第14話:再び奈落の森へ
眩しい光が一瞬視界を覆ったかと思うと、次の瞬間、俺の足は固い地面を踏みしめていた。
意識がぼんやりとしている。
目の前の景色が不明瞭で、どこにいるのかすぐには分からなかった。
「……ん?」
何が起きたのか、頭が混乱している。
確かにさっきまで会社のラウンジで田辺と話していたはずだ。なのに、今は——。
足元の感触が妙に柔らかく、湿った匂いが鼻をつく。
風がひんやりと肌を撫で、木々のざわめく音が耳に聞こえた。
「……え?」
徐々に視界と視点の焦点が合ってくる。
見渡すと、そこには深い森が広がっていた。木々が生い茂り、空を覆うように枝葉が広がっている。
まるで、どこかで見たことがあるような——。
右手に違和感を覚え、握りしめていたものを確認すると、それは熊よけスプレーだった。なぜ自分がこれを持っているのか、一瞬理解が追いつかない。
頭の中でパズルのピースがはまるように、状況を整理しようとする。だが、混乱した脳がそれを阻んでいるようでもどかしい。
「……待てよ、これって……」
当たり前だが、直前までいた場所とあまりにも環境が異なりすぎている。手元にある熊よけスプレーを見つめながら、頭の中で状況を整理しようとするが、なかなか考えがまとまらない。
ゆっくりと視線を上げると、遠くの木々の間から薄暗い空が覗く。微かに差し込む光が、辺りを照らしている。立ち尽くしながら深く息を吸い込むと、確かに空気が異なることに気づく。
——この森は、どこかで見たことがある。
しかし、確信は持てない。
だが、周囲の風景や空気の感触から、ここが奈落の森である可能性は十分に高いと考えられる。
軽く息を吸い込み、冷静さを取り戻そうとする。まずは状況を整理しなければ。
俺はゆっくりと歩き出した。
枝葉の擦れる音の中に、獣の気配があったりしないかと耳を澄ませながら、森の中を慎重に進んでいく。
しばらく進んだところで、木々の隙間から遠くに見えるものがあった。
「……あれは……」
それは、巨大な人工物だった。
遠くの木々の間に巨大な構造物がぼんやりと浮かび上がるのが見えた。異様なまでにまっすぐな輪郭、その圧倒的な存在感に、記憶の奥底がかすかに刺激される。
——どこかで見たことがある気がするな
以前、森をさまよっていたとき、遠くにぼんやりと見えたものと同じだ。
あんな巨大な建造物が他にあるとは思えない——奈落の森で確定だ! あれを基準にすれば、村の方角がある程度推測できるのではないかと、俺は考えた。
「よしっ! 村に向かって見るか」
俺は再び周囲を確認すると、慎重に歩を進めた。
◆
二時間ほど歩いた。
森の中は、思った以上に過酷だった。
足場は不安定で、湿った土に何度も足を取られそうになる。木の根が複雑に絡まり、うっかり踏み外せば捻挫しそうな場所ばかりだ。
小さな沢を渡る際には、慎重に石の上を進むしかない。枝葉が視界を遮り、獣の鳴き声が時折響くたびに心拍数が上がる。
この前はセシリアが一緒だったが、きっと彼女は俺が歩きやすいように、色々と手を回してくれていたのだろう。俺は彼女の笑顔が無償に見たくなった。
「くそ……思ったより、進めてないな」
息を整えながら立ち止まり、周囲を見渡す。
村はまだ遠いのか、それとも別の方向に向かっているのか? だが、無闇に焦っても仕方がない。
「……進むしか……ないか」
俺は気を取り直し、さらに前へと進んだ。
さらに二時間ほど森を進む。
脚に疲労が溜まり、膝が重くなってくる。
背中はじっとりと汗で湿り、呼吸が荒くなる。
空腹も感じ始めていたが、何も食べるものがない。
喉も渇くが、持っているのは熊よけスプレーだけだ。
歩くたびに、ほんのわずかな足音にも警戒心が強まる。枝を踏む音すら神経に障るようになっていた。昼間は何とか冷静を保てたが、辺りが暗くなり始めると、不安が次第に募ってくる。
——こんなに時間が経ってるのに、まだ村にたどり着けないのか?
焦りが胸を締めつける。道を間違えているのではないか? 進んでいるつもりが、逆方向に向かっている可能性は?
頭の中で様々な不安が渦巻く中、遠くで獣の遠吠えが響いた。
陽が沈み、辺りは次第に暗くなり始めた。
疲労は限界が近い……!
日が落ちると森の雰囲気は一変する。
昼間はただの静寂だったものが、夜になると、どこからか得体の知れない気配が混じってくるように感じた。
「……そろそろ野営を考えた方がいいな」
安全な場所を探すべく、ゆっくりと周囲を確認しながら進んでいると、ふと、前方に微かな光が揺れているのを見つけた。
「……明かり?」
心臓が高鳴る。
村か? それとも盗賊団の拠点か? ここで無闇に突っ込めば、もし盗賊団だった場合、あっという間に捕まる。だが、もし村だったら、夜の森をさまようよりも安全な場所に避難できる。
「……どうする?」
俺はしばらく逡巡した。
だが、次の瞬間——
「おーい! ナオヤ! ナオヤではないか!?」
見張り台の上から声が響いた。
俺の全身が、一瞬で緊張から解放される。
声が聞こえた瞬間、胸が締めつけられるような感覚が広がった。
森の中で一人、暗闇に包まれ、行く先も分からずさまよっていた不安が、一気に霧散するようだった。
長い時間を歩き続け、疲労と焦りに押しつぶされそうになっていた。誰にも助けを求められず、ただひたすらに進むしかなかった孤独。
その孤独を一瞬で塗り替える、聞き慣れた声。
「……セシリア……!」
口に出した瞬間、喉が詰まりそうになった。安堵と嬉しさ、安心感が一度に押し寄せ、目の奥が熱くなる。
これは幻聴じゃない。本物だ。
体が無意識に前へ進む。村の灯りを目指し、焦がれるような思いで歩き出す。
「ちょっと待ってろ!」
見張り台から声をかけたセシリアが、村の門を開けて駆けてくる。
そして、俺の目の前で足を止めると——
「突然消えてしまったから、心配していた。無事なのか?」
そう言って、俺を強く抱きしめた。
驚きとともに、俺の胸の奥に、ようやく「帰ってきた」という実感が湧き上がった——。




