【二】
そうして。
今更、取り乱して慌てたのはリオンであった。
なにしろ、少なくとも彼にとっては……唐突な婚約破棄のご通達である。
だがもはや、ソフィアにとってこの縁を成就させる理由が一つも無い。お家の責すら脇目に振って、心は婚約者の傍にあらず、そうした彼と添う理由は、理性的に考えても感傷的に考えても、誰がどう考えても、何一つ無い。
また、社交界にこういった経緯の噂が流れるのは早い。
ノクスウェル家での境遇、そして決断を下したその強い意思には敬意を示して、世間のほとんどは、ソフィアに同情的だった。
もはや令嬢ソフィアの、再起の道は開かれていたが。
しかし、あれからまだ数日。ソフィアの表情には、ふと一人のとき、陰が降りることがあった……。
そんな中、本日、一つの相談会が設けられた。
貴族家の変成である、事の重要を鑑みて、そうした相談会の席が設けられることは自然であった。しかし――。
その婚約破棄をめぐる一件において、相談役として席に着いたのは、歳にしてたった九つの少女だった。
九つ。
顔立ちもまだ、あどけない。
――しかしその容姿には、同席する相手の居住まいを改めさせる力があった。
人体の一部であるとは思えない、眩い白銀色の髪。腰下まで垂れたその髪色一つが、人を畏まらせた。
「本日はこうしてお目にかかる機会を賜り、心より御礼申し上げます。オーレリア様」
「オーレリア・アイリーン・ジュミルミナです。どうぞ、お気を楽になさってください!」
幼い聖女は快活に言ったが、まさかそれで、素直に膝を崩すわけにもいかない。
「お心遣いありがたく存じますが、身に余る光栄です。このたびは私一人の面会のためにご足労をいただき、誠に恐縮するばかりでございます」
「フフ、どうかそのように畏まられませんよう。本日の機会に、九つの小娘が大人の話を伺いに参ったという不遜を働いておりますのは、こちらのほうでございますから」
「そのようなことは――」
オーレリアは「コホン」と一つ仕切り直すと、話に向かい合うよう姿勢を改めた。
「このたびは何故、相談役としてわたくしに白羽の矢が立ったのか、不思議に思っておりましたが――なるほど、【エレアニカの教え】という宗教において、その象徴たる者がこうして話を伺うのも、頷ける内容でありました」
声色はまだ幼く、しかし言葉遣いは流麗に言うと、次いでオーレリアは眉を傾げた。
「しかして……うぅむ。当事者の立場におかれましては、なかなか、落とし所を見出すのが難しいお話であったように受け取れました。それはたとえば、貴方様が仰った一つのことにおいても。
言葉にするべきだった――しかし、その難しさは、きっと誰にもよく理解できます。期待があるからこそ言葉を飲み込んでしまう……それもまた、自然な成り行きであったと申せましょう。それを人の弱さと断ずることは……少々、私には、無情のようにも思えてしまいます」
「いいえ、オーレリア様」
芯の通った声で否を答え、小さく首が振られた。
「そのことについては、ハッキリと、私の弱さでした。自ら歩み出さねばならないと思い至った――しかしその決断の力が、もっと以前に得られたのなら。また違った結末も、あったかもしれないというのに……。それについては、私が向き合わなければならない、弱さです」
「お心に、悔やみを残しておられるのですね。――幼い私からすれば、遠い昔のことです。私は、誤って、晩餐会で振る舞う予定であった、菓子類をつまみ食いしてしまったことがあります」
「は――え、はい……??」
思わず、頓狂を露わにしてしまった彼女へ、気を留めずに。
あまりに唐突な話題の転換を図ったオーレリアは、そのまま話を続けた。
「私も貴族家の娘です、社交の場で振る舞う予定であった料理へ手をつける過ちの重大は、よく理解できました。万全が求められる主催の披露場において、描かれた景色に一個の致命的な損ないを生じさせてしまった……お家の格に傷をつけるような過ちです。私は真っ青になって震えましたが……しかし。そのことを、家付きの料理長様に打ち明けましたところ。料理長様はまず怒るでなく――『よく打ち明けてくれたね』と、どうしたことか、そんな私を褒めてくださいました」
