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狐火三部

驟雨

作者: 黒雛 桜

――「おれにはだれも必要ない。だから――」

 そう言った稲瀬佐紀いなせさきの赤味がかった瞳に、つかさの姿は映っていなかった。いや、意図的に、そこからつかさを追い出したのだ――。


 *


 佐伯さえきつかさが暮らす北の大地は、一年の約半分が冬といわれるほどに、夏も秋も極端に短い。そして、とくに秋は刹那的ともいえる速さで過ぎ去っていくのだ。

 そこで生活するだれしもが――むろん、つかさも例外ではない――そんなふうに肌で感じている。

 季節は十月。

 薄青の空ははるか高く、朝の空気は鼻の奥がツンとしみるほどに冷たく、それでいて澄んでいた。


「ねぇねぇつかさ、学祭前に隣のクラスの小池君に告られて、フッたってマジ?」

「そっ、それは……ホントだけど……」

「えぇー、もったいなぁーい」

 朝のホームルームが始まる直前、つかさの席を囲む三名の友人――アイ、マリナ、リカ――たちは一斉に色めきだった。前の席に座る親友の小林美羽だけは何が面白いのか、くすくす笑っている。

 夏にちょっとしたことで渡邊愛わたなべ あいと仲たがいをして、仲良し五人グループが一時解散する事態にはなったものの、秋には元サヤというのだから、女子の友情とはじつに不思議なものだ。

 その仲たがいの原因となった人物を、つかさは横目でちらりと見やる。

 相変わらずの無表情で少しくたびれた文庫本に目を落とす男子生徒は、つかさの視線に気づく気配もない。

「だって……」

 もごもご言っているうちに、ショートカットから覗く耳が赤くなっていった。

 頬までもがカーッと熱くなって机に突っ伏せば、友人たちはニヤッと笑って「これじゃあ仕方ないよね」と顔を見合わせる。

 隣の席の、平凡で目立たない男子生徒。黒髪に黒縁眼鏡、クラスのだれとも接点を持たない影の薄い存在――。

 それが、稲瀬佐紀いなせさき

 そして、その一見地味な男子につかさは夏の初め頃から、想いを寄せている。

 絶賛片想い中、というやつだ。


 恋とは言葉にも形にできない、なんとあやふやで、もどかしい代物なのだろう――。



「稲瀬ってさぁ、隠してるけどホントははかっこいいし、やさしいし、イケメンだし」

「そーゆうのわかってるのって、つかさくらいだよ」

 下校する生徒でごった返す、青陵高校せいりょうこうこう前のバス停で、美羽はファンデーションのミラーに映る自分を見ながらフンワリ笑った。

「美羽のほうが色々知ってるじゃん」

「表面上のことしか知らないよ、みうは稲瀬くんのホント(・・・)の顔、すこしも知らないもん」

「……そ、う?」

 美羽の意外な告白に、つかさは優越感をおぼえるどころか、奇妙な不安を覚えた。

 もしかしたら、内面を知っているようなつもりで、実は表層的な稲瀬佐紀しか知らないのではないだろうか。

 そんな不安がつかさの胸に小さな小さな黒いシミを、つくる。


 翌朝のつかさは、昨日までの不安などどこへやら。

「おはよ、稲瀬」

「おはよう」

 すでに着席していた稲瀬佐紀に、つかさはいつもどおり、にやけそうになる顔を必死につくろって声をかけた。

 だがしかし、少し低い響きがつかさの耳をくすぐって、すぐに頬がカーッと熱くなる。

「あ、あのさっ」

 決意を固く臨んではみたものの、やはり声が裏返って心が折れそうだった。そんなときは絶妙のタイミングで美羽のフォローが入るのは、すでに恒例となっていた。

「おはよう稲瀬君、今日は球技大会の練習、出れそう?」

 つかさの前の席に座る美羽がくるりと振り向いて、稲瀬佐紀にふわっと笑いかける。学年一可愛いと評判の笑顔が、クラス一地味な男子生徒に向けられた。

「今日は、ちょっと……」

 対する稲瀬佐紀は安定の無表情。

「きょっ、今日も剣道?」

「――の、お稽古の日?」美羽の通訳はカンペキだ。

「まあ……」

 つかさと美羽の追求をこの一言で片付けて、ごめんとそれだけつぶやいた。

「そっかぁ、じゃあ仕方ないか……」

 とてもわかりやすくガックリ肩を落として、つかさはぐずぐず机に崩れ落ちた。

 十月末日に行われる球技大会に向けて、つかさのクラス――1年2組もふくめて、それぞれのクラスは一丸となって練習にはげんでいたけれど、稲瀬佐紀が参加したことはまだ一度もなかった。


――球技大会、優勝したいとかじゃなくて、稲瀬といっしょに練習したいだけなんだけどな。


「おーし、朝のホームルームはじめるぞー」

 担任の西村先生の登場が、つかさの杞憂を一時的にかき消した。

 予鈴が鳴る――。



「アイ、お昼いっしょに食べよ」

「え? 火曜日はジミー……あ、ごめん、稲瀬と食べる日じゃん?」

 慌てて訂正したアイが、不思議そうにつかさと美羽を交互に見る。席を寄せていたマリナとリカも、きょとんと顔を見合わせた。

「お弁当食べたらバレーの練習付き合ってほしいの! 稲瀬には言ってあるし」

「みうはバレー出ないけど、つきそい」

 バレー部のアイはなるほどと合点したらしく、ウキウキしながら「まかせて」と二つ返事をした。

 高校に入学してから、もともとアイやマリナ、リカと常に行動をしていたつかさと美羽。けれど現在は一日おきにグループを離れて、教室の隅で静かに過ごす男子と(なかば強引に)昼食をとっていた。

