十二月十七日 木曜日
穂村優希人はこの日も休みだった。というよりも元々休みのシフトだった。
そのせいか、岳中秋穂は少々落ち込み気味だった。
「はぁ〜……」
暇な事もあってか、秋穂はカウンターに寄りかかって深い溜め息を吐いた。
数日優希人に会っていないというだけで、彼女はやつれて見えた。
「ほら、チャンスだよ」
カウンターから少し離れたボックス席にいた浅陽が杉崎を呼んで耳打ちした。
「チャンスって何だよ」
返す杉崎も自然と小声になっていた。
「あの子の意中の人が居ない今、アピールするチャンスだってのよ」
「アピールっつったって何すりゃいいんだよ」
「そ、そんなの自分で考えなさいよ」
かく言う浅陽も何も考えずに助言をしていた。そして二人のやり取りを見ていたミシェルはそれを見抜いていた。
「アホらしいわね」
そう言ってミシェルは席から立ち上がった。
「ちょっと、帰るの?」
「少し買い足しておきたい物があるのよ」
「ここからが面白いんじゃない」
「やっぱりからかっているだけなのね」
ミシェルは呆れながら言うと、秋穂の方へ歩いていった。
「それじゃあワタシは帰るわね」
「あ、うん。また明日ね。ミシェルちゃん」
きちんと挨拶を返したものの、まだまだ沈んでいた。
「恋の病って本当に厄介なのね」
「え? なに?」
「なんでもないわ。ぼぅっとしてグラスとかお皿を割って怪我しないようにね」
それだけ言い残してミシェルは『ミラージュ』を出た。
「ホント、あの子こういう事には冷めてるよね」
出ていくミシェルの背中を見て浅陽が呟いた。
「ん?」
不意にブレザーのポケットにある携帯端末が震えた。
「兄貴から電話?」
浅陽は通話ボタンをタップした。
電車の扉が開いて優希人はホームに降りた。駅の名前は『霧ヶ浜』。久遠舘から電車で三〇分程の所にある。
いつもの休日通り久遠舘の町を歩いている時にふと目にして、その響きに心惹かれるモノでもあったのか、優希人はその衝動に任せて電車に乗り込んだ。
「久々の遠出かな」
優希人は出掛ける前にあまり遠くに行かないようにと羽衣に釘を刺された事を思い出して微笑った。
「遠くまで行くなって、小学生じゃあるまいし」
肌を切り裂くような冷たい風が磯の香りを運んできた。
「海が近いのかな」
駅舎を出ると土産物屋がちらほら見られ、旅館らしき建物も幾つか見えた。どうやら観光地らしい。
「あれ?」
ふとした声に優希人は振り向いた。
そこには、燃え盛る建物の中で立ち尽くす、前髪に赤いメッシュの入った少年が立っていた。
「えーーー?」
優希人は慌てて目を擦った。そしてもう一度見ると、炎はどこにも見当たらず、前髪に赤いメッシュの入ったーー今し方の幻視より気持ち成長したーー少年だけがそこに立っていた。
「(なんだ、今のは……?)」
「あの……?」
優希人はハッと我に返った。
「穂村さん、ですよね?」
「君は確か水薙さんの……」
「兄の誠夜です」
ふと優希人の脳裏に今しがたの幻視が蘇る。
「突然つかぬ事を訊くけど、誠夜君。昔、俺と会った事はないか?」
「え……?」
誠夜は一歩後退った。
「誠夜君?」
「穂村さん、まさか……」
彼の少し引き攣ったような表情を見て、優希人は自分の言動を振り返ってハッとした。
「誤解の無いように言っておくけど、俺はいたってノーマルだよ。君は俺の事をそういう風に見てたのか?」
「いえ、本当に突然だったので。ええ。会った事はあると思いますよ。『ミラージュ』に行ったこともありますしその時じゃないですか?」
「いや、もっと別の場所で。たとえば……燃え盛る建物の中でとか」
「燃え盛る……!?」
星夜は何か覚えがあるようだった。しかし、
「……いえ。〝あの時〟、〝あの場所〟にはあなたはいなかった」
「〝あの時〟? 〝あの場所〟……?」
優希人が訊くと誠夜は少し辛そうに苦笑いした。
「……いや、すまない。何か勘違いをしてたのかもしれない」
「いいえ。にしてもこんな所に何の用ですか? もしかして観光ですか?」
「いや、ちょっとふらっとやってきただけだよ。君の方こそここへはどうして?」
「ちょっと実家に用がありまして」
「実家? 水薙の本家はこの近くにあるのか?」
誠夜の眉がピクリと動いた。
「ええ、そうですけど。でもよく本家と分かりましたね」
「いや、だって君の妹は次期当主候補だとか聞いたからそうなのかなと」
