十二月二十二日 火曜日①
「お待たせしました。ロイヤルミルクティーになります」
男性店員はテーブルの上に湯気の立つロイヤルミルクティーを置いた。
「ありがとう」
そう言って客の女性は微笑みかけた。
「(綺麗な女性だな……)」
艶やかな黒髪に妖艶な紅い瞳を持ち、造型されたような整った顔が日本人離れしていた。
「貴方、スギサキさんとおっしゃるの?」
「え? あ、は、はい。そうですけど……」
見惚れていた事に気づかれないように平静を装おうとした杉崎哲哉だったが、どもってしまった為に無駄となった。
「貴方、誰かに恋してるでしょ?」
杉崎はドキッとした。しかし、それに応じる義理は感じられなかったので、失礼しますとその場から立ち去ろうとした。
「その恋、叶えて差し上げましょうか?」
普通なら見ず知らずの人間にそんな事を言われても真に受けたりはしないだろう。
だがその女性の言葉には、そうしてもらいたくなるような響きがあった。
杉崎は立ち去ろうにも、まるでそこに根を生やしたように足を上げる事が出来なかった。
「うふふ……。いい子ね」
女性の紅い瞳が妖しく光る。すると杉崎哲哉は意識はあるものの、思考がボンヤリとしてきた。その彼の目の前で恐ろしい出来事が起きた。
女性の真っ黒な髪が急激に伸び始め、辺りに拡がっていく。
「え? え?」
事態が飲み込めない杉崎。だが、その間にも闇のような黒髪が、まるで真夜中の真っ黒な津波のように世界を侵食していく。
「杉崎……くん……」
ふと呼ぶ声に杉崎は振り返った。すると、
「岳……中?」
岳中秋穂が真っ黒な波に飲み込まれそうになっていた。杉崎は彼女を助けようと手を伸ばす。だが足がその場に縫い付けられているかのように動かせなかった。
「岳中ぁーーー!」
それでも杉崎は必死に手を伸ばす。しかし伸ばされた杉崎の手を見て、秋穂の顔は怯えていた。
「なんでそんな目で俺を見るんだ! 俺は岳中を助けたいだけなのにーーーッ」
やがて秋穂は完全に波に飲まれ、杉崎もそれに飲み込まれていった。
「ッッッーーー!!」
杉崎哲哉はガバッと起き上がった。
「はぁッ……、はぁッ」
心臓が臨界に達しそうな程に脈打っている。
「い、今のは……」
杉崎は夢であったことに安堵した。だがそれがただの夢ではないことに彼は気づいていた。
それは数日前にあの妖艶な美女に出会った日の記憶。そして前日に見た秋穂の怯えた表情。それらが混ざりあい悪夢となったのだと。
「ふぅ……」
鼓動も少しずつ平静を取り戻して一息つくと、杉崎は自分の置かれた状況を思い出した。
「夢じゃないんだな……」
部屋中央のテーブルの上に置かれた蝋燭が火を灯している。見慣れた六畳の自分の部屋ではない、少し広めの天井も壁も真っ黒な部屋に彼はいた。
「ここは一体……」
「ここは欲望の城さ」
「え?」
不意に聞こえた少し高い男の声。杉崎は声のした方を向いた。
「ーーーッ!?」
そしてギョっとした。
蝋燭の明かりが届かない暗闇の中にぽつんと白く浮かび上がった顔があったからだ。
「おっと。驚かせてしまったかな」
白い顔がやがて蝋燭の明かりの中へとやってきた。するとまるで暗闇をそのまま纏ったような真っ黒な服を着た男が姿を現した。
「ここは欲望に身を任せたモノだけが入る事を許される場所さ」
「欲望に身を任せたモノ……? 俺はそんな……」
「そんな覚えはないって? 一人の少女を自分の物にしたいという欲に身を任せたのにかい?」
杉崎は再び秋穂の怯えた表情を思い出した。そしてその原因が自分にあるという事を改めて思い知らされ自己嫌悪に陥った。
真っ黒な服を着た男ーーーノーブルは、彼のその表情を冷めた目で見ていた。
ランチタイムが終わる頃、榊原梨遠が『ミラージュ』に顔を出した。
「おかえり」
そう言って出迎えた羽衣の笑顔を見て、梨遠は苦笑いを浮かべた。
「いつもの」
「は~い」