 一部の生徒から、陰では地味男ジミーと呼ばれている稲瀬佐紀。


 だがつかさは知らない。

 実は稲瀬佐紀がひとりで弁当箱を広げている月、水、金曜日のほうが、とても心穏やかにはしを運んでいるということを――。



「うへぇ、やっぱアイと練習するとめっちゃ疲れる」

 五時間目の授業の本鈴が鳴って、机に上半身を投げだしたつかさが誰にともなくうめいた。セーラー服が汗でべったり背中に張りついている。いつも着用しているセーターはさすがに暑いので椅子へひっかけた。

「起立、礼」

 学級委員の号令で教室に先生が来ていたことを知ったけれど、つかさは立ち上がらずにこっそり身を潜め、気配を殺す。


――何の教科だっけ。


「着席」

 何気なく隣の席に目を向けると、驚くべきことに、稲瀬佐紀とぱちっと目が合ったではないか。

 眼鏡の奥の、赤味がかった目がつかさをじっと射る。

 それは恋する乙女が思うような甘酸っぱい視線ではなく、むしろ非難の色が強かった。だが、当然そんな色を理解することなく、つかさは心の中で黄色い絶叫をあげて悶絶もんぜつする。


――目が! 稲瀬と目がぁ!


「みんな、球技大会が近いけど、勉強おろそかにすると抜き打ちテストで泣きをみるからね」

 爽やかな声と、女子たちの1オクターブ高い返事で、五時間が歴史であるとすぐに判明した。

 青陵高校で唯一のイケメン教師、和泉(いずみ)先生は男女問わず人気の先生である。三十代半ばとは思えぬ甘いルックスに、ほとんどの女子が熱い視線を向けるのだ。

 おかげで授業はどの教科よりも円滑だった。

 教室に教科書をめくる音があちらこちらに響いた。

「ね」

 声をひそめて、つかさはふと稲瀬佐紀に呼びかける。

「稲瀬、その……球技大会の種目、なに出るっけ?」

 ちらりと向いた明るい目に、またもや黄色い叫び声をあげた。むろん、心の中で。

「……卓球、とドッジボール」

「たっ、た、卓球得意なの?」

「ふつうだけど……」

 和泉先生の目を盗んでひそひそ話し合うことに心臓がバクバク脈打っているのか、それとも恋い焦がれる相手と二人きりで話し合っていることに胸が高鳴っているのか。

 答えはつかさ自身がよく判っていた。

「稲瀬って、ほら、えーと、剣道やってるっていってたし、運動苦手じゃなかったら、バスケとか、その、出たらいいのに」

 あたしもバスケ出るし……と、もごもご付け加えて、ぷいと視線をそらす。

 もちろん出場者は決定しているから、いまさら変更できないことは承知の上だった。

「だってさ、卓球って、あまりものじゃん?」

「べつに、なんでもよかったから……」

 すこし小さくなった稲瀬佐紀の声に、つかさは奇妙な違和感を覚えた。前にもその言葉を聞いたことがあったからだ。

 奇妙に感じたまま、ふたたび隣の席を盗み見る。

 稲瀬佐紀の無表情は、いつにも増して無表情で、どこか遠くを見つめていた。



「すごいじゃん、つかさ!」

 大きな目をさらに大きく見開いて、美羽はキラキラと乙女のオーラを放っている。たくさんのハートが彼女から出ているように見えるのは、つかさだけではないはずだ。教室にいるほとんどの男子たちがチラチラとふり返る。

「稲瀬君としゃべれるようになってきたね! すごい、すごーい!」

「でも面と向かってだと、まだ心臓バクバクするよ……」

「好きになった頃はまともにしゃべれなかったし、進歩したよ!」

 うれしさで興奮した美羽が、がばっとつかさに抱きついた。

 バニラの甘い香りと、彼女のやわらかな肌に触れれば、たとえ同性であっても思わずドキリとさせられる。

「ありがと、美羽のおかげだよ!」

 そのままぎゅっと抱きしめ返すと、男子たちがうわずった声でどよめいた。

 帰りのホームルーム直後の教室は、なにやらふだん以上にざわめいてる。

「あのさ、あたし今日ドッジの練習サボっていいかな」

「がんばって誘うなら、見逃してあげる」

 美羽がにっこり笑って言った。

 たったそれだけで、ふたりには十分伝わる会話だった。

 美羽の応援を背中に受けて、つかさは教室を飛び出した。

 すぐに帰ってしまった稲瀬佐紀を急いで追う。


「稲瀬!」

 廊下でくるりと向いた赤い視線に、つかさの鼓動がどんどん早くなる。緊張で二の句が継げなくなる前に、口を開いた。

「あ、あのね! 今日、剣道の稽古の前、もし時間あったら、その、買い物……つきあってほしいん……だけど……」

 徹頭徹尾とはいかなかった。

 最後は尻すぼみになって、稲瀬佐紀まで届いたかたいへん疑問である。


――ああ、もう、なんでうまく言えないんだろ。


 後悔とも羞恥とも知れない感情がつかさを無言にさせてしまった。そんなつかさを、稲瀬佐紀はじっと見つめて、一言。

「いいよ」

「えっ」

 ぱっと顔を上げた先に、いつもの無表情とは違う、すこし人間味のある表情があった。まるでつかさの勇気をくむような――。

「ほんと? いいの?」

「うん」

 胸がドキドキ弾む。

 なんだか急にまわりが明るく感じられた。

「やった! ありがと!」

 素直な気持ちが、つかさをがんじがらめにしていた緊張の太い糸をほどいていた。笑顔がこぼれる。

 完全に気持ちがゆるんだつかさは、そこで稲瀬佐紀がぱっと顔を背けた理由を理解できずに、目をぱちくりさせた。


――あたし、なんか変だったかな?



