不慮の再会
「誰か!」
息が切れる。走りっぱなしで、鼻のまわりをさすような痛みが覆っている。もうだめだ。これ以上は走れない。
せまい通りの中で、後ろから一組の足音が執拗に宗谷を追いかけてくる。辺りは真っ暗で、足元さえもよく見えない。
「誰か・・・・」
声がかすれた。どうして誰も俺を助けてくれないんだ。ここにも、そこにも、家は通り一面に立ち並んでいるというのに!部屋から出てきてくれさえすればいいんだ!
つま先が何かに当たったのに気づいた次の瞬間、宗谷は転んで、コンクリートの上に体を打ちつけていた。両手のひじと掌がすりむいた。
直後、宗谷の首筋を冷たい手がガッとつかみ、そのまま顔面を地面に叩きつける。意識がとんだ。上下が分からなくなる。
「宗谷・・・・久しぶりだな・・・・」
ひどく息が上がっていて、声をだすのも苦しかったが、古泉は構わずに宗谷の体の上へのしかかった。
「古泉部長・・・・・・」
「自分が何をしたか、覚えてるんだろうな・・・・」
首を押さえつけている腕に、さらに力を込める。宗谷の口から呻き声が漏れた。古泉は口をほころばせて軽く笑みを浮かべ、復讐の甘美な感慨を存分に味わった。
「結構痛かったんだぜ。なんせ電柱にぶつけられたんだからな。なぁ、お前はどうして上司を見捨てて逃げ帰ったりしたんだ?おい、答えてみろよ!見てみろこの傷を!頭にひびが入ったじゃねぇか!」
古泉はそう言って、震える宗谷の目の前に、髪を掻き分けた自分の側頭部をグイッと近づけて見せた。髪の間から生々しい針の縫いあとがのぞいていて、そのまわりだけ髪の毛が削がれている。
「――――何?」
「すいません。本当にすいません。こんな・・・・こんなことをするつもりはなかったんです。本当にすいません。許してください・・・・・・」
宗谷の瞳から、大粒の涙がボロボロと流れ落ちる。とめどなくこぼれ出てくる鼻水が、あごを伝って地面に垂れた。古泉は無表情のまま宗谷のことを見下ろし、何もしないでじっと黙っていた。ひと気のない路地の真ん中で、二人の男がコンクリート舗装の上にじっとかたまっている。
やがて泣き声は消え、辺りに再び静寂が訪れた。
宗谷はそれでもまだ絶え絶えと、小さな嗚咽を漏らしていたが、それはもうほとんど聞き取れないほどの大きさだった。
「なぁ、宗谷」
不意に、古泉はつぶやいた。声はどこか遠くの場所を向いていて、宗谷ではない他の誰かに向かって言われたかのように聞こえた。
「はい」
なき続けて力の抜けた喉から、宗谷は何とか力を振り絞って応えた。
「由香は、俺の葬式の時に泣いていたか?」
気持ちの読み取れない、淡々とした口調だった。大島由香は古泉部長の恋人だった人だ。30代にしてはじめて同棲したという相手で、古泉は職場にいてもことあるごとに彼女の話をしていた。
本当は知らないないのに、「泣いていました」と答えた。そう言うしかなかった。
「そうか・・・・」
古泉は何も言わない。ただぼんやりと、電灯の光を眺めている。
―――――古泉部長、本当にあの日は、こんなことをしてしまうとは思ってなかったんです。いつものように会社を出て、いつものように居酒屋に向かって・・・・。
あの日は部長と僕以外は都合がつかなくって、他の皆はついてこなかったんです。二人で寂しく、それでいても互いにどこか気があって、話もまあまあ盛り上がりましたね。何を話していたんですっけ?僕はもう忘れてしまいました。だって、何を争って喧嘩したのかも覚えていないんですよ?
―――――あの日は珍しく雪が降ってましたね。ちょうどドラマの中ででも降ってきそうな、真っ白な雪ですよ。その上に。部長は倒れて、頭から流れた血が、白く積もった雪にじわりじわりと広がっていって・・・・・・あの光景が僕の目に焼きついて、今も離れないんです。どうしたらいいんでしょう?教えてくれませんか?毎日毎日がつらくってしかたないんです。
「おまえ、今どんな生活してるんだよ」
唐突な問いかけに、宗谷はハッと気を取り直した。
「どんな・・・・・・ですか。毎日、同じことの繰り返しですよ」
「楽しいか?」
「・・・・・・いいえ」
つらいんです。毎日毎日がつらくてしかたない。
「そうか」
古泉はそういって立ち上がった。体が一気に楽になる。古泉は名残惜しそうに夜空を見上げ、それから大きなため息をついた。
「もう行ってくれ。この近くにはもう二度と近よるなよ」
顔を上げると、もうそこに古泉の姿はなかった。かわりに夜空の中でうっそうとした雨雲が、月に被さって浮かんでいる。
宗谷は、ゆっくりと立ち上がった。そして、辺りを見回してから、再びいつもの場所へと歩き出した。ひと気のない夜の橋へ。自分の人生が、終わりを告げたところへ。
途中、深夜残業を終えた一人のサラリーマンが彼のすぐ脇を通り過ぎていったが、そのサラリーマンは何事もなかったかのように帰路をゆき、自分の脇を男が通っていったことなど全く気づいていなかった。
毎日毎日が、つらくてしかたない。