プロローグ
僕の名前は九条惟成。今年で16歳、ごく普通の高校一年生だ。
父の仕事の都合で、僕たち家族は東京から大阪へ引っ越し、かつて通っていた名門校から、一般的な高校である晨鑫高校に転入することになった。
そう、僕はいわゆる「御曹司」だ。
父の九条惟道は九条食品株式会社の代表取締役社長。
母の九条紫乃は、気品と知性を兼ね備えた専業主婦。
妹の九条詩織は、地元の中学校に通っている。
裕福な家庭で何不自由ない暮らしを送り、名門校では充実した日々を過ごしていた。気の合う友人もいたし、放課後は一緒に遊ぶことも多かった。
しかし、引っ越しと共に、そんな日々はあっけなく終わりを迎えた。
クラスメイトたちは、僕が裕福な家庭の出だと知った途端、態度を変え始めた。
距離を置かれ、孤立し、まるで異物のように扱われた。
そんなある日、静寂を破る声が響いた。
「ねぇ!九条!」
彼女の名前は橘 心愛。僕と同じクラスで、学校中に知られた人気者だ。
成績は常に学年トップ。運動も芸術も万能で、表彰台の常連。
明るく快活な性格、美しい容姿、スタイルも抜群(噂ではEカップ)で、数えきれないほどの男子に告白されている。
──だけど、僕は彼女に全く興味がなかった。
彼女はクラスで唯一僕に話しかけてくる存在だったが、僕にとってはただの「ラジオ」のようなものだった。
朝から晩まで自分のことばかり話していて、正直うるさいだけ。
我慢の限界を超えると、「うるさいよ」と一言告げるだけで、彼女は不満そうに黙るのだった。
ある朝のこと、彼女の声がまた教室に響いた。
バンッ!
「九条!ちゃんと聞いてるの!?」
橘が僕の机を強く叩いた。
「別に聞くなんて言ってないし……朝からなんなの?」
僕が眉をひそめてそう返すと、クラスの男子たちが一斉にこちらを睨みつけてきた。
そのうちの一人が怒りながら僕の襟を掴んできた。
「おい九条、金持ちだからって調子に乗るなよ!」
「は?お前こそ何なんだよ、退学になりたいのか?」
襟を掴んできたのは神代零司。重度の中二病で、「ヒーローになりたい」などと真顔で語るタイプ。
そしてその隣で、いつも喧嘩を止めに入るのが、小鳥遊 悠という平和主義者だった。
キーンコーンカーンコーン──授業のチャイムが鳴った。
「チッ、今回はこれで許してやる。」
「九条くん、大丈夫?」
橘が心配そうに聞いてきた。
「平気だよ。」
授業が始まり、先生が数学のテストを返却し始める。
「椎名、白石、橘。……橘さん、今回はちょっと失敗しちゃったね。次は頑張ろうね。」
僕は思わずニヤリと笑った。やっぱり、完璧な彼女でもミスはするんだな。
「九条!九条!九条!」
先生が僕の名前を大声で呼ぶ。
「はーい!」
「お、なかなかいいじゃないか。点数、よく維持してるな。」
「あ、あ、ありがとうございます……」
得点は95点。まあまあの出来だ。
「えっ!九条くんも95点!? 私と一緒だね!前回より1点上がったでしょ?すごいじゃん!」
橘が僕の答案用紙を覗き込みながら言ってくる。
「関係ないでしょ。別に初めての点数でもないし……って、近い近い!」
「はーい、二人とも静かに~授業始めますよ~」
先生が黒板を叩きながら注意した。
僕たちは各自の席へ戻った。
心の中に疑問が浮かぶ──
この子、どうしていつも僕に話しかけてくるんだ?
別に昔からの知り合いでもないし、中学も別だった。
まさか……家柄目当てか?
