第35話:美咲を巻き込んだ三回目の転移
空気が変わった。
さっきまで俺たちは朝日岳の山頂にいたはずだ。澄み渡る青空の下、強い風が吹き抜け、肌寒さを感じながら足元の登山道を踏みしめていたはず。それが今では、一面に広がる見知らぬ草原と、踏み固められた土と砂利が混ざった街道が目の前に広がっている。道幅は広めで、馬車がすれ違える程度の余裕があり、長年の往来を思わせる車輪の跡が無数に刻まれていた。
——また異世界に来た
いつも通りなら、奈落の森のどこかに投げ出されるはずだった。
しかし、今回は違う。
目の前に広がるのは見渡す限りの平原。森の鬱蒼とした影はどこにも見えない。
そして、俺の背中には、美咲がいる。
美咲が俺の背中でわずかに身じろぎし、微かに息を整える気配が伝わってきた。
「……せ、先輩?」
状況が分からず混乱しているのか、美咲の声は戸惑いを帯びていた。彼女を背負ったまま、俺は慎重に周囲を見渡してみる。街道にはまばらに人が行き来しているが、俺たちは少し離れた岩陰にいるためか、特に気にされている様子はない。
そっと美咲を地面に下ろし、俺もその場に腰を下ろした。
「……先輩? ここ、どこ……です?」
美咲は目をこすりながら、周囲を見渡し、言葉を失った。さっきまでの登山道とは明らかに違う景色。草原の向こうに見える街道、人影、そして空の色。あり得ない光景がそこに広がっていた。
「え……? いや……どういうことですか……?」
目に見える情報を処理しきれず、混乱と戸惑いが交錯しているのが分かる。しかし、美咲は大きく息を吸い込み、一度目を閉じた後、俺の顔をまっすぐ見る。切り替えが早くて助かった。
「ひとまず落ち着こう。ちゃんと説明するから」
俺は静かに言い聞かせるように、美咲の肩に手を置いた。彼女は混乱を落ち着かせるように俺を見つめている。動揺はしているが、パニックにはなっていない。さすが、仕事でも冷静な対応を見せるだけのことはある。
「美咲、聞いてくれ。俺たちは今……異世界にいる」
「……え?」
一瞬、美咲の表情が固まった。
その後、まばたきを数回繰り返し、何かを言おうとしたが、言葉が出てこないようだった。
「い、異世界……ですか?」
ゆっくりと、確かめるように呟く。
「ああ。信じられないかもしれないけど、これは事実なんだ」
「あの……ちょっと待ってください。異世界って……」
美咲は口元に手を当て、考え込むようにうつむいた。そして、しばらく沈黙した後、ふっと顔を上げた。
「……先輩、もしかして、この場所に来たのって……初めてじゃないですよね?」
その言葉に、俺は少し驚いた。
さすがに、勘がいい。
「まあ、そうだな。実はこれで三回目だ……」
俺は少し言葉を切り、視線を落とす。
「悪い、北沢……俺が巻き込んでしまったようだ
美咲はしばらく俺を見つめた後、小さくため息をついた。
「やっぱり……最近、先輩の様子がおかしかったのもコレのせいですか? 急に料理が異常に上手くなったり、身体能力が向上してたり、なんか妙に達観してるところもあって……。あれって、この世界に何度も来てたから、ですよね?」
俺は苦笑するしかなかった。さすがに俺を観察していたというだけある——これはもう、誤魔化しようがないな
「ああ。そういうことだな」
「そうでしたか……」
美咲は腕を組んで考え込む。
「……それで、先輩。ここって、言葉は通じるんですか?」
「ああ、それは問題ない。俺も最初は気になったんだけどな。気づいたら普通に会話できてた」
「へぇ……異世界モノのお約束みたいですね?」
美咲の口から、そんな言葉が出てきて、俺は少し驚いた。
「お前、ラノベとか読むのか?」
「え? あ、はい……結構好きです。えっと、こういうのって大体、転移したら『言語適応能力』とか『翻訳魔法』とかがあるっていうお約束ですよね?」
「……なるほど、お約束って言うあたり、結構読んでるな」
美咲は少し照れくさそうに笑った。
異世界転移に関する知識があるようで、美咲の理解が早くてありがたい。
もちろん、混乱していないわけではないだろうが、必要以上に取り乱すこともなく、状況を冷静に受け止めようとしている。美咲の”状況把握”の特性が良く出ている。
「さて、さしあたっての問題は……俺たちがどこにいるか、だな」
俺は立ち上がり、草原の風を感じながら、ゆっくりと辺りを見渡した。
遠くには、土と砂利でできた街道が続き、馬車の車輪跡が何本も刻まれている。まばらに人影が動いているが、ここからでは表情までは分からない。
◆
「カドアビの村を目指すには、まず奈落の森の位置を確認する必要があるな」
そう考えて、遠くに目を凝らしてみる。
すぐに目に入ったのは、地平線の彼方にそびえ立つ巨大な人工物。その圧倒的な威圧感が、異世界にいることを改めて突きつけてくる。
そう、この建造物こそが、俺がこれまでの異世界転移で目にしてきた巨大な塔だ。
「あの塔……ってことは、あっちが奈落の森の方向か……?」
だが、違和感があった。
これまで転移した際は、奈落の森の木々が周囲に広がっていた。しかし、今はその森の端すら見えない。つまり、奈落の森まで相当な距離があるということか。
「……ずいぶんと遠いな」
美咲も俺の視線を追いながら、微かに首を傾げた。
「先輩、その『奈落の森』って何ですか?」
「……そうか、そりゃ知らないよな」
今は取り急ぎの説明で我慢してもらおう。
「あの森は、エルバーディア王国——俺が過去の2回に転移した国の東全域を覆う広大な森で、どこまで続くのかすら分かっていない。俺がこれまで転移してきた場所は、どれもその森の近くだった。でも、今回はどうも違うらしい」
「そんなに広い森があるんですか……」
「広いどころの話じゃない。だが、これだけ森が見えないのは初めてだな……」
俺は腕を組みながら、さらに周囲を観察する。
草原の中に伸びる街道には、馬車のわだちがいくつも刻まれていた。旅人や商人と思われる人影が遠くに見えるが、人数はそれほど多くはない。まばらに行き交う程度で、活気があるとは言い難い。
視線を街道の片方へ向ける。
この道は塔の方向へ続いているから、奈落の森へ向かう道である可能性は高いが、確証はない。どこまで行けば森の縁に辿り着けるのかは分からないし、その終着点がカドアビの村であるとは限らないだろう。
「で、もう片方は……?」
反対側へ目をやると、地平線の向こうにうっすらと何かが見えた。遠くにそびえる壁のようなもの——。
「……あれは城壁か?」
距離はあるが、明らかに人工的な構造物だ。都市を囲む壁の可能性は高い。
「先輩、あの壁、何ですかね?」
「たぶん……城塞都市か、あるいは大きめの町か。とにかく、あっちのほうが近そうだ」
奈落の森へ向かうのも一つの手だが、道のりが不明確すぎる。それに、美咲を連れている以上、無闇に行動するのは危険だ。
俺は美咲に向き直った。
「ひとまず、あの壁のある場所を目指そうと思う。北沢を連れて、行き先も分からない道を進むのは無謀すぎる。確実な選択を取るべきだ。俺が知っている村に行けるならベストなんだが、先が見えない以上……な?」
「はい、私もそう思います」
「よしっ」
美咲も異論はないようだ。方向が決まった以上、ここでじっとしている理由はない。俺たちは、城壁のある方向へと足を進めることにした。