「確かにそうですけど、よく知ってますね」
「君の妹から聞いた。……気がする」
「気がする?」
誠夜の目が少し鋭くなった。
優希人と誠夜は特に親しい間柄ではない。『ミラージュ』でよく顔を合わせる浅陽やミシェル達だってそう大して変わらない。
だが彼等が当然のように(彼等からすれば当然なのだが)、他人を見る目で見てくることに、何故か優希人は寒気を覚える事が時折あった。
「あ、ごめん。引き留めちゃったかな」
「いえ。大した用じゃないからいいんですけど」
「それじゃあ俺はこれで……」
「あ……」
そんな誠夜の視線に耐え切れず、優希人は彼から逃げるようにまた駅の中へと戻っていった。
携帯端末から聞こえてきた誠夜の言葉に浅陽は首を傾げた。
「穂村さんが実家の近くを? それがどうかした?」
『ああ。別に観光というわけでもないようだが。一応気にしておけ』
浅陽は一瞬耳を疑った。
「気にする? なにを?」
『あの人、〝何か〟隠している』
「隠してるって何をよ?」
『お前、あの人に自分が次期当主候補だとか話したことあるか?』
「どうだろ……。お店じゃそんな事話したことない気もするけど。それがどうかした?」
『それだけじゃない。炎の中で会わなかったかとか訊かれた』
「炎の、中で……」
誠夜と同じように浅陽も二年前の事を思い浮かべた。
『ひょっとしたら、〝俺達〟の敵かもしれないってことだ』
「敵? 穂村さんが?」
浅陽は『風崎 美由紀』の事を思い浮かべた。彼女ははじめ人の好いただの【念晶者】かと思っていたが、その正体は浅陽達の敵である黒仮面だった。
しかし浅陽はそれを否定するように首を横に振った。
「ありえない。……ありえないけど、分かったよ、兄貴」
通話を終えた浅陽は気分がズンと落ち込んでいくのを感じていた。
親友の想い人が、いつも世話になってる人が、自分の前に立ちはだかる所を浅陽は想像したくなかった。
優希人は久遠舘へと帰ってきた。
「えーーー?!」
だが突然、生活している見知った場所の筈なのに、何故かまったく知らない土地へやって来たような錯覚に陥った。
駅名を確認してみるが、『久遠舘』に間違いはなかった。
その時不意に、激しい耳鳴りが優希人を襲った。
「ぐぅーーーッ!?」
その猛烈さに、意味が無いにも拘らず頭を抱え込むようにして優希人は耳を塞いだ。やがてそれは激烈さを増すと共に頭痛を伴い、目から入ってくるすべての〝光〟がそれを刺激するのでとても目を開けたままではいられなかった。
それが頭が割れんばかりになったと思った途端、ぴたりと止んだ。
そして次に訪れたのは、また耳が痛くなりそうな程の静寂だった。
優希人は恐る恐る目を開けた。
「ーーーッ!?」
優希人の目の前に広がっていたのは、まるで真夜中のように灯り一つない町だった。頭上にはスーパームーンも比べ物にならない程大きく血のように真っ赤な月が浮かんでいた。
「なんだこれ?! 夢? 幻?」
まるで人の気配が感じられない町に優希人は混乱をきたしていた。
と、その背後で足音のような音がした。だが今の彼にそれを判断するような余裕はなかった。
「誰かいるのか……?」
突然の大きな音にビックリする猫のように、優希人は後ろを振り向いた。そこには全身真っ黒な等身大の人形があった。その人形がゆっくりと動きながら優希人へと近づいている。
「ーーーッ?!」
優希人はその場から逃げ出した。
ーーーあれはマズいモノだ。
そう彼の直感が告げる。
何がどうマズいのかは〝今の彼〟には説明出来なかった。だが、黒い人形ーーー〝黒晶人形〟という名称を彼は知らないーーーは、その姿を目にしただけで優希人の背筋を凍らせるのに十分な妖気を放っていた。
ーーー……逃げるな。
「え?」
誰かにそう言われた気がして優希人は立ち止まった。辺りを見回すが彼以外には追い掛けてくる黒い人形しか見当たらない。幻聴だと思い優希人はまた駆け出そうと黒い人形に背を向けた。その時、
ーーー……立ち向かえ。
また聞こえてきた。幻聴ではない。
優希人はまた振り返る。もしアレが声を掛けるなら〝待て〟だろう。もしくは〝逃げても無駄だ〟だ。
それに今度は〝立ち向かえ〟だった。
それは優希人にとって耳の痛い言葉だった。彼にはきちんと正面から向き合わなければならない現実が存在した。
「くッーーー!」
優希人は駆け出すのを止め、改めて黒い人形へと向き直った。