 青陵高校前のバス停から駅前バスターミナルに降り立つまで、すし詰め状態の車内では稲瀬佐紀と会話をするどころではなかった。それに、稲瀬佐紀の胸に堂々と抱きつくことができたというのに、まったくもってうれしくないのは、つかさ自身も誰かに密着されているせいもあるのだろう。ドキドキしようにも、あまりにも密度が高すぎるのだ。

「……やっぱ、バスはつらいな……」

 ハーハ―息を切らしながら、乱れたショートカットの髪を整え、やっとこの一言を絞り出した。


 駅の裏通りに面した荒木スポーツ店は、つかさが小学生のころから世話になっているなじみの店。少し古ぼけた看板が地元の店感をこれでもかとかもし出している。

「ホントは新しいバッシュがほしいんだけど、さすがにバスケはやめちゃったから……キャー、見て見て稲瀬! これかっこいー」

 棚に陳列してある新作モデルを見つけて、鼻息が荒くなった。

「どうして高校ではバスケ部に入らなかったの?」

「えっ? うーん……バスケは好きだけど、高校生活ぜんぶ部活ってのはね……。いろいろ他にやってみたかったし」

「そう」

「だって、一度きりの高校生活じゃん?」

 くるっと振り向いて稲瀬佐紀と向き合ったとき、彼の表情はいつもの無表情ではなかった。それはおそらく、彼に関心のないまま生活を送っていれば気づかなかっただろう、ひじょうに細微な変化。


――どうしてそんな、悲しそうな顔をするの……?


 それは、何かに耐えるような、堪えるような、それでいて、とても悲しそうな。

 稲瀬佐紀が目を伏せた一瞬に、つかさの胸にさざ波がたった。

 だが、まばたきをする間に、何事もなかったかのような無表情がまたもや張り付いている。


――あたし、稲瀬のこと……なにも知らないんだ。

「佐伯さん」

 ぼんやりしていたつかさの心臓をめがけて、鋭く矢が突き刺さる。いや、それは単に稲瀬佐紀がつかさを呼んだにすぎなかったのだけれど、威力は絶大だった。

「ひゃいっ」

 声も裏返るくらいに。

「店長さんがまだ店に出してない限定モデルも見る? って言ってるけど」

「えっ、見る! 見たい見たい!」

 それはもう期待の眼差しを店のカウンターに向けると、そこにぽつねんと佇立するおじいちゃんは、ほとんどない歯でにやりと不敵に笑い返してきた。それから足元の段ボールから梱包された商品をカウンターに並べる。

