天津甕星について
天孫降臨の神話は日本書紀にも古事記にも載っていますが、古事記では健御雷が出雲の大国主の子の健御名方と戦ってこれを破ったとされています。そして信濃国(長野県)の諏訪まで追って行って、そこでタケミナカタが「私を殺さないでくれ、もうこの地からは出ないから」と言ってそこにとどまったとされています。つまり、これが諏訪大社の始まりだとされているわけです。
もとより、これは古事記の編集者がこのように解釈したものであって、もともと諏訪大社でこのように伝承されていたわけではないでしょう。自らの祭神がそのような不名誉ないわれを持っていると伝承するとは考えがたいからです。(多分タケミナカタは、もともとは大和とも出雲とも関係ない神だろうと思います)
古事記ではタケミカヅチはタケミナカタとしか戦っていないようですが、日本書紀では経津主が主役で、地上の邪神たちをことごとく平定したと述べられています。類話からして、おそらくこちらのほうが降臨神話の原型に近いと思われますが、このようにまつろわぬ神々を平定したという話があり、また諏訪大社のほうで、もともと祭神のタケミナカタがよそからやって来た神だと伝えられていたことから、このタケミナカタは国譲りの時に敗れてこの地にやって来たのだ、という解釈を、古事記の編集者が採用したものだと思われます。
また、朝廷があった大和から見て、出雲は西、諏訪は東にあるので、東西を制するという意味があるのかもしれません。
古事記が偽書でなければ、このような伝承は当時からあったと思われますが、日本書紀では諏訪の側に配慮してかこのような記述にはなっておらず、むしろ持統天皇が諏訪の神を祀らせに勅使を遣わしたと述べられています。持統天皇は書紀編纂時の直近の天皇なので、書紀の編集者もこれをはばかったのかもしれません。
その代わりと言うべきか、日本書紀では天津甕星、または香香背男という名の星の神がまつろわぬ神として出てきます。(もっとも、これも「一説では」という形で出てくるのですが)正文では、フツヌシとタケミカヅチが地上のまつろわぬ神々をことごとく平定したけれど、ただ星の神であるカカセオだけは服させられなかった。そこで倭文神(シトリはシツオリの略で、日本の織物を指すという)の健葉槌を遣わしたところ、この神も服した、と述べられています。
また別伝の一書の二では、フツヌシとタケミカヅチが地上に下る前に、「天に悪しき神があり、その名は天津甕星、またの名を天香香背男と言う。まずこの神を誅してから地上を平定しよう」と言い、この時に斎主神があり、その名を斎主の大人と言う、それが香取で祀られている神である。それから天下って地上を平定した、と述べられています。(この香取の神は、古語拾遺ではフツヌシ、延喜式では斎主神となっているとのこと)
そこで、このアマツミカボシとはどのような神であり、またなぜフツヌシとタケミカヅチでも服させられなかったのに織物の神のタケハヅチが服させることができたのか、また一書の二で「斎主の大人」によって誅されたらしいのはどういう意味なのか、という疑問が出てきます。
また、記紀に星の神が出てくるのは極めてまれなのでこの点も不審とされますが、明言されていないだけで星と関係づけられている神は他にもいるのかもしれません。フツヌシやタケハヅチも、アマツミカボシに対抗しているからには、同じところにいるわけでしょうし。
ところで、この神話と関係ありそうな話が、肥前国(佐賀、長崎)風土記に出てきます。
“姫社の郷。この郷の中に川があり、名を山道川という。……昔、この川の西に荒ぶる神がいて、道行く人が多く殺され、半ばは助かったが、半ばは殺された(似たような言い回しが荒ぶる神の話でよく出てくる)。時に、祟るわけを占い問うたところ、占いで言うことには、『筑前国(福岡)の宗像の郡の人、珂是古に我が社を祭らせよ。もし我が願いにかなえば、荒ぶる心を起こすまい』と言ったので、珂是古を探し求めて神の社を祭らせた。
