第2話:異世界の森と黒き獣
静寂が支配する森の中、俺はひとり呆然と立ち尽くしていた。
夜の空気はひんやりとしていて、肌を撫でる風はどこか湿り気を帯びている。
草の匂いに混じって、ほのかに土の香りと、かすかな花の甘い香りが漂っていた。
しかし、それらの匂いに覚えはない。
どこか馴染みのない、異質なものが混ざっている気がする。
首を上げると、目に飛び込んできたのは異常なほど真っ黒な空。
そこに浮かぶ星の輝きは、俺の記憶とは配置が違っていた。見慣れた北斗七星もオリオン座はどこにも見当たらない。
耳に聞こえてくるのは、時折遠くで響く虫の鳴き声と葉擦れの音だけで、あまりにも静かすぎた。
木々が揺れる音はするのだが、当たり前の何かが足りないような気がした。
そうか――生き物の気配がほとんどないのか。
森なのに、小動物の気配がほとんど感じられず、昆虫の羽音すら聞こえない。
ただ、風が木々を揺らし、草を擦る音だけが、やけに大きく響いていた。
まるでこの森全体が、俺という異物を警戒しているような感覚に襲われた。
これは現実なのか? それとも夢なのか?
いや、そんなことを考えている場合じゃないな……。
今置かれている状況を、冷静に整理しなくちゃ駄目しなくちゃダメだ。
俺はついさっきまで、居酒屋で田辺と飲んでいたはず。
そして、あの適当な作り話をして……その直後に、ここにいる。
「うん。何がなんだか解らん! 整理のしようがないわ」
額に手を当て、軽く頭を振って、内に向いていた意識を再び外に向けてみる。
――寒気がするほど静かだな。
ポケットを探り、スマホを取り出す。
「圏外……そりゃそうだよな~」
GPSも機能せず、時間も変化なし。
充電は残っているが、役に立ちそうにない。
次に財布、鍵と順に確認するが、どれも所持していることに変わりはなかったけれど、まぁそれだけだ。
特に役に立ちそうにない。
「まずは……この場所がどこなのかを探るしかないか」
俺は深呼吸し、ゆっくりと足を踏み出した。
◆
しばらく歩いていると、静けさだけでなく森の異様さが色々と目に入ってくる。
木々は異常に高く、幹が太い。枝葉の形も、日本で見たことのあるものとは違う。時折、木の根本に奇妙な形のキノコ?が、光を放っていたりする。
「発光するキノコ……? いや、待てよ……ヤコウタケか?」
俺はしゃがみ込んで、それをじっくり観察してみる。
発光するキノコといえばヤコウタケが頭に浮かぶけど、ヤコウタケといえば確か八丈島——まさか、ここは八丈島だったのか!?
「って、そんなわけねー!」
首を振ってその仮説を否定する。
確かに、日本にはまだ知られていない秘境みたいな場所があるかもしれない。 けど、俺が知る限り、こんな場所は聞いたことがない——俺はそこそこ山とか森には詳しいのだ。
周囲を見回すと、キノコに照らされて奇妙な植物が生えているのが目に入った。どれも見たことのない形状で、葉脈がやたらと発達している。明らかに、日本の森林とは植生が違う。
そして、一番気になるのは——森の合間からわずかに覗く、ぼんやりとした巨大な輪郭。
「……山? いや、あれ……柱か?」
森の向こう、わずかな月明かりに照らされながら、不気味に浮かび上がる巨大な影のようなシルエットが見える。
霧がかかっているのか、輪郭ははっきりしないが、妙に直線的な形状が目についた。
自然物ならば、もっと不規則な曲線や凹凸があるはずだ。しかし、それは塔のように真っ直ぐで、一定の間隔で区切られたように影を落としていた。
まるで……建造物の柱か何かのように。
「いやいやいや、そんなデカい建造物、日本にあったか?」
俺はゴシゴシと目を擦るが、視界の隅にあるその異様な影は消えない。
それどころか、見るほどに不気味な印象を受ける。
いよいよもって、ここが日本ではない可能性が高くなってくる。
「……やっぱ、ここが八丈島——いや日本だっつーのは無理があるよな」
そう口に出して確認したとき——空気が変わった。
ピリッとした緊張感が肌を刺す。
まるで、何かに見られているような感覚。
ゴクリと唾を飲み込み、ゆっくりと周囲を見渡す。
風が吹いているだけだ、と自分に言い聞かせようとする。
だが——
カサ……。
明らかに何かが草むらを踏む音がした。
反射的に音の方向へと目を凝らす。
そこにいたのは——狼のような姿をした、異形の獣だった。
黒々とした毛並みは月光を吸い込むように鈍く光り、筋肉質の体躯はまるで戦闘用に鍛え上げられたかのようだ。
普通の狼と違うのは、その異常なまでの大きさと、鋭く光る赤い目。
まるで、こちらの一挙手一投足を見逃すまいとする捕食者のようだった。
なんだ、こいつ……。
じりじりと迫るその獣を前に、瞬間に停止していた思考をフル回転させ獣の特徴を整理してみるが、思いついたのは『何か名前をつけておいた方がいいかもしれないなぁ~』なんて呑気なことだった。
「よしっ! 君の名前は今日から黒狼!!」
いや、ふざけてる場合じゃねぇ!