「は、はぁ……」
「その後、しっかりとお叱りをいただいたわけですが――。さて、しかし、私はどうしてあの時、真っ先にお褒めのお言葉をいただいたのでしょう……? よろしければ、貴方様も一緒に、考えてみてくださいませんか?」
「――それは、きっと、オーレリア様の誠実を称えてのことでしょう」
「誠実。つまりは、正直であるという美徳を称えて?」
「は、はい。わたくしは、そう考えましたが……」
「しかしです……。晩餐会で振る舞うはずであった料理に欠けを生じさせてしまった過ち――その重大さを鑑みましても尚、仕事として責を負われる料理長様が真っ先にお褒めの言葉をくださったという実情に照らして、『誠実への賛美』という一個の理由は、はたして、相応しいものでしょうか?」
「それは――……。…………。確かに、それでは料理長様がオーレリア様に遠慮をなさったという解釈が、自然と浮かんでしまいますね」
「私もそのように考えました。そして、それがジュミルミナの役割です、そのことにつきまして私はずっと、懸命に考えを巡らせました。そうして考え至りました私なりの解釈を、どうか聞いてくださいませんか?」
そうしてオーレリアは、相手に気後れを覚えさせぬほど自然に、スッと頭を下げた。
「――ご見解を、拝聴させてください」
「ありがとう。――料理長様はきっと、私の《決意》を認めてくださったのでしょう。私はそのように考え至りました。
大切なものを損なってしまったことにおいて、あの時の私は、過ちを隠して黙っていることもできたわけです。しかしその選択は、ともすれば後まで尾を引く、私にとってもよくない結果を招いていたでしょう、想像に難くありません。なればあの時私が告白したことは、前進とも受け取れる選択であったとも言える――料理長様はそのことについて言及したものと考えました。
お褒めの言葉を告げられた、あの時の瞳には、誠実といった美しさを見る煌めきではなく、どこかほの熱い、人間の情感というものがありました。私を真っすぐに見つめる瞳にあったものを推し量るに、きっとそのような感情から、『よく打ち明けてくれたね』と私に仰ってくれたものと、私は受け取りました」
――別段、目の付け所が鋭い、特別なことを話しているわけではなかった。
どころかその考え方には、論理的な詰め方があるわけでもなく、少女の“主観”のみが話の全てを占めていた。
でもだからこそ。
大人である理詰めの脳みそに “自身で深く考えること”をもたらした。
簡単に腑に落ちるような理解ではなく。
そのお話が心の納得に値するものか、自身の思考で再解釈した相席者へ、そしてオーレリアは伝えた。
「貴方様は、違和感を感じておられた当初において、言葉を飲みこんでしまったかもしれない。けれど実際には、貴方様は自らと、縁で繋がる沢山の人たちのために、決別という《決意》をその意思でキッパリと選択なされた。ご自身の責において、そのご意思で。それを《前進》と言わず、なんと言えましょう。貴方様がご自身の弱さに挫けたとは、私には思えない――それを人の弱さと断ずることは、少々、私には、無情のようにも思えてしまいます」
――――彼女は、クシャリと表情を崩して、顔を俯けた。
「…………どうすれば、よかったのか。しかし、どうすればよかったのかなんて、分かり切ってもいた」
「なかなか、落とし所を見出すのが難しいお話であったように受け取れました。――しかし貴方様は現在において、きっと、選択を終えました。この時から前進する、そうでしょう?」
「…………」
「これはとっても勝手な感想ですが、お話を聞く限りでは、正直に申し上げて、リオン様には同情的になれない内容でした。彼は目が眩んでいたとしか思えない。婚約という『誓い』に対して無頓着であることは、冷酷な、人の無情のように思えます。美徳に対し背負った責を贄にしてよいわけではない、そして彼は、ご自身で不義と捉えられる道を選択なさった。婚約破棄は、その帰結であったように思われる」
「…………」