珂是古は、そこで幡を捧げて祈って言うことには、『まことに我が祀りを望むならば、この幡は風の吹くままに飛んで行き、我を求める神のところに落ちよ』と言い、幡を挙げて風の吹くままに放しやった。その時、その幡は飛んでいって、御原の郡、姫社の杜に落ち、また帰って飛んできて、この山道川のほとりの田村に落ちた。珂是古は、おのずと神のいる所を知った。
その夜、夢でクツビキとタタリ(共に機織りの道具)が舞い遊びながら出てきて、珂是古の体を押さえつけて目を覚まさせるのを見た。そこで、それは織女神だとわかった。そこで社を立てて祭ったところ、道行く人は殺されなくなった。これによって姫社と言い、それを郷の名としている”
この話では、祟っていたのは機織りの神のようですが、またそれを鎮めた珂是古も、機織りの神の力でそれを鎮めたようにも見えます。というのは、この珂是古は筑前国宗像の人ですが、宗像の神もまた機織りと関係していると思われるからです。
応神天皇紀には、天皇は呉(中国南部)に人を遣わして縫工女を求めさせた。そこで呉王は縫工女の兄媛、弟媛、呉織、穴織(漢織のことか?)を与えた。それで兄媛は宗像の大神に献上し、残りの三人は摂津国(大阪、兵庫)につき、機織りの技術を伝えた、と述べられています。現在の宗像大社の中津宮には織女神社と牽牛神社があり、七夕伝説発祥の地と言い、ここでの七夕祭の記録は鎌倉時代までさかのぼることができる(宗像大社HPより)と言います。
書紀では、この宗像の神は三柱の女神で、アマテラスとスサノヲの誓約で生まれたスサノヲの子だと述べられています。そして、アマテラスはこの三女神を筑紫国(福岡)の宗像に下して、「(新羅への)海の中の道にあって、天孫を助けよ」と言っています。
宗像は筑紫の北にあって、新羅(朝鮮半島南部にあった国)に近いところにあります。
そして、肥前国風土記に出てきた織姫神の姫社は、この新羅(あるいは、同じく半島南部にあった任那)から来た神だとされています。
垂仁天皇紀の始めのほうに、任那の王子であるツヌガアラシトが、北の海から出雲国(島根県東部)を経て、越の国の角鹿(福井県の敦賀)に、先帝(崇神天皇)の徳をしたってやって来た、そのあと垂仁天皇にも仕え、垂仁天皇から赤絹をたまわって帰国した。それで崇神天皇の名である「ミマキイリビコ」から名を取って、彼の国は任那と呼ばれるようになった。しかしその赤絹を新羅の人が奪ったので、この時から新羅と任那はいさかい始めた、と述べられています。
そこでさらに別伝として、ツヌガアラシトがもとの国にいた時、老人の忠告でその地の神を得た。この神は白い玉であったが、その玉が乙女の姿になり、彼女は海をわたって日本に行ってしまったので、ツヌガアラシトはその女神を追って日本にやって来た、と述べられています。そして、この女神は摂津国(大阪、兵庫)の難波に来て比売語曽の社の神となり、また豊国(後の豊後国、大分県)にやって来てやはり比売語曽の社の神となった、とされています。
このヒメコソは、肥前国風土記では肥前(佐賀、長崎)にいて、そこで宗像の人、珂是古を呼んで祭らせています。
また垂仁天皇紀でヒメコソの社があると言われている摂津国(大阪、兵庫)風土記逸文では、「応神天皇の御代、新羅に女神がいて、その夫から逃げて、一時、筑紫国(福岡)の『伊波比の比売島』に住んでいた。そこで『ここではまだ遠くない。まだ夫の神が追ってくるだろう』と行って、最後に摂津国の今の場所に落ち着かれた」と述べられています。
