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あなたが婚約破棄したいと言ったので私は腹黒宰相様と一緒に叶えてあげました

作者: ルーシャオ

 七つの学校が集まってできた国際学園都市ヘプタコルム。


 そこで()私、メアリ・アスカーシャは馬鹿にされていた。


 朝から廊下を歩けば、意地の悪い上級生たちが私を見て嘲る。


「あらメアリ様、きちんとお祈りはしましたの?」

「今からでも熱心に祈れば、神様のご加護があるかもしれませんよ」


 私は笑い声を背に、無視して走っていく。


 彼女たちは近隣の王国から来た王侯貴族、それもかなり上流階級の出ばかりだ。もちろん私もそうだけど——馬鹿にされるだけの理由があって、それが自分ではどうしようもないから、腹立たしい。


 頭脳や容姿のことではない。それなら私は学年トップの成績だし、遠くステュクス王国の王妃様と同じ金髪碧眼で、顔は残念ながら普通だ。ヘプタコルムでは学生服もみな平等に、学年の別と男女の別以外同じものを着る。


 問題は、私が何の神の加護も持っていない、()()()()()()()()()()()()()()()()だということだ。






 この大陸では、たくさんの王国の王侯貴族たちのほとんどは、神の加護由来の何らかの希少な才能を持っている。それゆえに王や上流階級として権威を持ち、それらを利用して財を為す。たとえば、ティタノニア王国の王侯貴族は巨人神ティタンの加護を得て大柄で丈夫な体を持っていて、戦士としてきわめて優秀だ。癒しの女神パナケイアの加護を得たパナクス王国は、薬学の才能を持つ頭脳明晰な人材が生まれやすい。


 そういう由来があって、国ごとに特徴のある才能を活かした産業や政治外交の手段とさえなるくらい、重要だった。南の覇権国家ステュクス王国も例外ではない、主神ステュクスの加護を受けた王家が世界を動かしていると言っても過言ではない。


 なのに——アスカーシャ王国第四王女の私は、何も持っていない。


 神の加護も、代々受け継がれる巫女としての才能もないため、これはまずい何とかならないかと考えた私の父は、ヘプタコルムの長であるベイリン・ヘイブンズフィールドへ相談した。どうやら彼は七十年前にアスカーシャ王国に生まれたらしく、その縁だ。


 そのしわしわ老人ベイリン、二つ返事で了承した挙句、私を自分の研究室所属にした。


 名義上、私の通う学校は一番学生数の多い『学園』なのだが、ベイリンの研究室はヘプタコルムの中心的存在『寮』だ。王侯貴族の教養習得程度しか機能がない『学園』の学生が、ヘプタコルム最高学府の『寮』に足を踏み入れることなど許されない。抜群に頭のいい学生でも、何年も研鑽を積んで何度も試験をクリアした末にやっと公聴を許される研修生となれるような、本物の天才たちが集って研究に熱中するそこに、いきなり何の加護も才能もない王女様が? 周囲はそういう反応になる。


 私の先生だと主張するベイリンはこう言った。


「メアリ、よーく考えてみろ。あのアスカーシャ王国王族で生来加護も才能もない女は有史以来存在せんのだ! それも王の直系の娘が! これは研究せねばなるまい!」

「嫌ですよそんなの。私、とりあえず神様の加護が欲しいんです。ください」

「そこだ! もし何の加護もない人間に、それらを自由に与えることができるようになれば……加護に身分も社会も縛られたこの世界は、どうなる? 世界が変わるぞ、マジで!」


 何がマジでだ、このしわしわ老人。どうやら勉学ばかりで味わえなかった青春を取り戻すべく、若者言葉を使いたいらしい。


 私は研究対象としてベイリンの手元に置かれることになり、ベイリンの講義を強制的に受講させられ、毎日朝から晩まで勉強だ。その合間に『学園』の授業を受けたり、特別待遇で試験や課題にして免除してもらったり……どうしてこのしわしわ老人、自分がそのせいで青春を味わえなかったのに他人に押し付けるんだろうか。腹が立つなあ、もう!


 そんな環境なものだから、私は加護や才能豊かな名家のご令嬢、ご令息たちとまったく交流がなく、根も葉もない噂ややっかみばかり受ける有様だ。賄賂を払っただの、ベイリンの家族を人質に取っただの、女に免疫がないベイリンを誑し込んだだの、言われ放題だ。


 第一、『寮』の勉強を理解できるまでになれば、『学園』の勉強なんて子供のお遊びだ。それがまた、私を嫌う人々は気に食わないのだろう。


「はあ、正直もう帰り……いや、帰っても馬鹿にされるだけ……どこか遠くに行きたい……」


 もはや十四歳の少女の言うことではない。私はもう、加護や才能を求めるヘプタコルムもアスカーシャ王国も嫌いだ。許されるならもう平民として生きていきたい。なのに、そういう前例を出すと面倒だから、絶対許可されない。


 父は私を見捨てていないし、ベイリンも多分何とかしようとしている。だから逃げ出すこともできなくて、毎日笑われながら、勉強、勉強、勉強——嫌になる。


 そういうわけで、私は今日も『寮』のベイリンの研究室に顔を出す。ヘプタコルムのそれぞれ高塔を持つ七つの学校、その中心にある『寮』に、渡り廊下をいくつも経由して辿り着くと、何だか高塔のふもとに人だかりができていた。


 何だろう、と近寄ると、一番後ろにいた三十歳を余裕で超えた学生たちのグループが私を捕まえた。


「いたぞ! ベイリン教授のところへ連れていけ!」

「メアリ・アスカーシャだ! 早くしろ早く!」

「はーーーー!? 何!? 何!?」


 そんな感じで私はベイリンの研究室へどんぶらこどんぶらこと自動的に運ばれた。




 ベイリンの研究室は、ごく普通の書斎だ。今所属している学生は私だけなので、それだけで完結する。


 私はぶすっと頬を膨らませて、そのまんま運び込まれ、丸テーブルを囲む三つの安楽椅子のうちの一つに座らさせられた。


 私はベイリンを睨みつける。ベイリンは白髪と白髭を大きな三つ編みにして、寝巻きみたいなローブと帽子をふっくらと着込んで、いつもの安楽椅子に深く腰掛けていた。


 そしてもう一つの安楽椅子——そこには、見たこともない怪しい人物が座っていた。


 黒づくめの伊達男だ。紺色の長い髪に黒いターバン、目は猫のような金色だ。年齢はよく分からないが、それほど若くもなく、年を取ってもいない、という感じだ。ベイリンより部屋の主人らしく堂々と佇んでいる。