「それを踏まえて、【エレアニカの教え】という宗教においての《声を受ける者》として、どうかお聞かせください。貴方様は、今、どのような悩みを抱き、苦しんでおられますか?」
聖女オーレリアはあどけないその容姿で柔らかに微笑み、尋ねた。
「今日のこの機会に胸中をもし明かしていただければ、お力になれることもあるかもしれません。――――エリナ様」
聖女と相席する女性、佇まいから静かな活力の窺えるソフィアの姿ではない、線の細い繊細な見目の女性――リオンの幼馴染であるエリナは、顔をグシャグシャにして、細い手で表情の全てを覆った。
「――――もっと早くに言葉にするべきだった。でも、私は、リオンに甘えていた。決別は遅すぎた……。そうして私は――――全てを呪ってしまった! もう取り返しがつかない! そのような言葉すらも……今となっては、あまりに、自分本位が過ぎる。彼の想いが苦しくなり始めたあの時に伝えるべきだった、私はもう大丈夫だと、私は私の人生を、私の責において、自身の足で歩み出す必要があるのだと……、歩み出さなければならないのだと。――もう、全てが自己本位の言葉にしかならないところまで来てしまった。リオンのみならず、婚約者のソフィア様まで私の醜さで呪ってしまった……! 醜い……! どうすれば彼女に償えるのでしょう? 言葉だけではなく、現実で彼女へ報いるためには、私はいったい、どうすればよいのでしょう……?」
両手でグシャグシャに顔を覆い震えるエリナは、言葉漏らした。
「どこまで醜いのでしょうか? もはや吐く言葉すらもが。私は弱い――――」
「――――もしも、私がソフィア様のお子であったのならば。もしかしたらエレナ様、私は貴方様を、鋭いナイフで刺しにいくかもしれません」
見るも無残な彼女へ、オーレリアは――そのように突飛なことを話した。
「お母様をそのように呪い、悲しませた人間がいるのなら、あるいは。――そして、もしも、たとえば私が貴方様のお子であったなら。ご自身のことを“醜い”と落胆され崩れ落ちた貴方様へ、事情の経緯はどうあれ、できる限りで寄り添うでしょう。大切なお母様が悲しんでいるなら。――このお子と、貴方様たちとの、違いはなんですか?」
「――――……。…………。――もはや、自身の足で、歩いていけることです」
「一人歩いていける強さ。――さて、このたびの事態を経て、呪われてしまった人間というものは、一人としているでしょうか?」
「…………」
「もしも私が、このたびの事情に関わらない、話の外側に立つどこぞのお子であったのなら。ソフィア様はもはや、お一人で新たな道を歩んでいけるのだから、そんなに気にしなくていいのに、と――そのように思うかもしれません」
言って、オーレリアはテーブル席を挟んで、エリナへと何かを差し出した。
「手紙を書くとよいでしょう。ソフィア様は、ご自身で最善の決断を下せる、大人の女性です。文通の談話であれば、お話を聞いてくれることもあるでしょう。――私は【エレアニカの教え】のジュミルミナ、幼き星の象徴たる光。けれど……照らせるものがあるとすれば、それは私の見ているものくらい。しかしその小さな光が照らし出した実直を語ることこそ、ジュミルミナの使命です。生きる煩雑の中で忘れてしまった、ただの実直を。――そうしてお役目をこなしてきた、私の言葉です、どうか聞いてくださいね。
人は、実直を語ることには、どのような場合であれ、けっこうに耳を傾けてくれるものです。
最後にもう一度だけ伝えましょう。私は、貴方様の秘めてしまったことが、取り返しのつかない弱さだとは思いません。そして貴方様は、自らと、縁で繋がる沢山の人たちのために、決断した。前進の現実時間はもう始まっております、もう進むしかない」
そして、表情を覆う震える手を離せないエレナへ、オーレリアは一言を、伝えた。
「もしかしたら。貴方様や、縁で繋がる沢山の人たちの誰かが、いつかの未来で。過去の貴方様へ、『よく打ち明けてくれたね』と、そのように伝えることもあるかもしれません」
闇のように顔を覆っていた陰が、解かれて。
エレナの手が、オーレリアが差し出した紙片とペンを、彼女自身の確かな意思で取った。