また垂仁天皇紀には、ツヌガアラシトに続けて、新羅の王子である天日槍がやはり天皇の徳をしたってやって来た。そして近江国(滋賀県)から若狭国(福井県南部)を経て、但馬国(兵庫県北部)に落ち着いた、天日槍が持ってきた神宝もそこに収められた、と述べられています。
古事記では、天日槍は応神天皇の時にやって来たとされており、赤い玉が変化して女神になったのを追って日本にやって来た、その女神がヒメコソの神、またはアカルヒメである、と、ツヌガアラシトと同じような伝承が伝えられています。
新羅と任那がともに朝鮮南部の国であり、神話からしても恐らく同種の国である(同じく朝鮮半島にあった国でも、高句麗、百済の王は扶余族のルーツを持っていると自認していた)ことと、伝承の重なりからして、もともとこのエピソードは同一のもので、伝わった地域によってツヌガアラシトと天日槍に分かれたものと思われます。
天日槍は風土記では神として出てきて、大国主と土地を巡って争ったりしています。恐らく、この天日槍はもともとは矛を御神体とする神であって、この神を祭る人々によって祖神とされてきたものと思われます。天日槍が新羅王子と言われながら明らかに和風な名前を持っていることから、その由来が古いことが察せられます。
また、この天日槍も降臨神話を持っていることは、筑前国風土記逸文で、仲哀天皇を出迎えた筑前国の伊都県主の祖であるイトテが、自らを「高麗(高句麗)の国の意呂山に天降った天日槍の裔」だと述べていることからわかります。(新羅ではなく高麗になっているのは混同されたためか、あるいはもとは高麗に降ってそれから新羅に来たという伝承のためか)また新羅、任那でも、王は降臨神話を持っています。
また、百済からやって来た秦氏は、姓氏録では、仁徳天皇に絹織物を献上したので「はた」の名をたまわったと述べられています。(秦氏は秦始皇帝の末裔だとされていますが、なぜ百済から来たのに始皇帝の末裔かというと、秦から人々が亡命してきた時、馬韓(後の百済)がその東の土地を割いて与え、そこに秦の人々が住みついたので、それで辰韓(後の新羅)はまた秦韓とも言う、とのこと)
こうしたことから、近畿、中国地方、九州北部、朝鮮南部では機織りの神が信仰されており、同じ織物の神であることからタケハヅチもそれに習合していること、そしてそれが降臨神話と結びついて、悪神を封じ込める話になっているものと思われます。大和の神話もそれと習合している(あるいはもともと同起源かもしれない)ことは、天皇氏の始祖であるアメノオシホミミの后がタクハタチヂヒメとかヨロズハタヒメとかの機織りを連想させる名前になっていることからも察せられます。
ではなぜ、機織りの神が悪神を封じ込めることができるのかというと、それは織物が祭祀に使われるものだからだと思います。
神代紀の天岩戸隠れの段では、天岩戸の中に入ってしまったアマテラスを呼び出すために神々が祭祀を行うわけですが、そこでは木の枝に鏡と玉をかけ、また白和幣、青和幣を掛けて、祝詞を唱えたり踊ったりした、とあります。注釈ではこの和幣は柔らかい材料、幣は神への捧げ物のことで(別伝では幣もニキテと読んでいる)、ここでは木綿と麻のことであると言われていますが、別伝ではもっとはっきり、木綿を掛けたと言われています。現在の玉串もここから来ていると言われます。
また大物主の宮を作る際には、その宮に仕える役目として、捧げ物の楯を作る者や玉を作る者などと共に、木綿を作る者が定められています。また垂仁天皇紀に、石上神宮に仕えるものとして、楯縫部、玉作部、神弓削部、神矢作部などと共に、倭文部が定められています。
また神功皇后も、神のお告げを受けるために琴の前と後ろに布帛を重ねて祈っています。
また万葉集でも、「……木綿だすき 肩にとりかけ 倭文幣を 手にとりもちて な放けそと 我は祈れど……」とか、「……ちはやぶる 神の社に 照る鏡 倭文に取り添え……」というように倭文幣が捧げ物として出てきます。