 その男を前にして、珍しくベイリンははしゃいでいた。


「おお、ニキータ! 久しぶりじゃのう!」

「ええ、ご老体もお変わりなく」

「ご老体呼ばわりはやめよ」

「ではベイリン。頼みがあって来ました」

「お前はそうやってすぐ本題に入る。少しは話を楽しまんか」

「まあ、そもそもこの話自体があなたにとっては愉快かもしれませんのでね」


 その言葉で私は分かった。このニキータという男は間違いなく王侯貴族だ、言い回しで分かる。その舌鋒はこちらを向いていないだけで、ひとたびどこかへ向ければ鋭く相手へ嫌味と威圧を繰り出すだろう。敵に回したくない。


 ニキータはベイリンへ、もったいぶらずに本筋を話す。


「ステュクス王国が神域アルケ・ト・アペイロンにおいて、主神ステュクスの神託が下りました。それは」

「それは?」


 神託を伝えるニキータは笑顔で、両手を開いてこう言った。


「この世界において、神の加護を持つ特権階級をなくしてしまえ、とのことです」


 それを聞いたベイリンは、手を叩いて主神ステュクスへの感謝と喜びを表していた。


「ようやくか! おお、主神ステュクスよ! ようやっと世の不平等を正す気になられましたか!」


 この人たち、何をしているんだろうと思うが、この大陸最大の宗教、主神ステュクスを崇めるオケアニデス教ではたびたび神々の神託が下る。そう、覇権国家ステュクス王国は、主神ステュクスの加護を持つ王家が繁栄を導いてきた。つまりは神様の言うとおりにして偉くなった国と人たちの代表格で、そして——そこになぜか、「神の加護を持つ特権階級をなくしてしまえ」という神託が下った。


 えっ、あなたたち神様が好き勝手加護を与えて作った仕組みでしょ? と思うが、神様というものは勝手である。それはもういいから、と言い出したわけだ。


 正直言って、加護も由来する才能もない私にとっては大して影響はないが、私以外の王侯貴族にとっては大問題だ。神の加護に頼っていた価値観が、世界がひっくり返ることを一番偉い神様が決定してしまったのだから。


「我らが王を最後に、主神ステュクスも加護を与えることは控えるようです。あまりにもこの世は醜くなりすぎた、ゆえに主神ステュクス自ら神の加護というものを消し去る、と。神々の協議はさておき、これより先、人間には加護が与えられることはごく少なくなっていくでしょうな。ああ愉快愉快、そう思いませんか、ベイリン?」

「お前の神嫌いは相変わらずじゃな。まあうん、気持ちは分かる」

「誤解なきよう。私は主神ステュクスの信仰を捨てて、賭博の神ヘルメスを信じるようになっただけです」

「賭けが好きなだけじゃろがい」

「まあまあ。そこで、あなたに相談です。たとえ人間に、神の加護や由来する才能がなくとも、人間の天性の才能や能力を代替するに足るほどに伸ばすことはできるか。それが知りたい、当代における神学の最高権威たるベイリン・ヘイブンズフィールド」


 ニキータは妖しげな金眼でベイリンを見る。


 ベイリンはこともなげに、あっさりとこう答えた。


「可能じゃよ。そこにおるメアリ・アスカーシャが、新時代を拓くじゃろうて。マジでマジで」


 えっ、私? 聞いてないけど?


 私は二人を見回すが、話はさっさと進んで無視された。しかも、ベイリンはつらそうに昔語りを始めた。


「神の加護も与えられず、巫女の才能も受け継げず、しかしメアリは天才じゃ。だが……今の世の中はそれを認めんじゃろう。必ずどこかに神の加護があるのだ、いや血筋に隠された才能があるのだ、そう言って粗探しをし、なければないで化け物のように扱う」

「あなたが半世紀前に受けた扱いと同じく、ですか」

「……あれと同じ目に遭わせたくはない。だからこそどうにか、何か道はないかと探していた」


 ベイリンはそう言うが、私は初耳だ。ベイリンも私と同じ、神の加護のない人間だった——それがヘプタコルムを束ね、『寮』に研究室を置くほどの偉大な学者となった。昔はもっと神の加護ばかり要求されていて、()()()()()()()()()()()は完全に異端扱いだった。ベイリン、苦労したんだ。青春がなくなるくらい。


 しかしだ、私がベイリンと同じというのはまあいい。


 問題はそこではないのだ、()()()()()()()()()()()()()()


「待ってベイリン、私は神の加護を得るためにここに来たのに、どうしてそうしてくれないの? そうする方法はないの? ねえ!」


 何が神託だ、何が異端だ。そんなことより、私は自分もみんなと同じ神の加護や才能が欲しい。そうすれば馬鹿にされない、そうすれば故郷に帰れる。


 なのに、ベイリンは口をつぐみ、あろうことか部外者ニキータが冷ややかに私へこう告げた。


「あるとも。しかし、それを君は受け入れるのかね? 己が必死に磨いた能力を神ごときに横取りされ、今を生きる人としての努力を否定され、すべての尊厳を蔑ろにされる。それを屈辱的だとは思わないのか?」

「なっ……!?」

「まあいい。君が嫌だというのなら、協力してもらわずともいい。ベイリン、他の方法を探しましょう」


 ニキータは完全に私から目を逸らし、ベイリンと話し込む構えを見せた。


 むかつく。なので、私はもう、この話には関わらない。


「誰が、あなたなんかに! 嫌い!」


 私はそれだけ言って、ベイリンの書斎から逃げ出した。




 逃げ出したところで行くあても特になく、私は渡り廊下から学生たちが大手を振って歩く道を眺めていた。図書館や自室に戻ってもいいが、今日は天気がいい。くさくさする気分を追っ払うためにも、外にいたかった。