キーンコーンカーンコーン──下校のチャイムが鳴り、教室は一気に賑やかになる。
「やったー!放課後だ!カラオケ行こうよ!」
「橘~、新しくできたカフェ行かない?」
「ごめん、今日私当番なの。」
「瀬戸も当番じゃなかったっけ?」
「彼、補習があるって先に帰っちゃった。」
時が流れ、教室は静かになった。
30分後、残っていたのは橘一人。彼女は机を並べ終え、息を吐いた。
「ふう……やっと終わった。」
彼女が伸びをして帰ろうとしたその時──
「なあ、橘。」
僕は教室の入口に立ち、声をかけた。
橘は驚いたように振り返った。
「九条くん?こんな時間にまだ帰ってなかったの?」
「聞きたいことがある。……なんで、いつも俺に話しかけてくるんだ?」
彼女は突然笑い出した。
「ははははっ──それを聞くためにわざわざ残ってたの?」
「笑うなよ。そんなにおかしいか?」
なぜだか顔が熱くなる。
「だって、九条くんが自分から話しかけてくるなんて、初めてだもん。なんか慣れないよ。」
「それで?」
「なんでだろ~?なんでだろ~?なんでだろ~?」
彼女はイタズラっ子のような笑みを浮かべた。
「ふざけんなよ、早く言えって!」
「はいはい、じゃあ……ん~~~」
彼女は首を傾げ、少し考えてから答えた。
「君って、特別なんだよね。」
「どういう意味?」
「他のみんなが私に告白しようと必死になってる中、あなただけはずっと席に座って小説読んでるだけで、私のことなんて全然気にしてない。だから思ったの、『え、私って完璧なのに、なんで興味持たれないの?』って。
きっと我慢してるに違いない、そうに決まってる!って。だから決めたの。絶対に君の気を引いてみせるって。」
「……努力してたんだな。じゃ、じゃあな。」
僕はそのまま帰ろうとした。
「ちょっと!九条、待ってよ!私、真剣に気持ち話してるんだよ!?」
橘が僕の腕を掴んだ。
「今までありがとう。でも悪いけど、僕は君に興味ないんだ。……それだけ。」
僕は彼女の手を振り払い、校門前に停まっていた車に乗り込んだ。
橘は目に涙を浮かべながら、ぽつりと呟いた。
「なんで……なんで君は、私に興味を持ってくれないの……?
こんなに頑張ったのに、こんなに好きなのに……九条のバカ!バカ!バカ!」
彼女はひとり、鞄を背負って校門を後にした。
(車内)
「坊ちゃま、今日はお迎えの時間を遅らせたいと仰っていましたが、何かございましたか?」
「別に、大したことじゃない。ちょっとした私事。」
「もしかして……彼女ができましたか?」
「するわけないだろ、まったく。」
「ですが、顔が真っ赤ですよ?」
「ただクラスメイトと少し話していただけだって。」
「お相手は……男性ですか?女性ですか?」
「女子だよ、同じクラスの。」
「お名前は?」
「橘心愛。学校では模範生って呼ばれてる。」
「どんな方なんです?」
「優しくて、気が利いて、成績も良くて、人望もある……って、俺なんでお前にこんなこと話してんだ?関係ないだろ!」
「ははは、いえいえ。坊ちゃまの学園生活が順調か、少し気になりまして。まだ転校して三ヶ月ですし。」
「もういいから。今日のこと、親父には言うなよ?」
「かしこまりました~~~」
彼は僕の専属運転手兼執事──真田悠人。
母を除けば、恐らくこの世で僕のことを最も理解している人物だ。
家事全般を得意とし、僕が落ち込んでいる時はさりげなく話をしてくれる、まさに僕にとって最も信頼できる存在の一人である。
(10分後)
「坊ちゃま、屋敷に到着しました。どうぞお降りください。カバンは私がお部屋までお持ちします。
それと、旦那様が書斎でお待ちとのことです。」
「わかった。」
車を降り、屋敷に入り、エレベーターで父の書斎へと向かう。
コンコン
「入れ。」
低く落ち着いた声が部屋の中から聞こえる。
僕は重たい扉を押し開けた。
そこにいたのは、机に座る一人の男──九条惟道。
九条家の当主であり、僕と詩織の父だった。