失敗は
『猫の逆立ち』や『人の不幸は』を読んでおくと分かりやすくなります。
年甲斐もなく転んでしまった。
通りがかりの見知らぬサラリーマンが抱える朝の憂鬱を吹き飛ばすほどの盛大な転び方だった。
痛む肘を見てみると出血もしている。
保健の先生もまだ来ていない早朝だから、僕は仕方なく治療を後回しにして教室に入った。
「おはよう」
いつものように挨拶する。
彼女は読んでいた小説から僕へちらりと視線を向けた後、何気ない調子で顔を上げた。
「肘から血が出てるわ」
見たままを報告する彼女。やはりというか、動揺する素振りもない。
「ちょっと待ってて」
席に着いた僕にそう言って彼女は教室を出て行った。
僕が教科書を机に放り込んでいる間にハンカチを濡らしてきた彼女は僕の傷口をそれで拭き、絆創膏を貼り付けた。
割と大きな傷にも対応できる四角い絆創膏だ。
「何時も持ち歩いてるの」
僕の顔から疑問を読み取ったのだろう、彼女は僕が問う前に答えた。
不意に彼女の瞳が嫌な光を宿した。
「人は誰しも失敗するものよ」
始まった。彼女の質の悪い遊びが。
言葉だけは転んで怪我まで創った僕へのフォローなので、返事をせずに無視すれば僕らの関係に角が立つ。
けれども僕は彼女の言葉遊びで散々な目に会っているのだし、今更のように関係を気にするのも馬鹿げていた。なので僕は沈黙を貫くことを選択し、身を守ることにする。
「……けれど、失敗は成功の元とも言うわ」
僕が何も言わないと見て彼女は言葉を繋いだ。少し不満そうな顔をしているけれどきっと演技だろう。
それでも、沈黙を守る。言葉遊びなら遊び道具がない限り手玉に取られることはない。
僕は内心ほくそ笑む。失敗は成功の元、確かにその通りじゃないか。
彼女はわざとらしく僕の目の前で手を振ったりしている。
「でも、必ず成功するわけでもないの。誰かが足を引っ張ったり裏をかいたりするのよ」
昨日の話を持ち出す彼女。どことなく流れが不穏だ。何がそう感じる原因だろう。
「私のようにね」
不味い。語調が少し荒い。怒ってしまったようだ。
つまり、と彼女は締めの言葉を口にする。
「失敗の積み重ねが成功に繋がるとは限らないの」
……あぁ、やられた。何も言わない内に言質を取られていた。
彼女は狡猾な言葉で僕の警戒心を逆手に取ってこう言ったのだ。僕の失敗は成功には繋がらないただの徒労だ、と。
そう言う形で僕を罵倒するのか、と少し感心してしまう。
実際、またもや彼女に裏をかかれた身だから否定も出来ない。
「昨日と同じ蜜の味だわ」
止めとばかりに言われてしまう。
やはり彼女は不機嫌なようだ。多分、これも僕の失敗だろう。
どうやって機嫌を取ったものかと考えながら、僕は絆創膏のお礼を口にしようとして、気付く。
彼女が絆創膏を持っていたという事は同じ失敗をしたことがあったからではないだろうか?
盛大に転ぶ彼女を想像して自然と笑みが広がる。
僕の笑みに視線をやった彼女はつまらなそうに呟いた。
「転ばぬ先の絆創膏」
僕の笑みは消え、肩が落ちた。
彼女には失敗すら必要ないらしい。