羽衣がレジでブレンドを打つと、梨遠はタッチパネルに携帯端末を置いて支払いを済ませた。そしてすぐ傍のカウンター席に座り、おもむろに煙草を取り出して火を点けた。
「そっか。こっちの姉ちゃんは煙草吸うんだっけ」
「いつからこの店は禁煙になったんだ? 問題はない筈…………ん?」
不意に聞こえてきた声に梨遠は応えながらも違和感を抱いた。
「仕様がないのよ。兄妹のように可愛がってた子供達が事故で亡くなってしまって、一時期ヤサグレててね」
「……そっか」
声の主、穂村優希人は自分達が世話になっていた近所のお姉さんの事を思い浮かべていた。
「ちょ、ちょっとお前達! 何の話をしてるんだ?!」
「ありがとう」
梨遠に向かって優希人は穏やかな笑顔で言った。
「きっとこっちの俺達も天国で喜んでるんじゃないかな」
「こっちって……。まさか……」
梨遠は、数日前に羽衣から聞いた話を思い出した。
「あの女の子についてよね」
「ああ。あの二人にここに連れて来るようにお前が頼んだあの少女は一体何者だ?」
「聞くまでもなく、あなたは彼女を知っている」
「なに? ……いや、会った事はない、筈だ」
いくら記憶を辿っても空から降ってきた少女と重なる顔はない。だが、そう言い切ってしまうのを少し躊躇う程度の引っかかりがあった。
「そう。じゃあ彼は?」
「彼?」
「穂村優希人くん。あなたが昔、弟の様に可愛がっていた男の子よ」
「ちょっと待て!?」
梨遠は勢いよく立ち上がると、羽衣に問い詰めるように向き直った。
「確かに〝ゆきくん〟とはよく遊んでいた。しかし彼は八年前の事故で……」
まるで自分に責任があるかのように梨遠は暗い表情で俯いた。
「そう。今いる彼はあなたの知ってる彼だけども、知らない彼でもある」
「どういうことだ?」
「彼はこことは別の、並行世界からやってきたの」
「並行、世界……だと? だけど、なら〝ゆきくん〟だったら私の事が分かる筈だ。なのに彼は一度もそんな素振りを見せたことがないぞ?」
「彼は今、記憶を失っているの。こっちに来た二年余前から」
「記憶を? なぜ?」
「それは私にも分からない。それで話は戻るんだけど、彼ともう一人、あなたがよく知っていた女の子がいるんじゃないかしら?」
梨遠には思い当たる節があった。
「本当、なのか……?」
梨遠は羽衣がタチの悪い冗談を言っているわけでも、嘘を言っているわけでもないのを、彼女の表情を見て悟った。
「俄かには信じ難いな……」
そして大きな溜め息を吐いた。
「……アルコールが入ってる時に聞きたい話だな」
「煙草を吸ってても、長い髪をばっさり切って短くしてても、やっぱり梨遠姉ちゃんは梨遠姉ちゃんなんだね」
梨遠は不意に涙を流していた。
微笑む優希人に、八年前に失った笑顔の面影を見て自然と涙が溢れていた。
梨遠がかつて失った弟分の面影と同じ名前を持つ青年、穂村優希人。昨日まで、いや今の今まで、彼は梨遠の事を知っているような様子が微塵も無かったので、まったく別物だと思っていた。
初めて彼を目にした時、密かに事故から生き延びていて記憶を失っているのかと本気で思い込んでいたりもした。しかし現実には残酷な真実しか無かった。だから彼は完全に別の存在なのだと思っていた。
たしかに別の存在には違いないのだが、同時に同一人物でもある。時間を同じくして別の世界で生きてきた同一人物。それが穂村優希人だった。
「じゃああの空から降ってきた少女は本当に……」
「美那だよ。もちろん姉ちゃんの知ってるね」
「……そうか」
梨遠は涙が止まらなかった。
彼等が生きている世界があったというだけで嬉しかった。
「はい」
梨遠の目の前にハンカチが差し出された。
「わ、悪いな……」
「いいえ」
ハンカチを手渡した羽衣は何か嬉しい事でもあったかのように温かい目で梨遠を見守っていた。
「……し、しかし何故こっちの世界に?」