「(アレが立ち向かわなければならないモノならそうしたい。でもどうやって……)」
『ならば手にするといい。現実と、運命と立ち向かう〝力〟をーーー』
「運命と、立ち向かう……?」
ふと優希人の首から下げているペンダントが、まるで重力から解き放たれたかのように彼の目の前に浮かび上がり淡く輝きだした。
目を覚ました時から持っていた【羽根のペンダント】。それは彼の〝唯一の私物〟だった。
優希人は降ってきた雪を掌で受け取るようにそっと両手を差し出した。
「これは……」
そして優希人が疑問に思う間もなく、淡く光る【羽根のペンダント】はその手に吸い込まれるように消えた。そして、
「…………ーーーッ!?」
瞬間、ペンダントの消えた掌から電流でも流し込まれたかのような衝撃が優希人の全身を駆け巡った。
「ーーーーーー……ッ!!」
心臓から送り出され全身を巡る血液のように〝力〟の奔流が身体中を駆け巡る。それと共に優希人の脳裏に幾つかの場面がよぎる。
兄のように信頼の置ける誰かと剣術の稽古をしていた。
赤髪の双子の姉妹と団欒していた。
あの空から降ってきた少女と肩を並べて歩いていた。
それらは知らない筈なのに、懐かしさが彼の奥底から込み上げてきた。
次の瞬間、〝力〟の奔流は優希人の背中の上の方、右の肩甲骨の辺りに集中してきた。そして、
「ーーーッ!?」
輝きと共に優希人の背中に、右の片側だけ翼が顕現した。
「えーーー?」
そして優希人の脳裏に一つのイメージが浮かんだ。
「翼を……引き抜くのか?」
『お前の背中から物理的に生えているモノではない。だから心配はいらない。それに……』
「それに……?」
優希人はいつの間にか謎の声を不審に思わなくなっていた。むしろ不思議なくらい安心感があった。
『お前はいつもそうやっていた』
「俺が、いつも……」
その一言で優希人は心を決めた。
〝そう〟すれば失くしたものを、二年前より前の記憶を取り戻せるのならと、優希人は光の翼を掴んだ。
二年前。今の優希人の一番古い記憶は、天原羽衣の安心した顔だった。
「よかった。優希人くん、どこか痛いとこない?」
そう訊かれた優希人はベッドの上で手足を動かして確かめた。痛みは無かった。しかし、
「頭が少し……。それと」
優希人は羽衣の顔を見た。どこかで見た事があるような美しい顔をしていた。
「それと、なに?」
「ゆきと、というのは俺の名前、ですか?」
「え?」
羽衣の表情が凍りついた。
「まさか、記憶が……?」
「記憶……?」
優希人は思い巡らす。だが一瞬で終わった。
「思い……出せない……」
途端に恐怖が沸き起こり、優希人は胸の奥底から来る震えを抑えるように両腕を抱えた。
そんな優希人を羽衣は優しく抱き締めた。優希人をふわりとしたいい香りが包んだ。
「大丈夫。私がいるから」
羽衣は優しく優希人に微笑んだ。
「あなたは、……誰ですか?」
「……私は天原羽衣。あなたのお母さんの妹よ」
羽衣は寂しそうな表情をして言った。
「母さんの、妹……」
いくら思い出そうとしても思い出せない事に優希人は申し訳ない気持ちで一杯になった。
「きっと記憶は戻るから。少しずつ頑張ればいいわ。だから今はゆっくり休んで」
優希人は不思議と彼女の言葉通りに、心が落ち着いていくのを感じた。
「うぉぉぉぉぉぉぉォォォォッ!!」
優希人は右手で光の翼を掴むと思い切り引き抜いた。翼から光の飛沫が散った。
思ったよりもすんなり抜けて少し拍子抜けしたが、その手の中を見て優希人は驚いた。光の翼を手にしていた筈なのに、それはいつの間にか一振りの刀に変わっていた。
「これは……!?」
純白の柄に鍔、そして輝く白金の刃。妙に手にしっくりくる感触に優希人は戸惑いを感じていた。
「でもこんな物扱ったことなんて……」
『そんな事まで忘れてしまったのか。世話の焼ける』
不意に優希人の左手が勝手に動き、右手で持った純白の柄を支えるように握った。
『少しお前の身体を借りるぞ』
優希人の意識を無視して、白金の剣を携え、金色の瞳となった優希人(?)は〝黒晶人形〟目掛けて駆け出した。
ミシェル・J・リンクスの対応は早かった。
町に人気が無くなり、辺りが急に夜のように暗くなると、頭の左後ろのお団子から簪を抜いた。簪は瞬く間に等身大の杖となり彼女の身は戦闘時の装束であるマント〈ポーラー・ナイト〉に包まれ臨戦態勢が整った。
「この空間。あの時のーーー」
