才谷さんと会津侯
田中は、上半身をおって礼をとりながら場を譲る。
会津侯は、うしろに五名の藩士を従えている。
いずれも道着に袴姿で、左の掌には木刀を握っている。
その先頭に立っているのは、「鬼の佐川」ことゲロ佐川である。
「兼定は?」
会津侯は、おれたちの足許をみながらそう尋ねる。
「おそれながら、此度は剣術の試合ということで、兼定は屯所において参りました」
局長が答えると、会津侯は一瞬、悲しそうな表情を浮かべる。
すくなくとも、そういうふうに感じられる。
「ああ、そうか。そうであったな・・・」
その一歩うしろの位置で、田中が苦笑している。
「招きなされ、殿。かように気に入って?、おられるのでしたら、正式に招かれよ。それとも、会津藩の家老の一人、おお、一頭か?として、十万石で召抱えられるがよろしかろう?」
田中は、笑いながらそう提案する。
たしか、会津藩の幕末期の石高は二十万を上回っているくらい。冗談にしても、ずいぶんと気前のいい禄高である。
「おお、なれば土佐、そちの領地もつけ加えよう。のう、相馬?兼定とともに、わが藩にどうだ?」
会津侯は、にっこりと笑っておれに打診される。
その爽やかすぎる笑顔に、心があらわれる気がする。
その一方で、これから将来のことが、脳裏をよぎる。
「殿、お戯れを・・・」
田中は、苦笑とともに会話をしめる。
いつもこうして、冗談をいいあっているのであろう。
「おおっ、それにしても、上背のある隊士だな。新選組に、原田より上背のある隊士がいたとは・・・」
会津侯は、おれたちの足許から頭上へと目線を移し、話題をかえる。
もちろん、それは坂本に向けられたものである。
「しばし、手伝ってくれる臨時隊士でございます」
局長がいう。すこし、筋書きがかわっている。
嘘が嫌いな局長らしい。かぎりなく真実にちかいことを伝えることで、妥協したのであろう。
坂本は、会津侯と相対しても、いつものごとく堂々とした態度である。
たとえ帝や将軍であっても、この態度はかわらないのだろう、とさえ思える。
「名は?」
「才谷、でございます」
坂本が、答える。
驚いた。土佐言葉ではない。とはいえ、こんな短いフレーズなら、それをださずにいえるであろう。
才谷が坂本の変名であることは、あまりにも有名である。それを名乗るというのは、坂本と名乗るのとおなじくらい、リスクを伴う。
「よほどの遣い手のようだ・・・。官兵衛、愉しみであろう?」
会津侯は、二枚目の相貌を背後に向ける。
ゲロ佐川が、にんまり笑う。
だが、その視線は、話題の坂本に向けられているのではない。
ほんの刹那、である。視界の隅で、そうとわからないほどの反応を示した者がいる。かすかに目礼したのである。
斎藤である。佐川の視線に、応えたようだ。
この刹那以下のやりとりで、斎藤と佐川は顔見知りであり、やはり、会津の間者だということを確信する。
「では、さっそく上覧させてもらおう。才谷とやら、皆伝の鶺鴒をみせてもらおうか?おお、そういえば、鯨海酔候殿が以前、そちのことを、まるで悪鬼のごとく申されておったが、わたしの瞳にはまったくそのようにはみえぬ」
会津侯は、坂本をまっすぐみ上げ、爽やかな笑みとともにそう告げる。
唖然とする坂本。
会津候は、おれたちなどお構いなしに、身を翻すと試合場のほうへとさっさとあるきはじめる。
会津侯が聡すぎるのか、あるいは、坂本が有名すぎるのか・・・。
おれたちは、慌てて会津侯を追いかける。
会津侯をいつも追いかけているような気がするのは、きっと気のせいなのであろう。