「ちゅかしゃちゃん、元エヌビーエーのたぶしぇがデジャインしたシャチュと、リシュトバンドだよ」

「マジで! やばい、黒のリストバンドかっこいい! 欲しいなぁ、欲しいなぁ」

新作しんしゃくだからまけてあげられないよ」

 店長がけん制のためか、機先を制してそういった。

 つかさの眉のあたりがくもる。

「シャツは約七千円かぁ……リストバンドもだいだい四千円……高い」

 限定モデルの敷居の高さに、つかさの肩が落ちた。週四回のバイトをしているとはいえ、これはやはり自殺行為に思える。

「店長、今回はやめとくわ」

「しょうかい、しょりゃぁ残念じゃんねん――」

 互いにしょんぼりして、店長がおもむろに商品を段ボールに戻しかけたとき。

「こっちでいい?」

 稲瀬佐紀がさりげなく、それでいて有無を言わせぬ語調でそう問いかけてきた。

 手にはつかさの尊敬する元NBAの多伏たぶせ選手がデザインした、黒のリストバンド――。

「えっ?」

「ははぁー、おにいしゃんやるねぇ、まいどあり」

 老人とは思えない素早さで稲瀬佐紀の手から商品を奪い取り、バーコードをスキャン。まさに神業ともいえる速さで、気が付けば商品は紙袋の中に納まっていた。

 つかさが目をパチパチさせている間に、会計までもが終わっていた。

「ちゅかしゃちゃんのカレシ、いい男だねぇ」

 ふたたび店長が不敵に笑って、そこでやっとつかさの思考が動き出した。急激に体温が上昇する。頬から火が噴き出したようだった。

「ちょっ! ちがっ……! い、い、稲瀬はそっ、そんなんじゃ……!」

「わはは、まいどありー」

 紙の手さげ袋をぐいと押しつけられて、つかさは先に店を出た稲瀬の後を追った。

 絶対にまだ顔が赤いはずだ。湯気どころではない。絶対に顔面から出火している。

 ガラス戸を押し開けると、稲瀬佐紀がつかさを待ってくれていた。

「あげる」

 そう言った稲瀬佐紀が、ふっと目を細めた。それはまさに目元を和らげる、という表現がぴったりではないか。

 いつもの無表情だろうと侮っていたわけではなかったけれど、まさかの不意打ちに顔だけではなくて、心臓からも火が噴き出た。

「……あっ、あの、ありがとう」


 ――ああ、もう何も考えられない。鼻血が出ちゃいそう。


「どういたしまして」

「あの、さ、すぐそばに公園あるんだけど、寄っていっていい?」

 もう少し一緒にいたいとは言えそうにもない。だからありったけの勇気をふりしぼってそう切り返した。

「まだ時間だいじょうぶ……?」

 ちらりと稲瀬佐紀の様子をうかがう。きっと美羽ならここで効果的な上目遣いができるのだろう――。

「……うん」

 たったの一言だというのに、つかさを舞い上がらせるには十分すぎる威力を持っていた。それも、「本当は今日、稽古がない日だから」というい稲瀬佐紀が小声で吐いた事実さえ、耳に届かないほどに。


 ぎくしゃくしながら荒木スポーツ店の通りをさらにのぼり、左に折れてすぐ目的地が見えた。なじみの場所に、つかさの緊張が一気に吹き飛んで、ふだんどおりの自分に早変わりしている。

「ここ、ストバスができるの! 小学校の時からずっと使ってるんだ」

 金網で囲われた、屋外の小さなストリートバスケット用スペース。いつも夕方にはゴール前に群がっているはずの小学生や中学生の姿がどこにもいない。

「ラッキー! しかもボールはっけーん!」

 金網の戸を押し開けてつかさがコートに入ると、稲瀬佐紀もあとから続いた。

 誰かが忘れていったボールを拾い上げれば、久々の感触につかさの胸が躍った。

「球技大会、楽しみだなぁ」

 ニヤニヤしながら人さし指でボールを回す。

 そうしてドリブルで駆け出すと、そのままゴールネットに向けて放物線を描いた。

 ボールはネットに触れていないかのように、音もなくリングをくぐり抜ける。

「よっしゃあ!」

「すごい」

「わっはっはー、さすがに現役ほどではないけどね。球技大会は優勝するんだ!」

「……佐伯さんならできるね」

 くすっと笑った稲瀬佐紀を目撃したつかさの脳内で、何かがパーンとはじけ飛ぶ音がした。


 ――なに、いまの。


 顔から火が出るどころか、心臓は冷静に鼓動を打っている。

 ただし、明らかな不整脈だ。


 ――くすって。くすって笑ったのはどういうこと。


 ぼう然と立ち尽くして、回収したはずのボールをポロッと落とした事にも、つかさは気づいていていない。

 真顔で、稲瀬佐紀を見るでもなく見つめる。


 ――あんなふうに笑うのいままでで見たことないし。あ、もしかして稲瀬はあたしが見えてなかったのかな? 空気? あたしって、いてもいなくても差し支えない、空気的なカンジ?


 あらぬほうへ向かう感情は、もはやつかさがコントロールできるものではなくなっていた。

 ちなみに脳は完全にショートしている。

 どこか遠くを見つめるつかさに、稲瀬佐紀は怪訝な表情を浮かべてボールを拾った。

「佐伯さん、大丈夫……?」


 つかさがはっとわれに返ったときだった。

「あれーっ、もしかして、稲瀬じゃねぇの?」

 聞き慣れない男子の声と、稲瀬佐紀を「稲瀬」と呼ぶ言葉に、つかさの耳が反応した。それと同時に、稲瀬佐紀の表情がさっと硬くなるのが、見てとれた。

「あー、マジだ」

「つーか中学卒業して以来じゃん、青陵せいりょうに行ったんだ?」

 公立高校では進学校で有名な、潮桜ちょうおう高校のブレザーを着た四人の男子生徒は、見るからに稲瀬佐紀と正反対の雰囲気である。しかも進学校だというのに、四人の髪色は少し明るいうえに、制服もだらしなく着崩している。

