第1話:最初の嘘と異世界転移
喧騒に包まれた居酒屋の一角。
仕事終わりの男たちが集うカウンター席で、俺――藤倉直哉は、ジョッキの中のビールをゆっくりと傾けた。
こうして飲んでいると、日々のストレスが少しだけ和らぐ気がする。
特に誰かと騒ぎたいわけでもなく、かといって一人で飲むのも味気ない。
適度な距離感で会話を楽しめる相手がいれば、それで俺には十分だった。
ビールの冷たさが喉を通り抜け、程よい苦味が口の中に広がっていく。
『この瞬間のために働いているっ』ていうヤツの気持ちが少し理解できる気がした。
別に酒に狂っている程ではない俺だが、こうして一日の終わりに飲む一杯は、やはり格別なのだよ。
35歳、独身。
仕事はそこそこできるが、出世欲はない。
むしろ、余計な責任を背負うくらいなら、今のポジションで気楽にやっていたい派だ。
そんな俺の数少ない息抜きが、多種多様にわたる趣味(一人遊びともいう)と、こうした居酒屋での時間だった。
特に料理なんかは趣味を超えて、もはや生活の一部になってさえいた。
「なぁ、お前さ。料理ってどれくらいガチでやってんの?」
向かいの席に座る田辺が、焼き鳥を片手に聞いてきた。
彼は同い年の同期で、俺と違って家庭を持つ男だ。
短く刈った黒髪と、適度に日焼けした肌がいかにも家庭的な雰囲気を醸し出している。
性格は明るく、話し上手。俺にとっては気楽に飲める数少ない友人でもある。
「ん~?」
「お前が自炊派なのはよく知ってるけどさ。たまに会社の連中に差し入れしてるじゃん? あれって趣味の延長? それともガチに料理人めざしたりしてんの?」
「いやいや流石に趣味よ? 作るのが楽しいってだけで、特別な理由はないかな~」
「なんかさ、お前って色々と無駄に凝り性だよな。カレー作るのにスパイスから調合したりしてんじゃねーの?」
「……するけど?」
「えぇ……マジかよ。そこまでやると、もはやプロの領域じゃね?」
「何言っちゃってんの? そんなのカレー好きなら普通だろーが。スパイスの配合一つで全然違う味になるんだぜ? それに、料理だけじゃなくてアウトドアとかもやるからな。キャンプ飯とか、結構こだわって作るしさ」
「いや、そこは普通じゃねーよ。てか、お前さ……昨日何してた? どうせ、なんぞの趣味を極めてたんだろ?」
「なんで昨日?」
「会社の飲み会来なかったじゃんか? なんか用事あったんだろ?」
田辺の問いに、俺は少し思い出していた。
昨日は確か、ひたすら自宅でスパイスの調合を試して、新しいカレーレシピを作っていたんだった。
つーか、会社の飲み会なんて全力でお断りなのだが。大人数で飲んで何が楽しいか、俺には全く理解できん!
でもな~、それをそのまま話しても面白くない……かな。
そもそも、料理へのこだわりなんかを話すと、田辺をはじめとした同僚たちには、なんだか引かれちゃうんだよね。
だったら、適当に話を面白おかしく盛ってしまったほうが場の空気も和むし、ツッコミを入れてもらいながら話を楽しんでもらえるはずだ。
「いやー、実は昨日、ちょっと変わった出会いがあったんだよ……。妙に品のいい白髪のじいさんに、手作りのカレーを御馳走してたんだよね。白いローブみたいなの着ててさ、まるで神様みたいな風貌だったんだよな」
「……なにそれ?」
田辺が一瞬、箸を止めて俺を見た。
「橘……お前、もう酔ってんのか?」
「いや、本当なんだって。なんかさ、白いローブみたいなの着た不思議な雰囲気のじいさんが道端に座っててさ。『腹が減って動けん……』とか言ってるのよ。で、俺、ちょうど仕込んでいた自信作のカレーが家に作り置いてあったから、これはもう運命的な出会いだ! と思って、家に御招待して食わせてやったのよ」
「まじか!?」
田辺が『わけわからん!』って顔をしているのを横目に、俺は適当に話を作り続けた。
「そしたらさ、そのじいさんがさ『これは神の味だ……!』とか言い出してさ~。『君は天啓を受けるべき料理人かもしれない!』とか、意味不明なことを言いながら去っていったんだよね」
「……お前、なんでそんな話を真顔で作れるんだよ。作り話にしてもクオリティがヒデェし」
「マジなんだって! 俺が作ったカレーだからな。それくらいのリアクションがあっても不思議じゃないよ。ウンウン」
「いや、ツッコミどころ多すぎてどこからツッコめばいいかわかんねぇ……」
田辺がため息をついた、その瞬間だった。
目の前が強い光に包まれたように真っ白になって、それから急激に闇に染まっていった。
——そして、地面に叩きつけられるような衝撃が体を襲った。
◆
「っ、うわ……」
目を開けると、俺は湿った草の上に転がっていた。
鼻をつくのは、土の匂いと青々とした草の香り。背中には、地面の冷たさと湿り気がじんわりと染み込んでくる。
「……っ」
ゆっくりと顔を上げると、目に飛び込んできたのは……
「……え、月が二つ――ある?」
空に輝いていたのは、見慣れた満月とは違う。
まん丸だが青白い光を放つ月が二つ。
それも、まるで並ぶように空を照らしていて、その光は冷たく、幻想的で、まるで現実味がない。
周囲を見渡せば、深い森がどこまでも広がっているようだ。
木々は異様に高くそびえていて、その枝葉がまるで夜空を覆うかのように黒々としていた。
風が吹き抜けるたびに、葉の擦れる音が不規則に響き、まるで誰かが低く囁いているような錯覚を覚える。
背中を冷やす地面が、同時に頭を冷やしてくれたようで、徐々に脳が覚醒していく――ここは一体どこなんだ?
まるで、俺が知っている世界とは別の場所に来てしまったかのような――そんな悪い予感が、さらに背中を冷たくさせた。
体を起こしながら、改めて周囲を見回す。
草木が生い茂り、視界の先には樹木が立ち並ぶばかりで車の音も、街明かりも、聞こえないし見えない。
「ちょ待てよ……いや冗談じゃなく!」