海のスケッチブック
どうしようなどと迷っている間もなく、親戚中で代わる代わる手続きを済ませてくれ、あっという間に いつでも引っ越してOKという段になってしまった。
海としては 持ち家なんて 身に余る気がしたし、もしも 結婚、なんてことになったらどうしたらいいものか。
(どうしてみんな、私の結婚の心配をしないの…)
どうやら皆、海は嫁に行かないものと決めつけているようである。まさか祖母もそう考えていたのだろうか。だから家を私に…
ますます複雑である。
結婚はまだかまだかと急かされるのは もちろん まっぴらだが、結婚しないだろうと先に諦められるのもまた 面白くない。
人間とは まぁ 我が儘なものなのである。
「なんだか皆、私が結婚しないって決めつけてる感じ」
海は空の家で愚痴った。
「え!お姉ちゃん結婚したいの!?」
「なんでまたそんなに驚くのさ」
私が睨むと空は
「だって… マジでお姉ちゃん、結婚すんの?」
「するって決まったわけじゃないけど…」
「決まってはいないけど、いつかしたいの?」
したいの?と聞かれても、したい!と断言できる程ではない。相手もいない。しかし 絶対しない!ともまだ言い切りたくないのだ。
「いつか…もしかしたら、するかもしれないじゃん。なんだか家なんてもらってそこに住んじゃったら、一生結婚できなくなるって気がするんだもん」
「…あっそ」
煮え切らない海の話に呆れた様子だ。
そりゃあそうだろうと、海も自分でわかっている。
34歳、海は自分の未来が自分でもわからなくなってしまっていた。2ヵ月後には35になる。
1年後、私はまだ絵を描いているのだろうか?5年後なんてもう、野垂れ死んでいるのではないだろうか。
ずっと絵を続けていく自信もなければ、才能もないことにも気づいてしまっている。独身を貫く覚悟もない。さりとて誰かの妻になどなれる気もしない。
ないない尽くしである。
「ないないない♩自信がない♩」
昔のヒット曲にのせて歌ってみる。
「あぁ?なにぃ!?」
すでに台所で夕飯の支度に取りかかっている空は忙しそうだ。夕方は子持ち主婦の一番忙しい時間であり、姉の替え歌になど興味ないのである。
「私ゃもう帰るよ」
海はわざと婆さんの口調を真似て 空と別れた。
今日は夕方のこの時間でも気温は10度を越えており、帰り道は気分が良かった。
西の空は鮮やかなオレンジに染まっている。
「ないないない♩仕事がない♪」
海はまた替え歌を口ずさんで歩いた。
今夜は何を食べようか。
新たに買い物をするつもりはもちろんない。
海は冷蔵庫の中身を歩きながら思い出した。
お金は無いが、まっとうなものを食べたい。
それが貧乏ながら海がこだわっていることだった。
だから海は安くて量もあり簡単でも、カップ麺を食べることはほとんど無かった。
今日は梅のパスタにしよう。引き出しに麺があったはず。おばあちゃんの漬けてくれた梅干しもまだたくさんある。植木鉢で育てている大葉をたくさん刻んで乗せよう。ベーコンか鶏肉か…なにか少しだけ、お肉ものせたいな。
よしよし。
足取り軽く自宅に着いた海は鍋にお湯を沸かし、梅干しを包丁で叩きながら、自分の将来について改めて考えてみた。
私にとって、まず一番大事なものは何だろう?
人生における優先順位である。
やっぱりすぐに浮かんでくるのは、絵を描くということだった。
小さな頃から、イラストを描くことが好きでそのまま大人になり、曲がりなりにもイラストの仕事をさせてもらっている。美術の専門学校時代の友達も、それに関わる仕事ができるようになった子は本当に少ない。
女子は大半が結婚して家庭に入ったので尚更だ。
イラストの仕事をさせてもらっているこの現実を大切にしないと罰があたる。これは才能というより運によるところが大きい。
(ま、運も実力のうちっていうもんね)
海は おばあちゃんを真似て、買い置きしてあった新しいスケッチブックを開き、一番最初のページに
《一番大事なこと・絵を描くこと》
と大きく書いた。
「いいねぇ~」
海は満足した。
(私の一番は、絵を描いて、それを仕事にすること)
「あっ、仕事。趣味じゃなくて仕事にするってとこが大事だよね」
《絵を描くこと》を丸で囲み矢印を引き、《仕事にすること》と付け加えた。
「いいねぇ~」
海はさらに満足して、冷蔵庫からベーコンを取り出す。
「あるあるある♩ベーコンはある♩」
ずいぶんこの曲が気に入ったようである。
海はなんとも しつこい性格なのであった。
・パスタ乾麺 1㎏ 204円
100g 20.4円
・ベーコン 8枚入り 238円
2枚使用 59.5円
・バター 200g 305円
30g使用 45.75円
・梅干し おばあちゃん自家製
・大葉 海 自家製
今日の夕食 しめて 125.65円。