 会話からして友人というよりも、元クラスメイトといったほうが正しいだろう。

 稲瀬佐紀の表情は曇ったままだ。

「へぇー隣のコかわいー、美人じゃん」

「稲瀬のカノジョ? つーか釣りあわなくねぇ?」

「バッカ、こんな地味で根暗のやつのカノジョなわけねーだろ」

「だよなー、地味男ジミーなんだから、マジ身のほどわきまえろって!」

 四人が一斉にに哄笑をあげた。

 つかさの知らない他校生だからよけいに神経が逆なでされるのだろうか。

 先程の揚々とした気分は、もはや彼方に飛んでいった。

「ちょっと、あんたら――」

 つかさが噛みつこうとした、まさにそのとき、「佐伯さん」のたった一言が、言葉を飲み込ませた。

 ふり向いた先に、稲瀬佐紀の無感情な明るい目があった。

「稲瀬……」

 稲瀬佐紀が四人に軽く頭を下げて、脇をすり抜けてゆく。その背中にはなんの感情も読み取れない。

 つかさはただ、稲瀬佐紀の背中を追った。


「んだよ、感じわる!」

「せっかく声かけてやったのによ」

「いいって、ほっとこうぜ」

「ま、ジミーは俺らの名前も覚えてないんじゃねーの?」


 背後から突き刺さる悲しい言葉の矢を必死に払いながら。


 バス停で稲瀬佐紀と別れるまでの無言が、つかさにとってなによりも辛くて苦しくて、痛いのに、かける言葉がどうしても見つからなかった。



 翌日、空は薄く雨雲が広がって、しとしと降り続ける雨が肌に触れると、身震いするほどだ。

 雨は、キライ。

 もやもやする気持ちを加速させるから。


 つかさは一時間目の歴史が終わってすぐに、教室を出た山田を追いかけた。

 男子トイレからぷらぷら手をふって出てきた山田にずいとつめ寄り、声を低くする。

「山田、聞きたいことあるんだけど」

「うわあ、びっくりした……! 佐伯、トイレの前で張り込むなよ……」

「それよりも、ちょっといい?」

 あごをくいっとしゃくって階段まで来い、と無言のプレッシャーをかける。それを見て、山田の表情がこわばったけれど、つかさの知ったことではない。

 三階の踊り場におとなしくついてきた山田と向き合うつかさ。

 そして口火を切った。

「山田って、小中、稲瀬と同じ学校だったでしょ? どんな感じだったか教えてほしいの」

「自分で聞けばいいだろ、仲いいんだから」

「え、そ、そういうふうに、見える?」

 つい、にやけそうになる自分をなんとか抑え込んで、こほんとせき払いをしてから仕切り直し。

「稲瀬は自分のこと、話したがらないし、山田しか頼めるやつがいないの、ねっ、お願い!」

 顔の前でぱしんと両手を合わせて食い下がる。

 どうしても稲瀬佐紀の他人を寄せつけない、感情を一切合財排除した理由を知りたかった。いや、そのヒントだけでも知りたかったのだ。

「……わかったよ、あんま詳しくはないけど」

 しぶしぶといった表情で、山田は野球部ばりのボウズ頭を掻いてうなずいた。

「二時間目までそんな時間ないし、話せても、ちょっとだけだけど」

「わかってるよ」

 それならいいけど、と言って、山田は踊り場の手すりに少し体重を預けた。

「まあ、中学は今と同じ感じだったかな。俺はクラスも違ったから、あんましゃべんなかったけど」

「そう……」

 何を期待していたんだろう。

 そりゃそうか、とつかさが自分に言い聞かせたその直後に、「でも」と山田が続ける。

「佐伯はちょっと信じられないかもしれないけど、たしか、小五くらいまでは稲瀬って――」



「――この『時雨しぐれ』というタイトルは、ちょうど今日みたいな雨のことをいうわけだ。もちろん、小説の内容はこの雨になぞらえているから……」

 現国の井原先生が、窓の外にちらっと目を投げてから、ふたたび黒板にチョークを走らせる。

 つかさはただ、ぼんやりと黒板だけを見ていた。

 頭の中で山田の言葉を反芻する。


『たしか、小五くらいまでは、稲瀬ってああじゃなかったんだ』


『もともとは明るかったし、クラスの真ん中にいるようなやつだったし、タイプ的には……岡野や狩野みたいな感じ』


『けど六年生あたりから全然しゃべらなくなって、仲のよかったやつらとも遊ばなくなったんだ』


 なにがあったの。

 稲瀬になにがあったの。

 岡野や狩野みたいに、クラスの真ん中にいるようなタイプ?