半月程前、ミシェルは同じような現象に遭遇し、そこで闘いを繰り広げた。
「戦いの気配が遠い。狙いはワタシではない? あの子……でもない。一体誰が?」
そして〝黒晶人形〟の妖気が集まる場所へ急行し、そこで見た物はーーー
優希人(?)が〝黒晶人形〟を斬り伏せると、次から次へと新しい〝黒晶人形〟が物陰から現れた。
「キリがないな」
謎の声が優希人の口を使って言った。
「(すごい……。武道としての剣術じゃなく、実戦的な剣だ。一体何者なんだ……?)」
「このくらいお前にも出来るはずだ」
「(俺にも……? そんなバカな)」
そう思いつつも優希人は不思議な気分だった。
確かに彼(?)の剣捌きは尋常ではない。優希人自身も言ったように実戦的な剣術である。にも拘らず、優希人はそれほど驚いてはいなかった。
彼(?)が優希人の身体を使って動いているのだが、どういうわけか優希人自身の身体が知っているような錯覚を起こしていた。
「数が増えてきたな」
気づくと周りには見渡す限り〝黒晶人形〟が溢れかえっていた。
「本来の〝力〟を使えれば造作もないが、このままでは…………ん?」
優希人(?)が見上げる。
すると空に星のように輝く光が優希人の視界にも映った。
「(星、じゃない……?)」
現実の空間かどうか怪しいこの場所で、星が瞬くのだろうかと優希人が疑問に思った次の瞬間、疑問は瞬時にして解消された。
空に浮かんだ光は、鋭い氷の刃となって降り注ぎ、〝黒晶人形〟達を悉く貫いた。
そして、上空からまるで空中を滑り降りてくるように、杖に横乗りに腰を掛けた銀髪の魔術師が優希人の前に現れた。
「これはどういうことかしら?」
冷気を放ちながら、その冷気よりも冷たい視線でミシェルは優希人を見下ろした。
普段見た事もないミシェルの目に、優希人は背筋が本当に凍りついてしまったかのように感じていた。
「〝白銀の魔女〟か」
彼(?)が優希人の口で言った。
「〝魔女〟? 〝白銀の魔術師〟と呼ばれる事はあるけれど」
「なるほど。こちらではそうなのか」
「……アナタ、ユキトではないわね」
「そうだな。私は優希人ではない。今は訳あって居候させてもらっている」
「居候? 取り憑いているのではなくて?」
「そうだ。ただ間借りしているだけだ」
二人は数秒見つめ(睨み?)合う。
やがてミシェルの方が深く溜め息を吐いて地上に降り立った。優希人から感じる気配が邪なモノではなく、むしろ神聖さに満ちていた事に動揺したが、表情に出てしまわないように必死に抑えていた。
「ユキトに変わってもらえるかしら」
「変わってどうする?」
「アイツらももう出てこないようだし、色々訊きたいのよ」
「無駄だと思うがな」
優希人(?)が目を瞑る。
光が優希人の身体を包み、すぐに弾け散った。
直後優希人の目が開いた。その瞳はミシェルの知っている山吹色をしていた。
「ユキト、かしら?」
「ああ、うん……」
ミシェルから見た優希人の表情は、マズイ物を見られたというよりも戸惑いの方が強いように感じられた。
「単刀直入に訊くわ。……アナタは何者なの?」
「何者、か。それは俺が一番知りたい」
「ふざけているのかしら」
しかし怯むことなくミシェルを見る優希人の目には嘘を言っている様子は微塵も無かった。
「質問を変えましょう。アナタはワタシの敵? それとも味方?」
「味方、……のつもりだ」
「さっきから要領を得ない答えばかりのようだけど、ワタシの〝力〟を侮っているのかしら?」
「そんなつもりは無い。さっきも言ったけど、俺が誰だとか、誰の味方だとかは分からないし、俺の方が知りたいくらいだ」
優希人の様子から、ミシェルは一つの可能性へと辿り着いた。
「アナタもしかして記憶が……?」
優希人はおずおずと頷いた。
「……俺は二年前以前の記憶が無いんだ」
「記憶喪失……。なるほど、じゃあその剣の事も、もう一人のアナタの事も……?」
「……分からないんだ」
「そう。では今日の事はワタシの胸の内にしまっておくことにするわ」
「もしかしたら君の敵なのかもしれないのにか?」
「そうね……」
ミシェルは不敵に微笑った。
「アナタの作る料理はどれもとても美味しいわ。毎度の食事が楽しみに思えるくらい」
「は?」
「だから、アナタが敵でない事を祈っているわ」
結界空間が崩れていく中、ミシェルは優希人に背中を向けて、その場から去っていった。




