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verse

作者: ジロウ

 少女は歌っていた。

 楽しい歌。哀しい歌。怖い歌。優しい歌。切ない歌。暖かい歌。元気の出る歌。心震わせる思い出の歌。

 時間など全く分からなかった。既に歌った曲の数を数えるのは、30を過ぎた辺りでやめた。

 とにかく暇だった。歌う以外に出来る事が見出せなかった。だから歌った。そうすることで救われると、信じてさえいた。そういう話を何処かで耳にしたことがあった。消え入りそうな記憶の中で、その誰かが漏らした言葉だけがうっすら残っていた。

 少女がいる場所はとても暗い。まわりに誰がいるのか、そもそも近くににも遠くにも果たして誰かがいるのか、全く分からない。なにしろ、少女自身の姿さえ定かではなかった。掌が鼻にくっつくかと思うほど目の前に近付けて、やっとぼんやりとした輪郭が見えるほどの闇の中だ。

 本音を言えばとても淋しかった。そして、とても怖かった。だけど、だから、彼女は歌った。己を奮い立たせるために。心の底に潜む本能の声から己を遠ざけるために。存在を確認するために。時間を潰すために。せめてもの慰みに。ひたすら、歌った。

 少女は、他に何も考えなかった。考えないことにした。もしも少女の瞳を覗き込むことが出来たなら、漆黒の海に沈む虚無が見えただろう。ただ音階を紡ぐための機械と化して、小さな唇は動き続けた。水分がすっかり抜け落ち、唇の表面がささくれ立ち、舌の根が乾いても、音を刻み続けた。

 それは少女にとって、本当の意思では無かったかもしれない。膝の下を打ったら下肢が上がるようなもの。気管に異物が入ったら激しく咳き込むようなもの。もはや反射に近かった。

 同じものが繰り返されることは決してなく、ヒトからヒトへバトンを渡すように様々な歌詞が現れた。リズムを持った言葉の羅列はぶつかり合って反響し、狭い空間を縦横無尽に駆け抜けた。1曲終われば次の歌は自然と口から飛び出してきた。だから少女は口をきちんと開きさえすればよかった。

 時折、不快な臭気が口と鼻から少女の中へ流れ込もうとした。しかし口を閉ざしては歌えない。少女は歌い続けることを選んだ。腐臭と淀みとを吸い込んで、軽やかなメロディを吐き出す。刺激臭とガス臭さを飲み込んで、静かな詩を奏でる。呼気と吸気。流入と排出。自然界の法則は、たとえヒトの世で何があろうとも変わらないものだった。

 観客は一人。ただ一人。少女本人。唯一それだけ。

 けれど残念なことに、少女自身でさえも自分の歌を耳で受けることは出来なかった。少女に聴こえるのは、何処かで水の雫がもれている音と、巻貝に耳を押し付けた時のようなくぐもったノイズと、温もりを伴った呼吸音。不規則な呼吸音。自転車の空気入れに水を少しだけ混ぜた感じ。ぜいぜいと喘ぐような息の音。それは、少女の潰れた声帯が上げる悲鳴。

 もう少女は歌えない。けれど少女は歌い続ける。幾重もの瓦礫に押し潰されて、喉に小さな風穴が開いて、空気を振るわせる機能を喪っても。いつか誰かが彼女を見つけて、コンクリートと鉄筋の檻から救い出してくれることを願って。それでもいつか訪れるだろう最期の歌が、せめて明るく楽しい歌であることを願って。

 少女は歌っていた。

 何も見えない暗闇の中。崩れ落ちた街の片隅。少女と同じように突然日常を奪われ、住み慣れた我が家の下に、通いなれたオフィスの奥に、生死を問わず放置された人々の群れに混じって。

 楽しい歌。哀しい歌。怖い歌。優しい歌。切ない歌。暖かい歌。元気の出る歌。心震わせる思い出の歌。

 言の葉をつむぐ唇が静かにつぐむその日まで。


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