つまり、倭文は神への捧げ物だったわけで、倭文神のタケハヅチもそのような形で祭祀に関わるものだと観念されていたと思われます。肥前国風土記で珂是古が幡を飛ばして神意を占っているのも、幡が捧げ物だからかもしれません。
東シベリアのブリヤート・モンゴル族にも降臨神話がありますが、そのブリヤート族の神話と伝えられるこんな話があります。
“天には東に悪しき天神たちが住み、西に良き天神たちが住んでいた。良き天神たちは人を作ったが、悪しき天神たちが人々に災いをもたらしたので、良き天神たちは始めはすばる星の上で、後に月の上で協議を重ねた結果、人々が悪しき天神たちと戦うのを助けるためにシャーマンを遣わすことにした。そして鷲を地上に遣わして、この鷲と地上の女との間の子が最初のシャーマンになった。あるいはこの女が最初のシャーマンになったとも言う。”
前述のように、神代紀で木綿は捧げ物として使われていますが、その木綿作の祖だとされているのも天日鷲です。
もちろんこれだけではこの神話が同起源かはわかりませんが、天日鷲はまた粟国(四国)の忌部の祖だとも言われており、一方で忌部の祖とされている太玉命と同じく、この神が単独で祭祀を司る一族の祖になっています。これはブリヤートの神話で鷲がシャーマンの祖になっていることとも、星や月が舞台になり、悪しき神と闘う世界観とも符号しますし、また日本で鳥がしばしば神の使いとして出てくることとも符号します。神武天皇も金色の鳶や八咫烏に助けられていますし、天夷鳥は出雲大社に神宝をもたらしたとされています。
またモンゴルのシャーマニズムでも絹織物を捧げ物にすると言います。
織物を主体にして祭祀をする話は見当たらないようにも思えますが、高麗の「三国遺事」に紹介されている伝説としてこんな話があります。
“昔、新羅に延烏郎、細烏女という夫婦がいたが、ある時延烏郎が海辺に行って一つの岩(魚だとも言われる)に乗ると、岩が動いて日本にやって来た。そこで人々に推されて王になった。細烏女は夫を探しにいったところ、海辺で夫の靴が落ちているのを見つけたので、岩に乗ってみると岩が動いて日本にやって来た。そして二人は再会して王と王妃になった。
一方、新羅では日と月が光を失ってしまい、予言者が「新羅に天降った日と月の精が失われてしまったからだ」と告げた。それで二人を迎えに日本に人を遣わしたが、延烏郎は「私がここに来たのは天命だから帰ることはできない。だが妃の織った細絹を持ち帰って天を祭ればうまくいくだろう」と言った。
それでその細絹を持ち帰って天を祭ったところ、日と月は光を取り戻した。それでその細絹を国の宝とし、祭祀を行った場所を迎日県、またはトキヤと呼んだ。(トキは古語で迎日の意味)”
前述のように、古代日本と新羅は浅からぬ関係にあったと思われますし、日本でも織物を祭祀に使っていますので、織物を使った祭祀でこのように光をもたらしたという話があったのかもしれません。
またこう考えると、天岩戸隠れの段で木綿を捧げているのが、アマテラスを呼び出し、光を取り戻すためであるのとも符号します。この話は、古事記ではこれでアマテラスの気を引いてから手をつかんで引き出す話になっていますが、伝承によってはこの祭祀だけでアマテラスが呼び出されています。つまり、この祭祀は光を呼び出す祭祀だと考えられるわけです。(大和志料の引用する遠江国の初衣社(初生衣神社か?)の旧記に天照の天岩戸隠れの時、健葉槌が織物を奉ろうと述べた、とあると言う)
またこう考えると、別伝で天津甕星が斎主神によって制されていることとも符号します。つまり、いずれにせよ祭祀によって制されているということです。
