貫いた。目を開けると、窓が割られて散らばっている。
「ああ」
と、旭は息を漏らした。太陽光を背に受けて、智は金属バットを肩に担いでいる。母親が入っている仏壇にスイングして位牌を砕いたあと、ゆっくりとバットを頭上に掲げ、何の躊躇もなく旭の頭に振りおろした。何度も何度も。
「俺のやり方に文句があったなら、お前がやれば良かったじゃないか」
父さんの口癖だ。旭の頭からは血が溢れ、空気に触れて固まっていく。弟の顔は別人のように歪んでいるのが見えたが、段々とかすんで、視界が白くなる。
それでも、母は弟を守るため、幸せなふりをして死んだんだ。
その考えが最後に頭に浮かんだあと、もう何も考えられなくなった。
智は、兄が動かなくなったことを確認すると、ドアを開けて冷蔵庫へと走る。とにかく胃の中の毒を薄めようと、冷蔵庫の中の麦茶や水を胃に入れるが、苦しさは緩和されない。
「くそっ」
近くにあったガラスのコップを手に取ると、苛立ちを発散するために床に叩きつけた。黒髪女性のキャラクターが粉々に割れて散らばる。
「ああ、うう」
うめき声しか絞り出せない体の中の血管を、まるで毛虫が這いまわるような痛みが走る。手先が段々動かなくなって、動脈と静脈の血液が固まっていくようだ。
そうして完全に思いだす。かつての母の優しさと、アルツハイマーの母に自分がどんな仕打ちをしたのか。
力を振り絞り、母の部屋まで辿り着くと、旭の上に重なって倒れ、動かなくなった。