梨遠は涙を拭きながら、生まれた疑問を口にした。
「それは……」
優希人は一部始終を話した。
「以前に羽衣から聞いた話と合致したのはいいんだが、浅陽のヤツが悠陽から聞いた話に似ているな」
「悠陽っていうと、黒仮面を被って浅陽の前に現れたっていう?」
「聞いていたか。私達は目下それらと戦っている」
「それら? 〝黒晶人形〟とかいう奴等のこと?」
「それらを操る連中と、だな。あの黒仮面のような」
「悠陽は浅陽が撃退したって聞いたけど」
「悠陽だけじゃなかったんだ。他にも黒仮面が存在した」
「他にも?! もしかしてそいつ等も悠陽みたいに並行世界から来た知ってる人間なの?」
「いや、知らないヤツだった。つまり少なくとも私達の周りだけで起きているというわけではないということだ」
「なるほど」
優希人は状況を理解したようだった。だが顔はしかめたままだった。
「……天使に悪魔、そして謎の黒仮面の集団。一体何が起こってるんだ?」
「そっちで何か掴んでないか?」
梨遠は羽衣に訊ねた。
「今の所は何も。情報が少な過ぎるわね」
「そうか」
その時不意に、棚の食器類がカチャカチャと音を立て始めた。
「地震か……?」
梨遠が落ち着いた様子で状況を見守っている。
「いえ、これは地面というよりも空間が揺れている気がするわね」
「空間……!?」
その時、優希人はふと胸元に熱が生じたのを感じた。
「え……?」
熱の発生源は優希人が常に身につけているペンダントのようだった。チャームの羽根を取り出し掌に乗せると、強い輝きを放った。
「これは……?!」
嫌な予感を抱いた優希人は、店の外へ出た。途端に揺れが強くなった。
「くっ……!?」
優希人は咄嗟にしゃがんだ。強い地震が来た時は立っていられないという本能的な何かが働いた。だが違和感を覚え、すぐにその正体に行き着いた。
地面は揺れていない。羽衣の言った通り、空気が震えているような感覚が肌にビリビリと伝わってくる。
それが頭の上から来ている事に気づいた優希人は空を見上げた。空には一面薄灰色の雲が立ち込めている。だが、
「ーーーッ!?」
優希人のほぼ真上で不自然に雲が渦巻いていた。
『この気配……まさか?!』
「凌牙さん?」
『急ぐぞ!』
「急ぐって何処へ?」
『それはーーー』
優希人が両目を閉じ、そして開くと山吹色の瞳は金色に変わっていた。次の瞬間には優希人は駆け出していた。
その頃、聖夜祭の準備が着々と進む久遠舘学院も強い揺れに襲われていた。
「でかいぞ!」
誰かが叫んだ。出店をやるクラスの生徒は自分達の屋台を守ろうとした。
『屋外で準備中の皆さん! 屋台が倒れる可能性がありますので屋台から離れて下さい』
校内放送で迅水巡が呼び掛ける。
「ねえ」
クラスの出し物であるカフェの準備をしていたミシェルが同じく準備している浅陽の近くに立って声を掛けた。
「分かってる。……これは、地震じゃない」
建物が揺れているのは浅陽も確かに感じている。しかし、足元から揺らぐといった感覚はなかった。
「肌にビリビリ来る。空気が、ううん、空間が揺れてる」
「ええ」
「なんだあれ!!」
突然、窓の近くにいたクラスの男子が外を見上げて声を上げた。
「窓から離れて!!」
浅陽が叫ぶと同時に窓ガラスに亀裂が入った。
「う、うわっ!?」
その男子は揺れのせいかその場から動けずにいた。
「ったく!!」
浅陽は床を蹴ると同時に制服の上着を脱いで、その男子に被せた。
彼女の制服は特注で、防刃防弾ベスト並に防御に優れている。特別な霊糸で編まれていて防御結界の役割も持つ。
「這いながらでいいから窓から離れて!」
「サ、サンキュー、水薙……」
ゆっくりだが男子生徒は窓際から離れていく。
「アサヒ、あれ」
いつの間にか浅陽の近くに来ていたミシェルが空を見上げて言った。
「なにあれ?!」
二人が見上げた先の空では、不自然に雲が渦巻いていた。