 ぜんぜん、想像もつかない。


 山田はイジメみたいなものはなかった、って言っていた。

 じゃあ、どうして――他人を避けるの。



「カラッと晴れた空から突然降る雨を、何というかわかる人」

 誰も手を挙げないのか、井原先生はうーんと呻いてから、

「稲瀬、わかるか?」

 そうたずねた。

 おそらくそれは、生徒のほとんどが下を向いていたなかで、稲瀬佐紀がいつもの無表情でひとり顔を上げていたからだろう。

「……驟雨しゅううですか」

「そう! いいね、正解だ。いきなり変化する雨のことを、驟雨という。ただ、ニュアンス的にはみんな一度くらいは聞いたことがある別名のほうが似合うかな」

 松原先生はもう一度答えてほしいのだろう、稲瀬佐紀をちらりと見やる。

「狐の嫁入り……」

「そう! とくに夏のそういった天気の変化を、狐の嫁入りというんだ。急にザァっと降って、からっと晴れたらきれいな夕焼けを拝める……よく知っているな、稲瀬」

 からりと笑う井原先生に反比例するかのような、稲瀬佐紀の無表情。

 その無表情が、しとしと降り続ける今日の天気のように思えてならない。

 いつまでも、晴れない、空模様。


 だったら同じ雨でも、あたしは驟雨が――狐の嫁入りがいいな。

 ずっと降りつづける雨より、最後は夕焼けを見せてくれるほうがいいに決まってる。


 つかさは片肘をついて手にあごを乗せたまま、窓の外でぱらぱら降る雨を、ぼんやり眺めた。




 ついに三日間にわたる球技大会の初日がやってきた。

 元NBA多伏(たぶせ)選手モデルのリストバンドを左手首にはめて、気合はじゅうぶん。なにせ、一日目はつかさが出場するバスケ女子の部が行われるのだ。

 その裏で男子卓球というのがなんとも悔やまれる。

「がんばって、つかさ! みうが卓球応援しといてあげるから!」

「しゃっ、写真お願いねっ!」

 生徒の写真撮影禁止にもかかわらず、美羽にスマートフォンを握らせた。

 第一体育館の大扉から出ていく美羽の背中を見送って、つかさは深く息を吸った。

 よりいっそう気合を込める。

 左手首に視線を落として、ぎゅっとくちびるを引き結び、戦場に一歩、踏み出した。


 ――せっかくプレゼントしてもらったんだもん、負けられない。


 生徒は三日間のタイムテーブルにそって、それぞれの競技に出場するため、違う種目を選んだつかさと美羽はゆっくり話をする時間もそれほどないのが実情だった。

 ただ、最終日のドッジボールはクラス対抗、一クラスが一丸となって総合優勝目指して戦うのだ。



「バスケは二位だったし、バレーは三位、ドッジで総合優勝する!」

 最終日の朝、ホームルームを終えてつかさはひとり体育館の外にある給水場で吠えた。まだジャージに着替えていない美羽は、あとでアイたちと来ることになっている。

 朝の空気はやはり十月とあって、少しひやりとしていた。それでも、顔を上げれば青陵高校の裏山は赤や黄色で彩られているから、心が躍った。

 『山粧よそおう』とはなんと素敵な季語だろう。

「がんばるぞ」

 そこで、誰かの話し声がふと耳についた。しかも声には聞き覚えがある。

「――わかってるって、だったら佐紀さきがしっかり護衛すりゃいいだろ」

「狩野が連れ回さなきゃいい話だ」

「だからぁ、宗谷そうやが勝手に来るんだからしかたないだろ!」

 声高に叫んだのは、同じクラスで小学校からの腐れ縁、狩野良太郎かのうりょうたろうだった。

 給水場のそばの、用具小屋の前にいたのは狩野と稲瀬佐紀。なんの話をしているかは分からなかったけれど――意外な組み合わせに、つかさは目を丸めた。

 そもそも男子の目立つほうに属する狩野と、まったくもって地味な存在の稲瀬佐紀にどういう接点があるのだろうか。

「ふたり、仲良かったの?」

 だから、尋ねずにはいられなかった。

「げっ、佐伯……!」

「げっ、てなに!」

「じゃあおれはもう行くから」

 稲瀬佐紀が流れるような身のこなしで、あっという間に体育館へと消えていった。

 なんという逃げ足の速さ。

 あとに残されたふたりは、互いに顔を見合わせるしかない。

「で、稲瀬とどういう関係?」

「ちょ……気色悪い言い方すんなよ。べつに、ふつうだよ」

 つかさのじっとりした視線に、狩野がたじろいだ。

「いつから仲良いの? 『佐紀』ってなに、あたしに許可なく稲瀬を下の名前で呼ぶとかどうゆうこと? ってゆうか、なんの話?」

「許可いんのかよ、それに、佐伯に言う必要ねーだろ」

「あるにきまってんでしょ! あたしを差し置いて、なに仲良くなってんの! うらやましいじゃん!」

 思わず本音がポロリとこぼれる。

 怒れる小猿よろしく、顔を真っ赤にしてキーキー地団太をふむつかさを見て、狩野は頭痛をこらえるように額に手をやった。

「ちょっとしゃべる程度――」

 言いさして、狩野がはっと顔をあげた。

 なぜか視線はつかさの頭を通り越した先だ。

「伏せろ!」

 突然突き飛ばされたつかさが後ろ向きにごろんと一回転する。まったく予期せぬ暴挙に、なにが起こったのか理解できないまま体を起こした。

「ちょっと! なにす――」

 言葉がつまった。

 つかさの視界に、狩野がいない。

 慌てて視線を横にふった先――用具小屋にほど近いシラカバの木の根元に、仰向けで倒れる狩野良太郎の姿があった。

 苦しそうにもがきながら首を掻きむしる友人を見て、背筋にゾッと悪寒が走る。

 目に見えない何かが首をしめつけている、とつかさは直感した。

 だが、一体なにに?

 それの正体を知る術がないことは、わかっている。でも――。


 助けないと……!


「狩野! なんなの、だいじょうぶ?」

 かたわらに膝をついて、その場から動かそうと肩に手を触れる。しかし、どういうわけかぴくりとも動かない――狩野の顔から、どんどん血の気が失せてゆく。

「……っ、佐伯……おれのことは、いい……も、行け……!」

「よくない! まってて、今、なんとかするから……!」


 どうやって?