 だが、いたところで楽しいことはない。学生のみんなが楽しそうにしているところを、指をくわえて見ていることしかできない。


 そんな私にも、一応婚約者というものがいた。マルシュアス王国第二王子のユージン・ファーテイル、彼も王侯貴族の例に漏れず、このヘプタコルムへ学びにやってきている。


 しかし、お察しのとおり、仲はよくない。私の外聞が悪いせいで、ヘプタコルムに来てから一度もまともに顔を合わせたことがない。すれ違っても完全に無視だ。彼には必ず取り巻きがいるため、私が押しかけて話をするということさえできない。


 はあ、何のために婚約しているんだろう。


 そして何より、眼下の大通りを歩く学生たちの中に、ちょうどユージンがいたことが私のみじめさに拍車をかけた。


「ユージン……あ、あれ?」


 私は目を擦り、ユージンと一緒に歩く女性を凝視した。


 彼女は——いや、その後ろにもまだいる、彼女たちはユージンのもとに押しかけ、取り巻きとともにおしゃべりをしながら闊歩していた。


 どう見たって、私とは比べものにならない美男美女たちが勢揃いだ。しかも彼ら、私が喉から手が出るほど欲しい神の加護や才能持ちだ。婚約者の異性交友がどうとか、そんなことはもはやどうでもいい。ずるい、何で私にはそれがないの。


 あろうことか、ユージンの高らかな声は、渡り廊下まで聞こえてきた。


「今度、マルシュアス王国から楽団がやってくるんだが、寄宿舎を貸し切って小さな舞踏会をやろう。みんな、懐かしいだろう?」


 ユージンの提案に、みんなが歓喜の声を上げる。何それいいな、私も行きたい。


 ところがそこに、私の名前が出た。


「でもユージン、あなたの婚約者のメアリは? 呼ばないと不機嫌になったりしない?」


 ユージンはその社交辞令的な心配を一蹴した。


「かまうものか。あれは勉強ばかりでろくに僕のところへ挨拶にも来ない、僕のことが嫌いなんだろうさ。こんな世俗的なことにお呼びしたら、象牙の塔に籠る彼女を煩わせてしまうよ」


 ははは、もっともだ、と笑い声が何度も起きる。


 ダメ押しは、女性陣の私への散々な評価だ。


「あのメアリ・アスカーシャでしょう? 神のご加護も巫女の才能もない……どうしてユージンがそんな娘と婚約だなんて」

「アスカーシャ王国は巫女の予言で儲けているから、そうやって金に任せて何でも好き放題にやるのよ。嫌味ったらしいったらないわ」

「そうそう、ユージンもメアリなんかとは婚約破棄してしまえばいいのに」


 何一つ真実じゃない。私は悪いことなんてしていない、ただ加護や才能がないだけ。


 それはこれほどまでに、王侯貴族の間では重い罪だった。私はユージンのことが嫌いだなんて思ったことはない、歌楽の神マルシュアスの加護を持つ彼の竪琴の演奏を聞いて感動したことだってある。だから近づけなかった、近づきたくても、拒絶されると思って怖かった。


 それが悪かったのだろうか。


 ユージンは軽く、私との婚約破棄の提案に賛同してしまった。


「それはいいな。本国に手紙を書いておこう、彼女は僕のことが嫌いなようだから、これ以上の束縛は可哀想だ、とでもね」


 ユージンの取り巻きたちは、それはいい、そうしろ、と囃し立てた。


 彼らの声は、大通りによく響く。


 渡り廊下にいても、彼らの声はよく聞こえる。


 私は——そうか、嫌われていたんだ。ユージン、ごめんなさい。私に神の加護も巫女の才能もないから、あなたにまで嫌な思いをさせてしまった。


 そう考えた途端、私は渡り廊下にへたり込み、嗚咽を押し殺して泣いていた。






 それから、どのくらい泣いていただろう。そんなに時間は経っていないかもしれない。


 すっかり私の丸まった背中に、声とジャケットが優しく降ってきた。


「メアリ。泣き止みたまえ、まったく」


 私が少し顔を上げると、黒いジャケットの襟が見えた。見覚えのある黒さだ。声にも聞き覚えがある。


 私の背後にいる人物は、静かに憤慨していた。


「ここの人間は薄情にすぎる。泣いている少女を見かけて、誰も手を差し伸べないとは」


 私は振り返り、背後にいる人物を見上げる。


 さっきむかついていた人物が、黒づくめで怪しい男性ニキータが、そこにいた。


 思ったよりもずっと優しげな顔を見て、私は反射的にその名を呼ぶ。


「ニキータ……さん」


 すると、ニキータは微笑んだ。


「ああ、ニキータだ。私の名前はニキータ・ヘルメス、間違いないよ」


 私は、先ほどまでのベイリンの書斎でのやり取りを思い出した。


 ニキータは神の加護がなくなる世界の話をしに来ていた。ベイリンはそれを喜んで、私はそれが理解できなかった。


 私は神の加護が欲しい。そしてちゃんと才能があって、見下されない人生が送りたい。その願いがまるきり否定されたようで、嫌だった。


 だってそうでしょう。幼いころから、姉妹の中で私だけ何の才能も見せなかった。私には神の加護がないのだと申し訳なさそうに神官長が告げたとき、父は落胆の色を隠せなかった。私は予言を下す巫女として、王族としての務めも果たせず、表向きはいないもののように扱われた。それでも隠し通せなくなったからヘプタコルムへ送られ、他の王侯貴族の子女のように遠くの小国からそれなりな婚約者もあてがわれたけど、結果はご覧のとおりだ。


 それなのに——私の願いは間違っているの?