日向国風土記逸文でも、ニニギが天降った時は空は暗闇で日も月も照らなかったのが、土蜘蛛の助言で稲籾をまき散らしたら空は晴れ、日と月が輝いたという話があります。このようにして日と月が輝いたとしたら、昼と夜が交互にやって来ることになり、星は夜にしか出てこなくなるので、それが星を従えたという意味なのかもしれません。
また、ここで稲籾によって光がもたらされている理由を考えてみると、もしこれが稲であることに意味があるとしたら、それは稲が、昼と夜が規則正しくやってきて光を浴びることができ、季節が正しく巡ることによって実るものであるので、逆にその稲を撒くことによって光をもたらし、秩序をもたらすという発想が働いているものと思われます。普通に考えればこれは原因と結果をはき違えた考えだということになるでしょうが、呪術的にはこのような発想が世界の他の地域にも見出されると言いますし、時には現代の人もこのような発想をすることがあるでしょう。
一方の織物も、植物からつくるものですから光によってできているものであり、また農耕と機織りはしばしば対になるものとして表れてくるので、ここでも同じ発想が働いて、織物によって光をもたらす話になると思われます。
また、天津甕星といえども神話の中では結局は従えられているわけですが、星の神が従えられた状態とはどういう状態であり、従わなかった時はどういう状態だったのか、と考えてみると、この時一緒に征伐されている木や草や石は、昼はものを言って騒ぎ立ち、夜は怪しく光っていた、とされていますが、現在はそうなっていないわけで、つまりは「今の状態」が征伐された後の状態だとみなされているのでしょう。神話のこの辺りは世界に今ある秩序がもたらされる場面であって、それに反するものが悪しきもの、まつろわぬ神とみなされているのだろうと思います。
それで、星を倒すということはどういうことかと考えてみると、(特に古代の人にとっては)それは夜が明けて星が消えることだと考えるのが自然に思えますし、今の状態が星が従えられた状態だとすれば、昼と夜が交互に来て、星は夜にしか見えないというのがそれだと考えるのが自然に思われます。
またこう考えると、この話があくまで「一説によると」という形で本文中に出てくることとも符号します。つまり、本文中ではすでに天岩戸隠れの後で、世界は光を取り戻しているはずだからです。
そんなわけで、天津甕星は祭祀によって封じられたものと観念されていたと思われます。別伝ではタケハヅチではなく斎主神の力によって誅されているようですが、いずれにしても武力だけではなく、祭祀の力が必要だと考えられていたものと思われます。斎主の神はフツヌシと同一なのか別の神なのかわかりませんが、神武天皇も自ら祭祀を行い、また自ら戦ってもいるので、同一だとしたらそれと同じように観念されているものと思われます。
次に天津甕星とはどの星のことなのかという点ですが、これは人のいうように金星のことであろうと思います。金星はブリヤート族の神話でも、かつては強力な戦士として尊重されていたのが、後には悪神とみなされるようになったといいます。
天津甕星の「ミカ」は「ミ(尊称)+イカ」で、イカはいかつい、いかめしいのイカと同根、古代にはもっと強く「恐ろしい」という意味合いだと思われます。これはタケミカヅチのミカと同じだと思われますが、悪神と言われながらも尊称の「ミ」がついている辺りに、一定の敬意が払われているようにも見えます。
金星は明け方と宵に現れて、他の星が見えないような時に明るく見えるので、それが他の星よりも強力で、なおかつイレギュラーな存在と見えたものと思われます。また、そうではあっても時が経てば消えてしまうので、これが招日によって制される発想と結びついたのだろうと思われます。
とはいえ、後世の日本で天津甕星がどの星のことだと言ったという話も聞かないので、これが記録された頃にはすでに星辰信仰は廃れていたのだろうと思います。