 つかさはひとつ頭をふった。そして雑念をふり払うように、まなじりを決して狩野の首を見据える。

「この……離れろ、離れろ!」

 首をぎりぎり絞める目に見えない何かを払いのけるように、つかさは何度もこぶしを振った。

 もちろん、そこに何かの手があるのかも分からないし、はたから見ればただつかさが狩野に理不尽な暴力をふるおうとしているだけだ。だが。

 こういう非科学的な現象は初めてではない――稲瀬佐紀に会って、非科学的な存在も受け入れたいと思ってしまったのだ。

「だけど、こんなのはダメッ……!」

「さ、えき……いいから……にげ……」

「……狩野……! どうすればいいの?」

 額ににじんだ汗と、苦痛に顔をゆがめる様を黙って見ているなど、できはしない。

 友人を見捨てて逃げることなど、許されない。

 だが、どうすればよいかが、わからなかった。

「どうしよう……だれか……!」

 つかさの目じりに、じわりと涙が浮かぶ。

 このままでは狩野は死んでしまう、そういうえもしれぬ確信と恐怖がつかさを襲った。

 狩野の首に、なにか目に見えない手が食い込んでゆくのが、ありありと見てとれた。

「……っ」

 もはや声すら出ない友に猶予がないことは、明白だ。

「助けて……! だれか……お願い……」

 稲瀬佐紀の姿が脳裏に浮かび――、ぼろっと大粒の涙がこぼれ落ちた。


 そのとき、


「伏せろ」


 つかさに応じるように、たったひと言が返ってきた。


 背中にぶつかった声がだれのものかを確かめる余裕もなく、つかさは反射的に身をかがめた。その直後、肌にヒリヒリと感じるほどの熱い風切音がすぐそばで聞こえた。


 一度きりの音が止むと、あとに残ったものは静けさだけ。

 世界中の生き物が息をしていないような、静寂。


 つかさの五感が、六感が、あの目に見えない何かがいなくなったことを教える。


 すると、狩野に覆いかぶさって丸まっていたつかさの背後に、声の主の気配を感じた。

 そろりと首を動かして、地面に伸びる影を見る。

 和服――袴だ。

 影は腰の鞘にゆっくり刀を納めた。カチン、と甲高い音がひとつ、鳴った。

 尻尾が、狐の尻尾が、ついている――。

 のろのろ上体を起こして、涙でいっぱいになった目で、絶体絶命のピンチに駆けつけてくれた人物を、見た。

「稲瀬……」

 そこにはジャージ姿の、稲瀬佐紀がいた。

 もちろん、尻尾がついているわけもなく。

「いま、助けてくれたの、稲瀬……なの?」

 むろん答えがあると期待はしていない。けれど、聞かずにはいられなかった。

 その問いに、稲瀬佐紀はいつもの無表情でつかさを見つめ返している。

 眼鏡の奥の赤味がかった目は、ぴくりとも動かない。ただ、瞳の奥にゆらゆら揺れる灯火ともしびを静かに、静かに宿していた。

「稲瀬は――」

「うっ……佐伯……」

 うめき声がつかさの下から聞こえて、はっとわれに返った。

 そういえば狩野に馬乗りになっていたことを思い出して、ぎゃっと悲鳴をあげて飛びのいた。

「おまえ、重たい……」

「うっさい!」

 ばしんと狩野の頭を叩いてから、しまったと口に手をやる。

「やばっ……狩野、だいじょうぶ? ケガは……?」

「平気、べつになんともねぇよ……叩かれた頭が痛いっつーの」

 それでもやはり首をさすりながら、ケホケホむせ込む狩野が上半身を起こした。

 ただつっ立つ稲瀬佐紀に視線を投げる。

「ちょっと……ぜんそくで……呼吸苦しくなっただけだ」

狩野がよろめきながら立ち上がった。そのフラフラの状態で体育館へ向かう背中を、つかさは複雑な思いで見つめた。


 ――ぜんそくなんて、もってないくせに……。


 狩野が稲瀬佐紀とすれ違いざま、ひと言声を掛けていたことを、つかさはしらぬ顔でやり過ごす。

「助かった」

 そのひと言が、あれは間違いなくつかさの理解の範疇はんちゅうを越える、なにかが起こったことを示している。

「和泉先生、呼んどいた」

「……おう」


 狩野が立ち去ったあとも、つかさは呆然としゃがみ込んだままでいた。そこに、稲瀬佐紀が片膝をついて、わずかに眉のあたりを曇らせのぞき込んできた。

「佐伯さんは、怪我してない?」

「……う、ん」

「そう、よかった」

 ほっと息をつく稲瀬佐紀の表情は、心なしか緊張をほどいたように、少しやわらかいようにも見てとれた。いや、もしかするとそうであってほしいと願うつかさの、幻想なのかもしれない。

「髪に――」

 ふと何かに気づいて稲瀬佐紀がそう言うや、そっと伸ばした手で、つかさの髪の毛に絡んだ小さな枯葉を指でするりと取り除く。


 ああ。

 心臓も、頭の中も、なにもかもがヘンだ。

 うれしいのと、怖いのと……色々な感情がごちゃ混ぜになって、もうよくわかんない。


 つかさが立ち上がろうとしたとき、支えていた緊張の糸がぷつんと切れて、かくんと膝が折れた。それがひじょうにゆっくりだったのか、あるいは稲瀬佐紀の反応が速かったのかは、わからない。