 それがあれば幸せになれたのに。私は幸せになりたかった。お前は神様に見捨てられたのだと言われたくなかった。


 どうしても答えが欲しくて、私はニキータへ問う。


「私、神様の加護が欲しい。そうすれば婚約者(ユージン)にだって嫌われなかった。婚約破棄したいだなんて言われなくて、故郷にも帰れた、なのに……求めちゃダメなの?」


 とめどなく溢れる涙で、私はもうニキータの顔が見えなくなっていた。呻き声のような嗚咽も鼻水も止まらないし、ただただ悲しくてしょうがなかった。


 そんな私の顔に、柔らかいハンカチが添えられた。


 涙を拭いて、口元を抑えられて、そっと動かされた私の手がハンカチを持つ。


 朗々としたニキータの声が、私の耳に届く。


「一つだけいいかね? 君は、君が悪いと本気で思っているのか?」


 私はニキータを見ようとしたが、まだ涙で視界がぼやけて、どんな顔をしているのかさえ分からない。


 ニキータは、泣きっぱなしの私の答えなど待たない。


「いやいや、世間が君を悪いというのなら、と君は言いたいのだろうが、果たしてそれは本当かね? 君は神の加護がないというだけなのに、なぜ彼らは君を排除する。おかしいのはそちらだろう、度し難い敬虔なる神の下僕たちめ」


 ニキータ、何だかとんでもないことを言っている。それを聞いてちょっと私は落ち着いた。というよりも、真顔になった。度し難い敬虔なる神の下僕、そんな批判は滅多に聞かないし、主神ステュクスの加護のもとで繁栄するステュクス王国出身のニキータがそれを言う? とも思った。


 しかし、そうなのだ。みんな、実利が伴うから敬虔に神を信仰している。敬虔という形容詞が正しいのかは議論の余地があるかもしれないが、この大陸では誰もが神という存在を少なからず信じて、王侯貴族は神に選ばれたから加護を持ち才能を得る貴い身分、平民はそうではない下賎な身分、という言説が罷り通っている。


 そんな常識を、ニキータは蹴っ飛ばすように批判した。


「堂々としたまえ、メアリ。君は何も悪くない。この世は加護の有無で正しさが決まるほど単純ではないし、都合よく単純化したい人々に同調などしたくないだろう?」


 きっと、ニキータのその言葉を受け入れられる人は少ないだろう。


 みんな、諦めるのだ。多くの人々がそう言っているから、そうするしかないと。王侯貴族という支配者たちの価値観が正しくて、神の加護のない自分たちはただ頭を下げるしかないのだと。


 それが違うと分かっていても、王族のくせに加護もないような王女が、と言われたくなくて私は黙っていた。加護を得て仲間に入れて欲しいと必死になって願った。


 そうじゃないのだ。世界はそんなに器が小さくないし、私は都合のいい世界を壊されたくない多くの人々に抵抗することが怖かっただけなのだ。


 ただ——だから、どうしろと言うの?


 どうすればいい、私は考えるが、泣いていた頭はなかなか回らない。


 うんうん悩む私へ、ニキータはくすくす笑って、恐ろしい誘惑をしてきた。


「さてメアリ、このままでいいのかね? 君を嫌った婚約者へ仕返しするのなら手を貸そう。ああ、私はそういう愉快なことが大好きでね。婚約破棄? 上等だとも、こちらから三行半(みくだりはん)を突きつけてやりたまえよ。そのくらいできるだろう、賢いメアリ」


 もはやそれは、焚きつけだ。私の心を焚きつけて、愉快なこととやらに駆り立てている。


 悪い大人だ、と思わなくはない。でも、私はその愉快なことを、やってやりたい。


 ——私のことが嫌いなら、嫌いでけっこう。私だって、そんな人は嫌いだ。


 それを言うために、やる。


「やる。やってやる、私は何にも悪くない」


 私は決心した。


 手始めに、ユージンへしっぺ返しを食らわせてやるのだ。





 涙と鼻水を拭いて、顔を洗って、私はニキータとの打ち合わせどおりに計画を実行することにした。


 まずは、ユージンを見つけて、罠に誘い込む。


 次の講義が開始する直前、ユージンが教室に入り、取り巻きがいないところを見計らって、私はユージンの前に姿を見せた。


「ユージン、お願いがあるの」


 私を見るユージンの目は冷たく、とても面倒くさそうだった。私の顔を見たせいで機嫌が悪くなりました、と顔に書いてある。


 それでもユージンは私を無視はできない。一応は婚約者だからだ。冷たい態度は心に来るが、今はそんなことはどうでもいいのだと、私は自分の心を奮い立たせる。


「お前か。何だ?」

「今度、ステュクス王国から来た使者の歓待をベイリン先生に任されたの。そこで、あなたの竪琴を演奏してもらえないかと思って」


 それを聞いたユージンは、鼻を鳴らして断ってきた。


「あいにくと忙しい。他を当たってくれ」


 ——そう言うだろうと思った。


 私はすぐさま条件を提示する。


「この頼みを聞いてくれたら、私とあなたの婚約を破棄してもいいわ」


 ユージンに考える時間は与えない。続けざまに私は話を足していく。


「この婚約が嫌だと聞いたから、私からもお父様に頼んであげる。そうすれば、あなただけが嫌だと主張するより、何とかなるでしょう」


 さらにもう一つ、私はダメ押しとばかりにユージンの——誇らしい音楽の才能とそのプライドを刺激してやる。


「それと、『学園』の大ホールを使っていいとのことだから、お友達や他の演奏者も集めてもらえると助かるわ。一千人は入るし、私では集められないから、あなたの演奏会だと思って」


 これにはユージンも、信じられないとばかりに私の顔を凝視した。


 公的式典によく使われる『学園』の大ホールは、他の国ではなかなかお目にかかれないほどの大人数の観客を収容でき、座席や音響設備だって最新鋭のものばかりだ。音楽家にとってヘプタコルムの『学園』大ホールで演奏をした、というのは一種のステータスにもなるし、それだけの聴衆の前で自分の才能を披露できるとなると腕が鳴るのだろう。