冗談で誤魔化したかったが、目の前の状況は洒落にならない。
今はこの状況をどう切り抜けるかが最優先だった。
「グルルル……!」
黒狼が低く唸り、背中の毛を逆立てる。
その瞳が鋭く細まり、わずかに前足が沈み込んだ瞬間——
ドンッ!
爆発するような勢いで地面を蹴り、黒狼が跳んだ!
「うわああああっ!」
反射的に転がるようにそれを避ける。
背後の地面に、黒狼の鋭い爪が突き刺さったのが見えた。
「な、なんだよ、これ……っ!」
心臓が爆発しそうなほど高鳴る。
逃げなきゃ殺される!!!
理屈じゃない。生存本能が叫んでいる。
俺は全力で、だが闇雲に走り出すしかなかった。
◆
必死で森の中を駆け抜ける。
木々の間をすり抜けながら、足元の枝を踏み砕きながら、とにかく前へ、前へ。
しかしヤツの追い足は当然ながらに速かった。
「っ……ダメか……!」
息が切れ始め、心臓が激しく脈打つ。
だが、俺の足はまだ動く。普段のトレーニングで走り慣れているとはいえ、こんな極限状態での全力疾走は初めてだ。
黒狼の気配は背後にぴったりと張り付いている。
時折、地面を蹴る爪の音が耳に響くたびに、背筋が凍りついた。
俺はできるだけ木々の間を縫うように走り、黒狼の追撃を遅らせることを試みる。
「っ……クソッ、振り切れねぇ!」
頭の中で必死に策を巡らせる。
だが、これだけの密林では、方向感覚が狂うだけで、何ができるわけもない。何も思いつかない!
次第に、脚が重くなり始め、呼吸が浅く早くなり、肺が焼けるような感覚に襲われた。
このままでは——捕まる。
(まだ限界じゃない。まだいける)
自分で自分を励ましてみたが、足元の感覚も鈍ってきて、思考は絶望に染まっていく。
シュッ……!
刹那に発された鋭い風を切る音とともに、銀色の閃光が闇を裂いた。
次の瞬間——黒狼が鋭く鳴き、追いかける足を止めたのが分かった。
振り返って確認すると、黒狼の前脚の付け根に、短剣が突き刺さっていた。
草をかき分ける音とともに、何者かが素早く俺の前へと飛び出してくる。
その動きは獣のものではなく、確かな意志を持った人間のものだった。
俺の視界に飛び込んできたのは、一人の女剣士だった。
ブロンドの髪をポニーテールにまとめ、月明かりを受けて鈍く光る甲冑をまとった堂々たる立ち姿。
手には美しい装飾が施された剣を握りしめ、まるで舞台の上で戦うかのように優雅な構えを見せていた。
女が、こちらにチラリと目線を投げて寄越す。
鋭い眼差しは武人のようだが、その所作は妙に畏まっていた。
剣の構えは堂に入っているのに、どうにも堅苦しい。
型通りすぎるというか、まるで状況に合わせることよりも、見た目の美しさを意識しすぎている感じがする——俺はそこそこ剣の道にも詳しいのだ。
女は黒狼に近づくと、一歩踏み込んで牽制するように剣を構える。
やはり、その構えはどこか洗練されすぎていて、まるで演武の一部のように見えた。
黒狼はしばらくこちらを睨みつけていたが、女が、黒狼に向かって淀みなくと歩み寄ると、一瞬怯んだように体を沈めた。
何かを悟ったように低く唸り声を上げ、突き刺さった短剣の痛みを気にするように鼻を鳴らすと、踵を返して森の奥へと消えていった。
まるで『仕方ない。今回は見逃してやろう』とでも言いたげな動きだった。
「……助かった……のか?」
へたり込む俺に、女が歩み寄ってくる。
「お、おぬし……いや、貴様! ち、違う! ええい、こういう時は何と言えば……そ、そうだ! お前、なぜこんなところに一人でいるのだ。危ないだろうが!」
「……それは、こっちが聞きたいんだけど」
息を整えながら、俺は彼女を見上げた。
この世界で、初めて出会った人間。
そしてそれは、俺の運命を変える出会いだった——。