「それにあの方角……」
二人はその方向に覚えがあった。
「【念晶の輝き】本部跡!?」
輝星美那が天使に抱えられて降りてきた場所である【念晶の輝き】本部跡。その上空だと彼女らは判断した。
「また何か降りてくるっての?!」
「あのミナという少女が降りてきた事で、空間の綻びが残っていたのかもしれないわね」
見通せない渦巻く雲の先が、得体の知れない場所に繋がっている気がして浅陽はゾッとした。
そんな浅陽の隣でミシェルは簪を引き抜いた。
「ミシェル?」
「行きましょう」
ミシェルはベランダに出ると浮かぶ杖に横乗りに座った。
「……そうだね」
浅陽は教室の中へ振り返った。
「あたしらちょっと行ってくるから、あとよろしく」
そう言うとベランダの柵を飛び越えた。
「よっ、と」
猫のように音も無く着地すると、浅陽は瞬く間に校門を抜けて目的地に向けて駿馬のように駆けていく。
「ん?」
浅陽はふと、自分の前方を自分と同じ速度で駆ける背中を見つけた。
「あれは……」
光を撒き散らすように淡く輝く白金の毛先。そんな特徴的な髪をしている人間を浅陽は一人しか知らない。
「相当デキるようね」
並飛行しているミシェルがその人物、穂村優希人を見て目を瞠った。
「天使と人間の混血か」
素性を聞いてはいるが、浅陽は未だにピンと来ていなかった。
天使という存在は浅陽も知っていた。しかし彼等は滅多に人類の前に姿を現わすことがない。その為実態を殆ど知られていない。
しかし浅陽はこの数日の間に二人(二体?)の天使と出会い、天使とヒトとの間に生まれた混血児が彼女らの前方を駆けている。
どこか遠い世界の事だと思っていただけに、浅陽はイマイチ実感がわかない。
やがて前を走る優希人がスピードを緩めた。目的地はもう目の前だった。浅陽達が彼に追いつくのに時間はかからなかった。
「やっぱり浅陽達だったか」
優希人の山吹色の瞳が二人を捉えた。しかしその剣呑な様子が浮かんだ表情に、二人はまるで別の人物を見ているかのようだった。
目的地である【念晶の輝き】本部跡に到着した。その敷地の入り口は封鎖され、未だ立ち入り禁止とされている。
「見ろ」
優希人が空を見上げると、二人も同じように見上げた。そこは渦巻く雲のほぼ真下だった。
その時、轟音と共に光が迸った。雲の渦の中から光の龍が現れたのを浅陽は見た気がした。
「ーーーッ!!」
三人は身構えた。しかし光の龍は【念晶の輝き】本部跡地の正面玄関前の地面を穿っていた。
それに呆然とする間もなく、三人の背中を戦慄が駆け抜けた。浅陽はバッと再び空を見上げた。
「何か……来るーーーッ!?」
耳を劈く轟音を伴い再び光が迸る。空間の揺れに共鳴するかのように、地面も鳴動を始めた。次の刹那、大地を揺るがす衝撃が五回、そして最後にまるで隕石でも落下したような一際大きな衝撃が霧園市全体を襲った。
「ゆきく……!」
外に出た優希人を止めようとした梨遠だが、既に彼の背中は遥か遠くにあった。
それを目にした梨遠を突然胸騒ぎが襲った。また〝彼ら〟が遠くに行ってしまうような錯覚に陥った。
「まさか、な……」
その時、背中がゾクリとする嫌な気配を頭上に感じ、梨遠は空を見上げた。
「なんだ、この凄まじい妖気はーーーッ?!」
そしてハッと気づいた。優希人はこの妖気を感じ取り駆け出していったのだと。
しかし梨遠は、頭を振って一先ず私情を振り払い【異能研】の榊原梨遠に戻った。
「羽衣! 緊急事態だ! この妖気、半端なヤツではあるまい!!」
だが、羽衣は普段見ないような険しい表情を浮かべ、外を眺めていた。
「羽衣?」
「……緊急出動よね」
「あ、ああ……」
いつもと違う様子の羽衣に梨遠は少しだけ尻込みした。だがすぐに持ち直して扉に手を掛けた。
「一先ず私は〝ゆきくん〟の後を追って先行する!」
「〝ゆきくん〟ね」
羽衣が微笑む。だが梨遠を揶揄ったような様子は微塵もない。