 このチャンスを逃すまい、それにあくまで頼みを聞くのだから、婚約破棄という大きなおまけまでついてくる。


 ユージンはそう考えたに違いない。目の前に浮かべられた餌に食らいつく魚のように、私の頼みをあっさり了承した。


「分かった、そこまで言われたなら、応えないとな。あの大ホールで演奏会ができるなら願ったりだ」

「ありがとう。三日後の正午ね、細かいスケジュールや段取りは大ホールの管理課が担当するわ。それじゃ」


 ——本当にありがとう。承諾が得られたなら、こちらのものだから。


 私はさっさと踵を返し、次の仕事に取りかかった。






「聞いた? 大ホールで演奏会があるんだって。あの竪琴の名手ユージンがメインで、マルシュアス王国の楽団も参加するとか」

「マルシュアス王国の楽団なんて、大陸一じゃない。ここじゃ滅多に聞けないわ、行かなくちゃ」


 そんな話し声を、今日は何度聞いただろう。


 私は『学園』廊下の掲示板に手書きのポスターを貼っていた。演奏会——ステュクス王国からの使者歓待がメインだが、ヘプタコルムの学生たちも参加して演奏を聞くことができる、という()()でできるだけ大勢の観客を集めなければならない。あと二日、私にもできることがあるだろうと思って、こうして文字だけの簡単なイベント用ポスターを作って、各所に宣伝している。


 それにしたって、ユージンの名は売れている。そんなに人気だったんだ、と私は今更ながら感心するし、複雑だ。音楽の神マルシュアスの加護を持つユージン、国が小さかったばかりに加護のない私と婚約させられてかわいそう、その評判もあまり外れてはいないなと私も思ってしまう。


 だが、それはそれ、これはこれだ。やっていいことと悪いことがある。


 私が張り切ってポスターの四隅に画鋲を刺していると、いきなりやってきた女子生徒たちに残りのポスターをひょいと奪い取られた。


 彼女たちと面識はない。私よりも年上で、貴族のご令嬢だろうと雰囲気で分かる。加虐心に溢れた、そのいやらしい笑みさえなければ。


「王女様がそんなことをなさらずとも、他の従者にでもやらせるべきではないのかしら、メアリ様?」


 くすくすと笑い声が私を取り囲む。私はポスターを取り返そうとするが、手を伸ばしてもいまいち身長が届かない。そうこうしているうちに後ろの女子生徒へと手渡され、ポスターは廊下に放り捨てられた。


 床に散乱するポスターを、私は歯を食いしばりながら一枚一枚拾う。邪魔をする女子生徒の足を手で払おうとしても、私を取り囲んで行く手を遮る。


 私は、きっ、と一番近くの女子生徒を見上げて睨んだ。


「何するのよ。忙しいんだけど」

「なら、お友達に協力してもらえばよろしいのではなくて?」

「ちょっと、かわいそうよ。頭のよろしいメアリ様にお友達なんていないのだから」


 お上品な笑い声と、甲高い笑い声が混じる。こんなわけの分からない連中の相手にしている場合ではないのに、と私が心許ない実力行使を視野に入れようとしていた、そのときだった。


 野太い叫び声がやってきた。


「アスカーシャ嬢〜! 拙者たちも手伝いますぞ〜!」


 んん?


 私は女子生徒たちの足の隙間から、野太い声の主を探す。


 頭上から、その野太い声の主を捉えたらしき、明らかな困惑の声が聞こえてきた。


「えっ」

「何あれ」


 さあっと潮が引くように、女子生徒たちは私から離れていった。


 理由? ああ、うん、はい。


 野太い声の主、そしてその仲間二人が——とってもイケてないお顔に、似合わない学生服と白衣を着た三十歳を超えた殿方たちが迫ってきたら、貴族のご令嬢たちはまあ、避けるだろう。


 私は見慣れている人たちだからそんなふうには思わない。


「あ、『寮』の先輩」


 『寮』。その言葉が最後の引き金となったようで、女子生徒たちは顔を引きつらせてすみやかに去っていった。ヘプタコルムの『寮』の学生といえば——触れるな、巻き込まれるな、見るなの三拍子が揃った警告で語られる、学問の道を極めんとする変人たちなのだから。


 一応、彼らはいい人なのである。うん。授業時間が合わないから滅多に会えないけど、私が講義で分からないところがあれば教えてくれるし、『寮』の学生はごく少ないから奇妙な仲間意識があるようだ……とは私も何となく感じていたが、ここに来てくれるとは完全に想定外だ。


 『寮』の先輩三人はポスターを素早くかき集め、パタンパタンと埃をはたいてまとめ、そのまま私に迫ってきくる。


「聞きましたぞ! 演奏会、教授からの頼みだとか! 水くさい、手が必要なら拙者たちに!」

「今ちょうど試験が終わったところなのだ! こういう作業は懐かしい!」

「青春ですなぁ! 我輩たちも青春がしたいですぞ!」


 思い思いに主張が激しい『寮』の先輩三人は、とてもテンションが高かった。


 しかし——手伝ってくれる、というその心意気が、私には嬉しくてたまらない。慣れない雰囲気に戸惑いつつも、私はたどたどしく礼を言う。


「ありがとう、ございます……えっと、演奏会、成功させます」


 うおおお、と三人分の野太い声の雄叫びが廊下に響く。うるさい、とてもうるさい。


 三人はそれぞれ散ってあらゆる方法でポスターを増やしつつヘプタコルム中に貼る、という作戦を立て、散会前に私へこう念押ししてきた。


「ところでところでアスカーシャ嬢、ベイリン教授には拙者たちの名をぜひともお伝え願えれば」

「我輩たちもベイリン教授の講義を受けたいのだ」

「あ、はい、ちゃんと言っておきます」

「ウヒョーーーー! やったーーーー!」


 また叫びながら、『寮』の先輩三人は一目散に走っていく。


 何か、そう——ちゃんと下心があって何よりだった。無償奉仕とか信じられないからね。手伝ってもらう代わりにベイリンへ口添えをする、これは取引だ。


 そんな騒がしい『寮』の先輩たちにポスター貼りは任せ、私は『学園』大ホールの管理課担当者との打ち合わせに向かう。学生だけではなく、『ステュクス王国の使者』をはじめVIPが多く列席するから、開演時間の調整や警備の相談をしておかなくてはならない。