 でも、腰にまわった稲瀬の腕の力強さだけが、はっきりと感じ取れた。

 抱きとめられて、引き寄せられる。

 そうして目の前にある稲瀬佐紀の顔が、とても近かった。


 心臓の音がうるさい。

 顔が熱い。

 ああ、このまま溶けちゃいそう。

 背中が、稲瀬が手を添える場所が、あたたかい。

 赤味がかった目を見開いて、耳まで赤くなっている目の前の男子は、本当に稲瀬なんだろうか。


「――ごめん……」

 そう言って、すぐにぷいと横を向いた稲瀬佐紀がなにを思ったのかまでは、つかさに知るすべはない。ただ、こんな表情は、つかさの知る限り、はじめてで――。


 そして稲瀬佐紀はフワフワと甘い白昼夢から覚めたように顔をこわばらせ、くちびるを軽く噛んだ――。




「残念ながら総合優勝三位という結果だが、一年生が三位ってのは、すごいことだからな、みんなよく頑張ってくれたな!」

 帰りのホームルームで、担任の西村先生が全員の顔をぐるりと見回してから、そんなねぎらいの言葉をかけてくれた。

「つーか最終日にいねぇとか、良太郎マジありえねぇし! ドッジは一人いないだけでメッチャ不利なんですけどォー」

 岡野健おかのたけるがくちびるをとがらせる。

「うっせ、しょうがないだろ、具合悪かったんだから……」

「ふだんは丈夫なくせに」

「ハイハイ、悪うございましたね」

 仲の良い二人だからこそ、悪態をつけるというものだ。

「いやあ、岡野も狩野も八面六臂はちめんろっぴの働きだったから、ぜひ勉強のほうでも活躍してほしいところだな!」

 八面六臂の意味を分かっていないであろう岡野健が、まあね、と声高にふんぞり返る。

 明るい笑い声でいっぱいの教室を、つかさはぼんやりとながめた。

 あのあと行われたドッジボールも、うわの空。

 ずっと、稲瀬佐紀のことを考えていた。

 もちろん、腐れ縁であるはずの狩野のことも、あの場で名前が出た和泉先生のことも気にならないわけではない。

 けれど、それよりも――。


 稲瀬のことが知りたい。

 もっと、もっと知りたい。


 稲瀬は一体、何なの?


 どうして、稲瀬は独りを選ぶの?



 下校時に、つかさは美羽に「ごめん」とひと言告げて、早々に教室を出ていった稲瀬佐紀の背中を追いかけた。


 何の前触れもなく突然降りだした大粒の雨に、玄関口は文句とおしゃべりの洪水が起こっていた。つかさは折りたたみ傘をパッと開いて、ビニール傘を差す後姿を追う。

 稲瀬佐紀はなぜかバス停に面している正門ではなく、まったく逆の体育館側へと向かっていた。


 どこへ行くんだろう。


 ほどなくすると、稲瀬佐紀は体育館裏の、あの現場で立ち止まった。

 そう、狩野がなにかに襲われた場所である。

 ふいに、稲瀬佐紀がくるりと踵を回した。

 どうやらつかさがあとを追ってきていることは、知っていたらしい。

「おれに、なにか用?」

「えと……うん……」

 そうはいったものの、いざ面と向かい合えば、思うように言葉が出てこなかった。

 傘を叩く雨音がけたたましい。


 がんばれ、がんばれあたし。


「佐伯さん?」

「稲瀬……!」

 決意を固く、稲瀬佐紀だけを見つめた。

「あたし、稲瀬のことが、知りたい」

 まるで言葉を習ったばかりのように、ひと言ひと言、雨に負けないように強く言う。

 唐突であることは百も承知、でも、今言わなければきっと機会はもうめぐってこない――そう、思ったのだ。

 だからこその、固い決意だった。

「知らないままでいたくないの……あたしは――」

 そこまでいいかけて、はたと口をつぐむ。

 稲瀬佐紀の目はどうしてか、ただのビー玉のように無機質だった。

「知らないほうがいい」

「どう、して……?」

「おれが、かかわりたくないと思っているから」

 告げられた言葉が、太い杭のようでつかさの胸を突き刺した。

 短い、拒絶のことばだった。

「なんで……そんな……」


 そんな寂しいこと、いうの?


「おれにはだれも必要ない。だから――」

 そう言った稲瀬佐紀の赤味がかった瞳に、つかさの姿は映っていなかった。いや、意図的に、そこからつかさを追い出したのだ。

「だから、もう、おれを知ろうとしないでほしい」

 傘に当たった雨がボツボツ鳴り響く中でも、声ははっきりとつかさの耳に届いた。

 だが、返す言葉を、つかさは知らない。

 愕然と、赤いビー玉のような目を見つめる。

 目の前が赤に染まって、稲瀬佐紀もそこに溶けてしまったように、見えなくなった。


 ほんの少しでも、近づいたと思っていた。

 ほんの少しでも心を許してくれたのだとも、思っていた。


 もしかしたら、本当にほんの少し距離が縮まって、ほんの少し心を開いていたのかもしれない。でも、稲瀬佐紀にとって、それは許されるものではなかったのだろう。

 だから、稲瀬佐紀は幾度となく悲しそうな、寂しそうな顔をするのかもしれない。


 知りたい。

 たとえ稲瀬がであっても。


 だって……――。




 その場に立ちすくんでどれくらいの時間が経っただろう。

 いつの間にか雨は止んで、からりとした空が暮色に染まっている。

 つかさの頬に流れた涙のあとは、この空のように、すっかり乾いてしまっていた。


 赤に――火色ひいろに染まる景色がこれほど残酷だと思ったことはない。

 つかさはぽつりと、稲瀬佐紀に言えなかった言葉を、ひとり吐く。



「あたしは、稲瀬のことが好きなんだよ……」



このたびは最後まで本作にお付き合いくださり、ありがとうございました。


本作「驟雨」は拙作短編「狐火」の続編にあたります。三部作構成で、今回は二部であり、次で完結する予定になっています。

ちなみに、物語の世界は「手宮町裏語」とリンクしており、どちらの物語にも主人公やなじみの人物が登場します。


現代恋愛ファンタジーではありますが、少しでも楽しんでいただけたのなら、幸甚です。


まだまだ未熟者ですが、精進してまいります。


目を通してくださったみなさまへ、心から御礼申し上げます。

そして、三部については推敲が終わり次第、投稿したいと思っております。どうぞよしなに。


ここまでお読みくださり、ありがとうございました。


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