「頼むわね、あの子のこと」
「おうッ!」
梨遠はもの凄い勢いで飛び出していった。
「さて……」
羽衣は店を閉めようとカウンターから出た。凄まじい妖気に混じった妙な気配を彼女は感じていた。
と、そこへカウベルの音がして扉が開いた。
「すみません。今日はちょっと閉めようかと…………ッ?!」
そこに立っていた人物を見て羽衣は絶句した。
「………………」
「杉崎、くん……?」
その時、轟音と共に眩い光か迸った。どこか近くで雷が落ちたようだった。
「……あなた、一体今までどこに?」
「………………」
杉崎哲哉は何も喋らない。
と、再び轟音と共に店の中に光が溢れる。すると、杉崎の後ろに影が浮かび上がったのを羽衣は見た。
「……あなたがその子を誑かしているのね?」
羽衣はその影に問いかけた。
「誑かすとは失礼ですね。私はただ彼の望みを叶えてあげようとしてあるだけ」
杉崎哲哉の後ろから姿を現したのは艶やかな黒髪と妖しい紅い瞳を持った美しい女だった。
「……あなた、私の眼を見ても何とも思いませんの?」
女ーーーメフィストフェレスは、自身の魔眼を前にしながらも平然としている羽衣の姿を見て首を傾げた。
「禍々しい程紅い以外に何かあるのかしら?」
羽衣はワザとらしく惚けて笑みを浮かべてみせた。
「まあいいでしょう。ここにこの子の想い人がいると聞いたのだけど、渡してもらえて?」
「まるで人間を物のように言うのね」
「下等な人間を〝私達〟と同じように扱う理由が分からないのだけれど」
「そうだったわね、〝あなた達〟は」
不遜な態度を取る羽衣にメフィストフェレスは少しムッとした。
「それで彼の心を奪った少女はどこ?」
「ふふ……」
羽衣は不敵な笑みを浮かべていた。それを見たメフィストフェレスは益々イラついてきた。
「何がおかしいの?」
「だってあなた、まるで自分の男の浮気相手を捜しているみたいに見えたから」
「バカな事を言ってないで、早くお渡しなさいッ!」
「悪いけど、今ここに目当ての子はいないわよ」
「いない? そんな筈はない。たしかにここにいるとあの男は……」
「あの男……? まさかーーーッ!?」
ノーブル・ロードは羽衣の寝室にいた。
そこでは今、輝星美那が眠り続けていた。
「ふふ……」
不意に美那の青みを帯びた黒髪が淡く輝きはじめた。
「おっと、そうはさせないよ」
ノーブルは黒い直径十五センチほどの漆黒のリングを取り出した。そしてそれを美那の細い首に嵌めた。すると輝きは収まって元の黒髪に戻った。
「さてと」
突如、眠る美那の身体がふわりと宙に浮いた。
「一緒に来てもらうよ。〝彼〟を誘い出す為にね」
ノーブルと眠ったままの美那は、空間に溶け込むようにしてそ寝室から姿を消した。
羽衣がノーブルの気配に気づいた瞬間にその気配が消えた。
「消えた? 一体何しに……?」
「どうやら私はダシに使われたようですね」
メフィストフェレスは怒りを露わにしていた。
「もうここには用はない。ですが腹の虫がどうにもおさまらない」
そして怒りに満ちた視線を羽衣に向けた。しかし相変わらず羽衣は涼しい顔でその魔眼を受け流していた。
「店に手を出されるのは困るわね」
そう言って羽衣は何処からともなく、虹色に輝く長めのマフラーのような細長い布地を取り出した。
するとその布地は瞬く間に伸びてメフィストフェレスと杉崎哲哉を雁字搦めにして捕らえた。
「ふん! この程度の戒め……!」
メフィストフェレスは脱出しようと試みるが、何度試みても脱出は叶わなかった。
「〝あなた程度〟には決して逃れられないわよ」
羽衣は勝ち誇るでもなく、まるでコーヒーを淹れる時のような様子で言った。
「お前っ、何者ッ?!」
「私は〝ただの〟オーナーですよ。この喫茶店のね」
そしてそのコーヒーを提供した客に自己紹介でもするかのように、そう言った。