 その途中で、私はニキータとばったり出会った。誰もいないテラスで煙草を一服していたようで、少し煙草くさい。


 私を見つけてか、何だか悪い顔をしているニキータは、嬉しそうにこう言った。


「メアリ、急ぎ使者を送っておいた。近隣の王侯貴族たちも重い腰を上げてやってくるだろう」


 私はすぐにその意味が分かった。そこまでするか、とも思うが、ニキータはそういった嫌がらせが得意な——というよりも『本業』のようで、他にも自主的に色々と手を回してくれている。


「ありがとうございます。証人は多いほうがいいですから」

「そうだろうとも。ベイリンもヘプタコルムのお偉方を引き連れてくるそうだ、これで逃げ場はない。もっとも、獲物はそうは思わず、飛び込んでくるがね」


 はっはっは、とニキータは口の端を上げて、悪い笑みを浮かべていた。先ほどの女子生徒たちの笑みなど比べものにならないほど、堂に入った邪悪さだな、さすが本職、と私は思う。


 何にせよ、仕掛けは順調だ。あと二日、やり遂げてみせる。


 ニキータは去り際に、私の頭をぽんと撫でた。


 するりと頭から、顔、頬へニキータの手が滑り落ちる。その手は私の髪の毛を軽く握ったままで、長い指先で弄んでいた。


 ニキータの爛々とした金色の瞳が私を見つめていた。突然のことで私は、ニキータのまつ毛長いなとか、煙草くさいなとか、色々と思い浮かぶことで頭がいっぱいになる。


 ニキータは、伊達男という表現が本当によく似合う。やんごとない身分だろうに、その姿は熟練の賭博師が身なりを整えました、とばかりだし、黒づくめの服装の中にもセンスが光る。昨日ちらっと見たジャケットの裏生地なんて、全体に銀糸の刺繍が入っていた。あれは高価そうだ。ブーツにしたってズボンにしたって最高級の黒毛羊の皮革だし、一分の隙もなく真っ黒く染めた絹入りのターバンなんて恐ろしい値段だろう。


 それに——ニキータは、私に失望しない。ベイリンと同じ、そしてベイリンよりもずっと私に協力的だ。もちろんその方向性はとんでもないが、そこには彼なりの美学があるようだった。


 だから、ニキータはこんなことを口にしていた。


「君が努力するさまは、誰も否定できぬほど美しいということを忘れてはならないよ」


 ニキータは指先で私の頬を撫でて、髪の毛をはらりと手放す。


 そのまま、ニキータは別の悪巧みのためか、どこかへ去っていった。


 私は立ち止まり、何度もニキータの言葉を頭の中で反芻する。


 私は心のどこかでもう諦めていたのだろう。褒められることも、認められることも、神の加護がない私には無理だと。何をしたって、足掻きにすぎないと。


「……美しい、なんて思ってくれるんだ」


 それはお世辞や社交辞令かもしれない。でも、私は——信じた。







 ヘプタコルム『学園』大ホールでの演奏会は、マルシュアス王国楽団の協力もあって聴衆の拍手が鳴り止まない。ユージンの出番ともなれば、女子生徒たちが食い入るように見つめ、感涙していた——それを見てVIP席の偉い人々は苦笑していた。


 しかし、司会の拍手を誘う定型句まで変えてしまうほど、観客席の人々は感動したようだ。


「素晴らしい演奏でした。皆様、万雷の拍手をありがとうございます」


 名残惜しそうに、拍手はまばらとなっていく。


 司会役の音楽教師が手元のメモを見て、次のプログラムへと移行の準備をする。


 来た。舞台袖でカーテンに隠れて出番を待っていた私は、観客席最前列に堂々と座っている共犯者を見た。


 やっぱり、ニキータはこの場で一番偉そうだ。うん、すごく。態度がすごい。足を組んで背を深く背もたれに預けて優越の笑み、もはやここの主人だろう。


 それを見て私は緊張が解けた。きっとニキータは私が失敗するなんて思っていないだろう。もし失敗してもニキータは保険を用意していそうだが、そんな手間はかけさせない、と私は覚悟を決める。


 司会が私を呼ぶ。


「ここで、ご報告がひとつございます。こちらへ、アスカーシャ嬢」


 しんとホールは静まり返る。学生たちはなぜあの噂のメアリ・アスカーシャが、と言いたいだろうし、ヘプタコルムのお偉方は何か知っているかもしれない。招待された近隣の王侯貴族は、ああ、あのアスカーシャ王国の、見たことはないが、くらいに思うだろう。


 何でもいいのだ。メアリ・アスカーシャは、ステージ上に飛び出る。


 真ん中まで行って、一礼をして、私は久々に声を張る。


「私の()婚約者ユージン・ファーテイルの演奏、素晴らしかったですね。彼とは別の道を歩むことになりますが、どうぞお幸せに」


 言った、言ってやった。


 観客席はざわめく。私を知る人も、知らない人も、『元婚約者』という単語にはそういう習性を持っているかのように聞き耳を立てる。醜聞の気配を察した大人たちは興味津々だし、学生たちはざわめく。舞台袖にいるユージンの顔が見られないのは残念だ、楽団の面々の前でどんな顔色をしているだろうか。


 これだけのお歴々の前で婚約者ではないと言っておけば、もう取り消せない。


 私は、千を超える聴衆へ向けて自己紹介をする。


「私はメアリ・アスカーシャ。アスカーシャ王国第四王女です。このたびステュクス王国より次代の官僚の幹部候補生にとお誘いを受け、ステュクス王国に仕えることとなりました」


 ざわめきが一層深く、広がる。


 面白い、私の一言で人々へ面白いくらいに好奇の感情が波及していく。


「あのステュクス王国の官僚を……それほどまでの才女なのか?」

「しかし王女が? 婚約者、いや元婚約者はどうしている? ははっ、これはいい余興だ」


 そんな声を、私は無視した。


 ここからが重要なのだから。


「私は何の神の加護も由来する才能も持っておりません。しかし、ステュクス王国は私の能力や努力を認めてくださったのです。この世でもっとも聡明なる王と名高いステュクス王国国王アサナシオス陛下へ深く感謝を、そして私のあとに同じような境遇の人々が続くことを祈っております」


