第9話:突然の帰還
「おい、どうした? 急にぼーっとして」
田辺はジョッキを軽く傾け、中のビールを揺らしながら、グラスの中で泡が弾けるのをぼんやりと見ていたが、俺の不穏な様子に気づいたのか、眉をひそめ、少し身を乗り出して俺の顔を覗き込んできた。
(……な、なんで戻ってきた?)
あの村はどうなった? 盗賊団は? セシリアは?
頭の中で混乱が渦巻く。
「お前、顔色悪いぞ。酔っちまったのか?」
「あ……いや、なんか……」
口を開きかけたが、喉が詰まるような感覚に襲われた。
唇が乾いて、うまく声が出ない。
焦るほどに、息が浅くなる。
思わず手元のジョッキを掴もうとするが、指が軽く震えているのがわかった。
……時間は? どれくらい経った?
俺はスマホを取り出し、時間を確認する。
——21時30分。
おかしい……
異世界で過ごした時間は、どう考えても3日はあった。
だが、スマホの時計は、俺が居酒屋にいた時間と、恐らく変わっていない。
「お前、顔色マジで悪いぞ。いや、悪いっていうか……なんか変だ。どっか具合悪いのか?」
「……いや、大丈夫。ちょっと疲れただけだよ」
「ならいいけどよぉ。ほんとに無理すんなよ?」
「あ、ああ……悪い、ちょっと考えごとしてたんだ」
田辺は”なんだそれ”と苦笑しながら、ジョッキをグイっとあおった。
「まぁ大丈夫ってなら、それでいいけど。そろそろ帰るか?」
「……ああ、そうするか」
椅子を引いて立ち上がると、一瞬だけ足元がふらつく。
意識ははっきりしているはずなのに、頭が異様に重い。
田辺はそんな俺の様子を見て、怪訝そうに目を細めた。
「なあ、本当に大丈夫かよ?」
「すまん。ちょっと酔いが回ってるみたいだ」
強引に言い訳しながら、俺は田辺と共に店を出た。
◆
店を出ると、ネオンの明かりが目に入り、都会特有の喧騒が耳を打った。
通りには飲み会帰りのサラリーマンが笑い合い、スマホをいじりながら歩く人がすれ違う。
どこにでもある、見慣れた光景。
だが、妙に今は落ち着かない。
「なんか、息苦しくないか……?」
「どうした? マジで体調悪くなっちまたか? どこかで休むか?」
田辺が心配そうにこちらを見たが、俺自身も自分の状況をうまく説明できなかった。
そう、まるで自分がこの世界に”戻ってきた”こと自体に、身体がついていけてないような——そんな感覚だった。
現実世界——そう言わざるを得ないこの世界の街並みが、どこまでも普通に広がっている。
コンビニの明かり、車のヘッドライト、道行く人々の笑い声。信号が青に変わり、歩行者が一斉に動き出す。
その何気ない日常の光景が、今はどこか遠い世界のもののように感じられた。
(……本当にあの出来事は夢だったのか?)
ポケットをまさぐる。
服も元通り、スマホも財布もそのままだ。
「だけど、どう考えても、夢、じゃないよなぁ」
あまりにもリアルすぎる記憶と痕跡に、俺は異世界での出来事を夢と片付けることができなかった。
◆
「……ただいま」
玄関の鍵を開け、電気をつける。
誰もいない家。
普段なら当たり前の光景なのに、今はやけに寒々しく感じる。
俺は靴を脱ぎ、ダイニングに向かう。
キッチンのコンロには昨日のままの鍋が置かれ、リビングのテーブルには読みかけの小説が伏せられている。
何も変わらない、いつもの俺の部屋——なのに、どこか居心地が悪い。
ここが"本来の世界"なのに"帰ってきた"という感覚が薄いのはなぜだろう?
ソファに腰を下ろし、深く息を吐く。
いつもなら安心できるはずの自分の部屋なのに——まるで、ここが"俺の居場所じゃない"ような感覚に襲われた。
俺は深く息を吐きながら、スマホを手に取った。
「……少し整理してみよう」
俺はスマホのメモ帳を開き、記憶を書き留めることにした。
①確かに異世界にいた。
②森の中で黒狼に襲われ、セシリアという冒険者に助けられた。
③セシリアと共に辺境の村に向かい、村人たちと関わった。
④俺は"渡界者"と呼ばれる存在と認定された。
⑤盗賊団の襲撃が迫り、防衛策を考えた。
⑥セシリアと一緒に料理を作った。そして——カレーを食べた瞬間、帰還した。
⑦現実世界の時間は、一切進んでいなかった。
書いたメモを見返しながら、疑問を口に出してみる。
「……どうやったら、もう一度行ける?」
「カレーを食べた瞬間に帰還した……ってことは、それが帰還条件なののか?」
「じゃあ、次に行った時もカレーを作れば帰れるのか?」
「食べた料理が関係? それとも、俺が異世界で何かしたのが原因に?」
「いや、俺の行動が帰還の条件とは限らいないな。別の誰か……もしくは事象?」
「……でも、それって全部確証がないことだよな」
「つまり、また行ったとして、帰れるとは限らない……」
天井を見つめながら、心の中を整理していく。
——もう一度行って戻れるとして、俺は本当に行くべきなのか? 行きたいのか?
——セシリアは、村は、俺がいなくてもどうにかなっているかもしれない。
——だが、もし……もし俺が必要とされていたとしたら?
——俺が行かないことで、あの村が、セシリアがひどい目に合うかもしれない。
無意識に、拳を握っていた。
まだ答えは出せない。
だが、一つだけ確かなことがある。
俺は、このまま何もしないでいることが、とても恐かった。
「……くそっ」
◆
こうして、俺の最初の異世界転移は幕を閉じた。
だが、それが終わりではないことを、俺はまだ知らない。
いや——知らなかっただけなのかもしれない。