8.女脅迫者 乱
浜崎組の社長令嬢、涼香から極秘にフィアンセ日高孝男の行方探しを依頼された翼が、こんどは狙われるという事態に!
上条探偵事務所は、駅前近くの3階建ての雑居ビルの2階、その一番奥にある。ドアの曇りガラスに「上条探偵事務所」と書いたプレートが貼られてあり、その下に「所員不在の場合は中でお待ちください」と印字されたものが貼られている。つまりこの扉の中に営業時間中、ずっと開放している待合室が設けられている。
翼が警察から戻ってくると、その待合室の中に人影が認められた。ふたりの人物が何か話し込んでいる様子だった。
「お待たせしております」
扉をあけながら言うと、
「お客さんだよ」
と明が言った。ランドセルを脇に置いている。
話し相手になっている『お客さん』は、濃い黒のサングラスをかけた痩せた女だった。翼よりも少し年上。髪を茶色に染めている以外、化粧はそれほどしておらず、頬がえぐられたようにこけている。男が着るような黒いウールのブルゾンに、黒いコールテンのスラックスといういでたちだった。両手にぴっちりした黒い皮手袋をはめている。
「あんたも真っ黒の姿だね。違うのは髪の色だけかな」
来客者は、ソファーに腰掛けたまま、にこりともせず、なれなれしい口調で言った。
来客者は立ち上がると明を見おろして言った。
「若くてきれいな伯母様だね。いえ、かわいらしいって言ったほうがいいかな。背は高いけど」
翼は、鍵を鍵穴に差し込みながら、鋭い視線を明に向けた。それを受けて明の顔が俄かに緊張した。
「どうぞ」
翼は扉を押さえながら、『お客さん』を中に招じ入れた。お客さんは、部屋に入ると、ブルゾンのポケットに手を突っ込んだまま、自分の家のように、来客用のソファーに腰を下ろした。
続いて小さな甥が、入ろうとした。が、翼は子猫をつまむように少年の襟首を後ろからつかんだ。
「あんたは、先に帰ってなさい」
少年は不安な目で翼を見上げた。
「ほら」
翼は、動こうとしない少年の小さな背中を押した。
少年は踏ん張って、ソファーに座っている来客者のほうに目をやった。そして、「ごはん炊いとくね」と言うと、もう一度、来客者のほうに目をやってから出て行った。
「かわいい子だね。子役俳優になれそうじゃないか」
「ちょっと、おしゃべりなのが玉にきずなんですけどね」
翼も上着を脱がないまま、相手の前に座った。
「ええ、あの子から聞いたよ。ご両親が離婚して、お母さんは音信不通。お父さんは刑事で殉職したんだってね。それでお父さんの妹である、あんたが引き取った」
「やっぱり、ずいぶんしゃべったんですね。昨日の晩のおかずまでしゃべりませんでした?」
「安心しな。それは言わなかった」
「良かったわ。最近ろくなもの食べてないから」
「あんたも大変だね。まだ独り者なんだろ?」
「もしかして結婚相談所の方?」
「残念だけど、そうじゃない。持ってきたのは縁談でなく警告だよ。上条さん」
「ご親切にありがとうございます。で、どういった種類の?」
「あんた、ハードボイルド小説なんて読む?」
「いいえ」
「それは残念だね。これは、ハードボイルド小説風の警告なんだ。知らないなら私が定石を教えといてあげるよ」
来客者は革手袋の手で、サングラスをはずした。日本人の女性には珍しい無遠慮に人を見る眼があらわれた。お客さんは上着の左内ポケットにサングラスをしまうと、右の内ポケットからピストルを出して、銃口を探偵に向けた。
「探偵が死体を発見して殺人事件にかかわったら、次は、この事件から手を引け、さもなくばって、勧告してくれる親切な人が現れるんだよ」
翼は銃口を見つめながら言った。
「なるほど、結婚相談所から来たのじゃなさそうね」
「お互い人間関係の面倒を解決するのが仕事という意味では、あんたと同業の者さ」
「お近づきの印に、お名前うかがっていいかしら」
「ラン」
「花の蘭?」
「乱暴の乱」
「それじゃ、すぐに素性がわかっちゃうわよ。字変えたら?」
「あんたも親切だね。引く気がないところみると、そんなにギャラがいいのかい?」
「通常料金よ」
「じゃあ、手を引くなら、その分、払ってあげようか? 20万もあれば十分だろ」
「これからも仕事を請けるたびに、手を引けってギャラをくれるなら、喜んで手を引きましょう」
乱は小馬鹿にしたように笑った。
「あんた、度胸もよさそうだけど、もう少し今の状況をちゃんと考えて、行動を決めることだね」
「ハードボイルド小説では、こういうとき、探偵はどう反応するのかな?」
「その前に小説じゃこういうとき、怖いお兄さんの2人組みがやって来るってのが相場なのよ。それを荒立てずに話をまとめたいというわけで、わざわざ優しいお姉さんがいらしゃったわけなんだ。分かる? 今が1番、条件のいいときってわけよ」
「やっぱり結婚相談所からいらしたんでしょ」
「おもしろい子だね。分かった。じゃ、手を引かないなら、あんたの依頼人の名前を教えな」
「訊いても無駄とは考えなかった?」
「さあ、どうかな」
物が置かれて、テーブルがゆれた。分厚い封筒だった。束になった1万円札が顔を出した。
「30万ある。手を引くか、依頼主の名を答えるか、選びな」
翼は笑みを浮かべた。
「こんなのお持ちになったところを見ると、あなたの依頼人はカタギの方のようね。それで本当の目的は、私に手を引かせるなんじゃなくて、私の依頼人を知るのが目的ですね」
「分かってるんなら、早く言うんだよ!」乱は唐突に声を荒げた。「こんないい条件ないんだから。さもなきゃ、失うのは婚期だけじゃ済まなくなるよ!」
翼はしばらくその札束をじっと見ていたが、やがて札束を相手のほうにすっと押し返した。
「いいでしょ。しゃべりましょ。その代わり、この30万で、あなたの依頼人の名前も教えてくれる?」
乱は答えなかった。2人は目をかみ合わせていた。
やがて、「そう」と言うと、親切な警告者は翼をにらんだまま、札束をブルゾンの内ポケットに戻し、立ち上がった。
「あんた、つっぱってチャンス逃がすタイプだね。子供のときからそうだろ?」
「独り身の理由、わかっていただけたようね」
2人は出口に向かっていた。
扉の前で乱が立ち止まり、翼の顔を見た。
「覚えときな。今度こそ、正真正銘の怖いお兄さんが来るんだよ」
「ハンサムな人、お願いね」
「ああ、顔に傷のあるハンサムをね」
「男じゃデレっとして役に立たないから、あなたが来たのだと思ったけど?」
「いろいろと大した自信だね。見上げたもんだよ、あんた」
乱は苦笑しながら扉のレバーハンドルをつかんだ。
乱は再びサングラスをかけると、両手をポケットにつっこんだが、扉をあけたところで立ち止まると、最後にこう言った。
「せいぜい気をつけるんだね。美人探偵さん。これはさっきの男の子にあげて」
乱は、ピストルを、翼の胸に押しつけた。
「どうも」
翼は、来客者が去ってしまうと、もらったモデルガンを指にひっかけて回した
次回、翼の仲間たちが勢ぞろい