 一気に言い切った私は、数瞬ののち、拍手の音を聞いた。


 ニキータだ。ニキータが立ち上がり、ゆっくりと大きな拍手を打っていた。


 そしてニキータは、能ある鷹は爪を隠していた、とばかりに、舞台俳優もかくやとばかりの声を大ホールへと響かせた。


「実にいい話だ。主神ステュクスは、神の加護や才能に驕る人間を好きになろうはずがない。その証拠に神託は下された。これより先の時代、神の加護とそれに由来する才能は失われていくだろう、と!」


 ニキータは観客席へ向き直り、語りかける。ここは彼の独演場なのだ。すべての耳目がニキータに注がれる。


「諸君、メアリを見習いたまえ。優秀ならば出自は問わない。ステュクス王国はヘプタコルムの人材をいつでも受け入れる。ただし、()()()()()()()()、だがね」


 あのステュクス王国が、神の加護も才能もないただの少女を、その実力を認めて官僚に欲した。


 この事実は、この場にいる誰もが認めがたいだろう。なぜ神の加護や才能に裏打ちされた優秀な人材ではなく、そいつ(メアリ)なのか、と。そいつ(メアリ)はそんなにも価値のある人間なのか、と。


 しかし、たとえ常識や意思が拒んでいても、この場にいる人々は知ってしまっただろう。これから何が起きるか、神の加護が重視されなくなる世界になり、本人の能力だけが評価される世界となったとき——彼らは狼狽え、既得権益を守ろうとするだろうが、おそらく無駄な足掻きだろう。それに、ニキータが主神ステュクスを騙ることはあり得ないのだ。


 なぜなら、彼の背負うその役目は、彼の身分は、彼の発言は、この場にいる誰よりも重い。


「申し遅れた。私はステュクス王国国王アサナシオスが一の家臣、ステュクス王家が末席に名を連ねる宰相ニキータ・ヘルメスだ」


 私はちらっと、舞台袖を見た。


 婚約破棄されたユージンの目を剥く表情、楽器を持ったままの楽団員たちが大口を開けて驚く顔。


 観客席には思わず口を押さえる貴族の淑女、戦慄の表情を浮かべる貴族の集団、生徒たちの多くは何が起きたかも分かっていない。


 ニキータの隣の席に座っていたベイリンが、私へ向けてウインクをしていた。してやったりの、イタズラ小僧の顔をしている。


 この演奏会の主役をかっさらったニキータは、思う存分に喧伝する。


「端的に言おう。この大陸の覇権を握るステュクス王国の宰相は、天才メアリ・アスカーシャを部下に引き抜くためにやってきたようなものだとも。ははは、今日はいい日だ! あなたがたのその間抜け面が見たかったのだよ、この私は!」


 何でそう敵役っぽいこと言うのかな、この人。


 私の仕掛けた舞台のはずなのに、ニキータはすっかり衆目を集め切って大変ご満悦のようだった。


 でも、これでよかったのだ。


 ニキータのおかげで、重荷だった何もかもを捨てて、ここから出られるのだから。





 すでに準備は済んでいた。私は演奏会の翌日早朝には、荷物をまとめてベイリンの書斎へ別れの挨拶にやってきた。二年も世話になっていたから、一言くらい言っていこうと思ったのだ。あと、例の『寮』の先輩三人の願いも一応伝えておかないと。


 荷物といっても、大体置いていくから手元のトランク一つだけだ。父が派遣する誰かが、適当に処分してくれるだろう。


「お世話になりました」


 出入り口の扉の前で、私がぺこりと頭を下げると、ベイリンはのろのろとやってきて私の肩を叩いた。


「はあ、また学生が去っていく……若者の気を吸い取ることができんくなる」

「やめてくださいそういうの。まだ生きる気ですか」

「そりゃそうじゃ、あと三十年は生きるぞ」


 そんなやり取りも、これでおしまい。私はもうここへは戻らないだろう。


 だって、ベイリンがこんな種明かしをしてしまったのだ。


「すでにお前がユージン・ファーテイルとの婚約を破棄したことは周知の事実。アスカーシャ王国にも伝わっているし、マルシュアス王国は弁明に追われるじゃろうな。ステュクス王国宰相自ら勧誘に来るほどの逸材を手放したとは! それもアスカーシャとマルシュアスの両国とも! などと言ってな。あのいけ好かんリア充ユージンが婚約者に見捨てられたと噂され打ちのめされるさまだけで飯が美味いわい!」


 ベイリン、この調子である。かなり発言と人格はアレだが、私の味方ではあるようで、ニキータの帰国に同行してすぐにでもステュクス王国へ行け、と助言してくれたのだ。アスカーシャ王国の邪魔が入らないうちに、ユージンによりを戻すよう迫られたりしないように、そういう気遣いだった。


 正直に言って、そのへんの王国の第四王女という身分よりも、かのステュクス王国宰相肝煎りの若い官僚候補、そのほうがはるかに通りがいい。ステュクス王国には貴族がいないから分かりづらいが、ステュクス王国で宰相麾下の官僚を務められるというだけで、その権力や名声はたかが周辺国の王侯貴族では比べものにならない。その才能を認められた——神の加護ではなく、当人の能力が、という正しい認識をされるのだ。こればかりは、神の加護至上主義に毒された王侯貴族たちも認めざるをえない。私を馬鹿にしていた貴族のご令嬢たちがどれほど世間知らずでも、私の出世を認めないことはステュクス王国の権威を認めないことに等しいと知っているだろう。


 つまり、私にとっては自分自身の価値が認められた栄転以外何者でもない。あとは自分がどれほど努力して、出世街道を上り詰めるか。どれだけステュクス王国の役に立てるか。ただそれだけだ。


