鋼の中の雛【短編】
不意打ちで利き腕を落とされた。
迷宮に来て以来最も深刻な深手だ。
油断していた訳じゃない。鋼殻騎士団の者なら戦前に必ず雛神様同士の挨拶があるはずだし、団員以外の侵入者がこんな深奥部にいるはずがない。
『それが油断だというのよ』
雛神様は手厳しい。距離を取って相手を確認する。
右手に大剣を下げ、ぶつぶつと呟きを洩らす男の姿。イザークだ。迷宮に辿り着いた頃に世話になり、騎士団のしきたりと迷宮での生き方を教わった。頼もしい同胞にして手強い好敵手だったが、鋭い光を放っていた灰色の瞳は濁り、だらしなく開いた口元からは涎が糸を引いている。
『薬のやりすぎね。姉妹の声も聞こえない』
雛神様の加護だけを手にし、身を捧げるのを避けるため最初から薬を使う不心得者も存在するというが、彼が使っていたのはしきたりで認められた薬草だけのはず。とはいえ、雛神様が育ちきり旅立たれる間際には、屈強の団員でも薬無しでは耐え切れるものではない。イザークほどの男でも、矩を越えざるを得ない痛みと苦しみを与えられたという事か。
正気を失っているとは云え、イザークの身体に染み付いた剣技は健在だ。体内の雛神様も自らを守るため、眠ったまま脳内麻薬を垂れ流し続けているようだ。
とても片腕で凌ぎ切れる相手ではない。
『アイン、あんたここで終わるつもりじゃないんでしょうね?』
母神様が産み落とす雛神様はとても数が多い。育ちきれば同格の神性になるというが、雛神様は人間でも滅ぼせるほどか弱い存在で、ある程度は人間の中で過ごす必要がある。迷宮に住まう母神様は、かつては迷い込んだ人間に同意を得て雛神様を託していたそうだ。いつからか、雛神様をお護りするのと引き換えに、人としての強さの限界を求める者達が集い、鋼殻騎士団が結成された。半分は傭兵として外に戦いの場を求め、半分は迷宮に留まり互いに競い合う。信仰心に束ねられた、ただ純粋に強さだけを求める集団。
同格の神性は同じ世界に存在を許されない。育ちきった雛神様は知識を蓄え異世界に旅立つか、此界の神に代替わりを挑む事になる。俺の中の雛神様の望みがどちらであれ、俺の望みは雛神様と共に戦い続ける事だ。前例が無い訳じゃない。ある魔術師は蓄えた全ての知識と引き換えに、雛神様の中に人格を残す事を許されたという。雛神様が旅立った後、身体に大穴を開けられた俺が生きていられたとして、俺が雛神様の役に立てるかどうかは怪しいものだが。
俺の目の前に、かつて酒を酌み交わし、何度も剣を交えた友が横たわっている。
薬が切れたのか、イザークの腹を破った雛神様が無数の脚を動かし、慌てて駆け出して行くのが見える。
まだ細い蜘蛛のような脚に、青白い屍肉のような身体。この分ではご苦労されるだろうが仕方がない。雛神様と騎士との出会いは運命で、彼女の騎士はここで斃れたのだから。
『生きてるんでしょ? ちゃんと動きなさいよ!』
イザークとの死闘で、右腕だけでなく左足にも深手を負った。傷を癒せたとして、この身体ではもはや最強を求めるのは不可能だろう。
右腕の傷に、内側から焼け火箸を突き刺されたような激痛が走る。絶叫し、のた打ち回る俺の目の前で、ぐずりと突き出された雛神様の細い三本の脚が縒り合わさり、異形の腕を形作る。
『あんたの為じゃないんだからね! あんたはあたしの騎士なんだから、あたしが此界の神になるのをちゃんと見届けなさい!』
左足にねじ込まれてゆく脚が、痛みと共に俺を無理にでも立ち上がらせようとする。
(『わらわの仔を孕みなさい! さもなくば死! ハリハリー! デス・オア・プレグナント!』)
母神様との謁見を思い出した。最初から雛神様を賜るつもりだった俺に、問答無用で殴り掛かる暴虐。丸三日間動けなくなるほど殴られた後に、胸元に捻じ込まれた小さな肉塊。母神様から引き離される不安と恐怖で縮こまっていた雛神様が、今では母神様に挑もうとしている。
やれやれ。一度最強を夢見た以上、そう簡単には楽にはなれないか。
友人を弔い新しい右腕で剣を拾うと、俺は再び迷宮を歩き始めた。