早送り
「キミ、もう少し注意して仕事をしてくれないとね……今週、二度目だよこういう間違いは」
声を荒らげるようなことは無く、いつも穏やかに優しげに……そういう感じで、反対に言うと、ネチネチと。
「ああ、うっとうしい……」
私は上着の右のポケットにソッと手を入れて上司の小言に迷わずボタンを押した。これは「人生早送り機」。手の平にスッポリ収まる程度の大きさで、ボタンが一つ付いているだけのなんとも味気の無いデザインだが、ボタンを押しているその間の人生が普通の人生の10倍速で進んでいく。例え早送りしたとしても、上司の小言を聞いたという記憶はちゃんとある。だが1分が1時間にも感じられるこの瞬間をササッと進めてやり過ごしてしまえるのが、この機器のいいところだ。私は、これを手に入れてからずっと、「煩わしい」「うっとうしい」「腹立たしい」「やるせない」そのほかもろもろの、人生の中で耐え難いことや無闇に忍従を強いられるようなことを早送りして過ごしている。
「どうしてそんなこと言うの?アタシの気持ちを分かってくれないのね……」
彼女が泣き出した。今つき合っているこの彼女は、話している最中に、ちょっとしたことですぐに涙を浮かべ「分かってくれないのね」と言ってくる。私は正直に言うとしたら「ああ、分からないよ。人の気持ちなんて、そうそう全部分かるわけ無いし」と言いたいところだが、取り繕って「気がつかなくて、ゴメンね」なんて優しい演技をして見せる。静かな店の中でこんな風になると、それがまた恥ずかしい。私はこういう状況から早く脱したくて、すぐさま上着のポケットに手を入れると人生早送り機のボタンをチョット押す。彼女の機嫌が直るところまで、ボタンをチョイチョイと押しながら何度か早送りしたが、今日はなかなか終わらない……実時間で結局1時間半分も送ったところで彼女が少し笑顔になった。途中で話が変わって、仕事の愚痴まで聞いてしまった。「やれやれ」だ。
その店を出て夜の街を少し散歩した。彼女はこういう何気ない時間の過ごし方が好きなんだ。こういう時にはどうも「愛する人と二人でいるんだ」という充実感があるらしい。私も、落ち着いているときのこういう彼女が大好きだ。もうしばらくしたら大きな決断をしてもいいと思っている。そう、彼女にプロポーズするつもりだ。彼女の方も、薄々感じ取っているんじゃ無いかと思う。こういう幸福せな時間は、もちろん早送りしない。むしろスロー再生でじっくり味わいたい。
私は彼女を家まで送って行った。彼女の家の建物の影でオヤスミのキスをする。それがいつもの二人だ。いつものことだけど、彼女はいつもキスのあとにはにかんで下を向き、
「おやすみなさい」
そう言って小走りに建物に入っていく。入りがけ、彼女の姿が見えなくなる時、彼女はもう一度私の方を振り返って微笑んで手を振って来る。ここまでが彼女とのデートでのオヤスミの儀式だ。
私は近くの電車の駅まで歩く。タクシーで帰ってもいいが、目の前に「結婚」という目標が出来てから少し節約するようになった。やって置いて損は無い。
駅までの道、ポケットに手を入れて人生早送り機のボタンを押そうかと思ったが、彼女とのキスの余韻があって、それを送ってしまうのが切なくてそのまま歩いた。
私は自然に思い出し、微笑んでいたかも知れない。よく前を見ていなかった。夜道の向こうから黒っぽい服の男がやって来ていたことを。『ドンっ』とまともにぶつかってしまった。ぼんやりして人にぶつかったと思い、反射的に「すいません」と私は言った。すると相手は、
「すいません、くらいじゃ済まされねえな……出すもの出しな」低く凄みのある声で私にそう言った。男の顔は見えなかった。何か覆面をしているようだった。「出すもの」というのはカネのことだ。一瞬でそう思った。こんなところで路上強盗とは。タクシー代を浮かせたのがこんなことに。そう思うと嫌気が差してすぐに財布を出すのを私はためらってしまった。それがいけなかった。強盗はサッと懐から何かを出した。暗がりで一瞬光ったもの……ナイフか。私は慌ててポケットから財布を取り出した。
「サッサとよこしやがれ!」
強盗がそう言って私の手から財布をもぎ取ろうとする。私はやめておけばいいのに強盗を撥ね除けようとしてしまった、すると強盗は、「このヤロー」とナイフを突き出して来た。
「アッ!」
私は左に体をひねって右腕を前に出しかわそうとした。が、強盗のナイフは私の右の腹に突き立った。私は衝撃を感じて数歩、よろよろと後退した。その時、私の後ろから人の声がした。通行人だったのだろう。「うわあっ」っと大きな声を上げた。強盗はそれを見て「クソっ」と言って走って逃げ去ってしまった。
私は腹を刺された。だが私の腹を刺したナイフはその切っ先をポケットの中の人生早送り機が受け止めてくれたのだった。
「助かった……」
だがその時、ナイフは人生早送り機のボタンを押しながら破壊してしまった。ボタンが戻らない。早送り機を振っても叩いても早送りが止まらない。人生が瞬く間に過ぎていく。過ぎてゆく。止まらない。彼女へのプロポーズが、新婚生活が、奮起した私の充実した仕事ぶりが、子供の誕生が、家の庭で犬と共に遊ぶ子供の姿が……まさしく走馬灯のように目まぐるしく過ぎ去っていく……そして白い天井が見える、私をのぞき込む数人の人々の顔……わたしは……。
タイトル「早送り」