「しかし、アスカーシャ王国も大わらわよ。王女がステュクス王国の官僚になる、などという巫女の予言はなかったじゃろうし」

「それこそ、主神ステュクスの思し召しだって言い張る人々もいそうですけど」

「お前は自分で決めたのじゃろう? 神に人の意思まで曲げられるものか。お前の父も表向きは怒るだろうが、内心は喜んでおるだろうから安心しておけ」


 ベイリンはそう言って、私の背を押した。


 これでいい、行け。そう言ってくれるのは、ベイリンだけだ。


「あ、そうだ、私に協力してくれた『寮』の先輩たちに講義してあげてください」

「分かったから早く行け! 調べとく!」


 私は涙声の恩師と別れ、トランクを持ってヘプタコルムの外門へと向かった。




 国際学園都市ヘプタコルムと外の世界を分ける外門は、朝日を迎え入れるかのように開いていた。学問の神々が居並ぶ大理石の巨大な門の下には、黒い六頭立ての馬車が停まっている。


 その馬車の前に、ニキータはいた。私を見つけると、煙草を従者の持っていた灰皿に押し付け、白い煙を吐き切ってから私に手を振った。


 どうやら、待たせてしまったようだ。私は急いでニキータのそばに駆け寄る。


「ニキータ……様、お待たせしました」


 私は急遽、ニキータを「さん」付けから「様」付けにしておいた。上司となるステュクス王国宰相閣下相手に、「さん」付けは気安すぎるだろうと配慮してのことだ。


 ニキータは——なぜか——笑いが堪えられないのか、口の端を上げて私を手招きする。


「ふふっ、おいで。馬車で話そう」

「はい」


 多分、ニキータはかしこまった私がおかしいんだな、と私は見抜いた。でもしょうがない、私は間違っていない。


 私とニキータは広々とした馬車に乗り込み、前後に分かれた横長のソファにそれぞれ座る。トランクを置いてもなお広く、ニキータなど靴を脱いで円筒形クッションを背もたれに、ソファの上にだらけていた。それでも絵になるのだから、伊達男の貫禄とはすごい。


 やがて、馬車は走り出す。国際学園都市ヘプタコルムから離れ、南のステュクス王国へ。大陸一の広大な版図のステュクス王国に入れば、もう誰も私の邪魔はできない。そもそも宰相閣下と同行している時点で、誰も手出しはできないが。


 ニキータはおもむろに、話しはじめる。


「まず、君は私直属の部下だ。将来のステュクス王国を担う人材になるべく、しっかり働いてもらうよ、メアリ」

「はい」

「それから、君に神の加護や由来する才能がないことは、ステュクス王国では一切問題にならない。知っているだろうが、ステュクス王国に貴族はいない、王家が主神ステュクスの加護を得ているのみだ。その代わり、背負う重責は彼らを短命にするほどだがね」


 ゴクリ、と私は固唾を飲み込む。主神ステュクスの加護は寿命が縮むほど厳しいものなのか、初耳だ。もっとも、それくらいの能力を与えられなければ、何百年もステュクス王国を維持拡大していくことはできないだろうが——それも、いずれは変わるのだろう。肝心の主神ステュクスが変えると神託で言っているのだから。


「もう一つ。私は君のような、努力する人間が好きだ。アサナシオス陛下も、主神ステュクスの加護に驕ることなどなく不断の努力を重ねるお人だ。それだけに、私はきっと君への協力を惜しまない。君が前に進むかぎりその背中を押し、ときに先頭に立って君を守ろう」


 ニキータの口から出た、「守ろう」の言葉だけが妙に色っぽくて、私は度肝を抜かれた。このショック、何なんだろう、そう思っておろおろするほどだ。


 ニキータはさも当然とばかりに、その正体を知っているようだったが。


 ニキータはまた同じような色っぽい口調で、私をからかう。


「顔が赤いぞ、メアリ?」

「顔!? か、からかわないでください! もう!」


 指摘されて初めて私は自分の両頬が燃えるように熱く、頭に血が昇っていることに気付いた。


 楽しそうなニキータは、さらに燃料を投下する。


「ふははは。大丈夫、私が欲しければ努力したまえ」

「欲し……え、欲しい?」


 ニキータは手のひらで顎を突いて、ニヤニヤしている。この大人は私をからかっているのだろうか、それとも——?


 私は少し考えて、確認した。


「その、ニキータ様、ご結婚は?」

「していないよ。せっつかれるときは君を婚約者にしておくからそのつもりで」

「なぜですか!?」

「他にいないだろう? 私に見合うような淑女は、ね?」


 この人、そういうこと言う。


 私はむくれてみたり、恥ずかしくなってみたり、結局意を決して、ニキータが私の前にニンジンのようにぶら下げている『好意』を引っ掴むことにした。


「じゃあ、そんな消極的な理由じゃなくて、ちゃんと振り向かせます!」

「そう、その意気だ。楽しみにしているよ」


 その言葉は嘘ではなくて、ステュクス王国に辿り着いてからというものニキータはことあるごとに、私を婚約者と言い触らすのだが——ニキータはあまりその方面で信用がなくて、結局みんな——国王陛下から将軍、メイドまで——私へこう尋ねてくるのだった。


「メアリ、君がニキータの婚約者って本当か? 騙されていないか? 大丈夫?」


 なので私は、きっぱりと宣言した。


「そうなる予定です! 振り向かせます!」


 これが私なりの初恋で、私は一生懸命努力する。


 好きな人の前では、美しくありたいから。

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[良い点] 元から努力の人だけども、その基本姿勢が前向きの努力になれて、よかったー! [一言] わぁ…世界の神離れが、とうとつー…!神託とかいう理由説明が具体的にできる奴なのに、急ー!
[良い点] 自分の力でつかみとるところ。これから初恋を叶えにいくところ。 神様の自分勝手さがさすがすぎてすきです。めっちゃよかったです!!
[良い点] 神のかごや祝福ではなく自らの努力と実力で栄達を勝取るメアリ嬢、格好良い。 [一言]  神から与えられる祝福や才能や職業を、与えられなかった主人公が、それを否定したり立ち向かう話は良くあるけ…
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