6.大会社の社長
浜崎組の社長令嬢、涼香から極秘にフィアンセ日高孝男の行方探しを依頼された翼は、当の孝男の父、日高建設の社長に会いに行く。
翼は、秋吉香織と別れたあと、日高建設の本社に電話をかけた。
「そちらの社長さんの息子さんは今、大変なことに巻き込まれています」と告げると、社長秘書が、電話をかけなおしてきて、日高建設の本社ビルに、アポイントがとれた。
午後4時、翼は、そのビルの13階にあがっていた。
厳めしい雰囲気に包まれた別世界だった。無意味と思われるほど広いホールがあった。突き当たりに、ルイ14世でも出てきそうなロココ調の大きな白い扉があった。
ファッションモデルのようなスーツ姿の若い男がその扉をあけてあらわれた。年齢は30前後。背が高く、帝釈天のようなどんぐり目の、彫りの深い美男子。手入れの行き届いた黒のウイングチップが、足元を引き締めている。
「あなたが上条さん?」男の目には驚きと輝きとがあった。「当社社長秘書の谷本です」
秘書はきびきびした足取りで、廊下をいざなった。
「こんな若い方とは思わなかった」
「わたくしもです」
谷本は、粋な笑みを見せ、翼も笑顔を返したが、谷本はすぐ真面目な顔になると、つきあたりの両開きの扉をノックしていた。
「おう」
中から、横柄な返事がなされた。秘書はドアをあけ、来客の旨を告げた。
「どうぞ」
秘書は巨大な扉を押さえながら、翼を招じ入れた。
翼は、塀の上を歩く猫の足取りで、部屋に入った。
はるか遠くにある大きなデスクも、波打った黒革のソファーセットも、床一面に張られた青い絨毯という海の中に点在する島々のように見える部屋だった。壁には、社訓と思しき『信用こそ財産』などといった揮毫が掛かっている。
入って来た人物が想像していたのと違ったのか、日高義信も一瞬呆けた顔を探偵に向けたが、すぐに秘書に目配せした。秘書は一礼して出て行った。
建設会社の社長と、探偵は、ガラスのテーブルをはさんでソファーに向き合った。
日高義信は、写真で見た息子の孝男をそのまま30歳いかせたといった人物だった。顔は縦に長く、横に広く、奥行きがあって、要するに大きな頭をしていた。薄くなっていない部分の髪がカールして伸びており、器からはみ出たインスタントラーメンのように見えた。
社長は目の前のラウンジテーブルまでが震えるような重低音の声で、倅が大変なことに巻き込まれているとはどういうことかと言った。
「奥井猛という人物をご存じですか」
社長は首を振った。
「息子さんのご親友ですよ」
「いちいち知りませんな。その人物がどうしたというんです」
「自宅で殺されました」
「ほう」
社長はあまり驚かなかった。が、探偵がつづいて、「私が見つけました」というと、驚きを見せた。
「私はある人の依頼で、その奥井という人を調査していたのです」
「誰に頼まれたって?」
「依頼人のことは何も申し上げられないことが、私どもの規則になっているのはご存じかと」
社長はしばらく黙していたが、やがて、処世訓でも思い出したように落ち着いた様子で、ソファーに背を投げるとこういった。
「倅は行方不明になどなってませんよ。5日ほど姿を見せないが、旅行が好きな奴だから、どこかの温泉か、海外にでも行っているのだと思う。前にも何度かあったことだ」
「おひとりでですか?」
「子供でもあるまいし。そのようなえらいことがあったのを教えてくれたことは礼を言うが、今日のところは、お引取り願うほかはないようですな」
日高社長は、両手で両膝を叩いて立ち上がっていた。忙しい時間を割いてもらった礼を言いながら、翼も立ち上がった。
女探偵は社長のおさえている扉の横をすりぬけるようにして出て行った。日高義信はその背中をじっとおそろしい目で睨むと、ドアを強く閉めた。
エレベーター・ホールまで戻ってくると、先ほどの社長秘書がいた。
「うちの社長は気難しいでしょう」
翼と並んで歩きながら、部屋の社長に聞こえそうな大声で秘書は言った。
「いえ、私が出る時、ドアをおさえてくださいました」翼は答えた。「紳士な方だと」
秘書は、エレベータを呼ぶボタンを押すと、来客の女に向き直った。
「ところで、大変なこととは、孝男さんは何に巻き込まれているのですか」
社長秘書がそう訊くのに、探偵は、やってきたエレベータに乗り込みながらこう答えた。
「温泉の湯気に巻き込まれてらっしゃるそうですよ」
「は?」
社長秘書はぽかんと口をあけたが、エレベータの閉まったドアを見やりながら、大きな発見をしたような笑顔で、腕を組んでいた。
次回、翼は岸刑事のところに交換条件の約束を果たしに行くが、岸は翼の素性を調べていた。