「副長(鬼)の目にも涙」
俊春はおれからはなれると、ちかくにある栃ノ木にちかづきそれをみあげた。
かれの「お父さん犬」も、かれと同様木の上をみあげている。
相棒の尻尾は、これでもかというほど上下左右に振られている。それは、相棒がめっちゃ興奮していることをあらわしている。
「がらにもなく、はずかしがることはありますまい。それに、もったいぶりすぎです。ったくもう、すぐに恰好をつけたがるのですから」
俊春が栃ノ木に文句をいいはじめた。
刹那、背後になにかを感じて……。
「あいかわらず、主計はいじられ上手であるな。そのうえ、みなから愛されすぎている。心から安堵いたした」
「ひいいいいいいいいいいいいいいいっ!」
耳にささやかれたものだから、悲鳴をあげてしまった。もちろん、飛び上がるというアクションまでそえたのはいうまでもない。
し、心臓がとまるかと思った。いやいや。実際、一瞬止まった気がする。
おれの悲鳴に驚き、「豊玉」も「宗匠」も大鳥の馬も驚き、いなないている。もちろん、人間も、何人かは「ひいっ!」とか「うわっ!」とか叫んだようである。が、だれの叫び声だったかはわからない。
ってか、おれの叫び声のほうがすごすぎて、よくきこえなかった。
驚きすぎてなかなか立ち直れず、前傾姿勢で荒い息をついてしまっている。
いったい、いまの叫び声は何デシベルになっただろう。自分でも声が裏返っていたのがわかった。かなりの高音域にたっしたであろう。ソプラノのオペラ歌手っぽくなっていたかもしれない。
またしても、副長に「いいかげんにしやがれっ!」って雷を落とされる。
なにゆえ悲鳴をあげてしまったのかなんてことは、すっかりふっ飛んでしまっている。
そんなことより、いまから落ちる雷にしか意識が向いていない。
よくよくかんがえてみれば、おれってばどれだけ副長のパワハラ、もとい副長のご機嫌を損ねることを怖れているんだ?そんなことをかんがえると、つくづく悲しくなってしまう。
が、いつまで経っても、副長の雷が落ちてこない。しかも、いまは馬たちすら騒いでおらず、周囲は宇宙空間に放りだされたかのように無音である。
やっとこさ、心臓も気分も落ち着いてきた。そこでおそるおそる姿勢を正し、周囲をみてみることにした。
全員、おれをみつめている。その視線はマジで、熱いというか必死というか、兎に角、なにか尋常でないものを感じる。
そのいくつもの視線のどこにも、さきほどのおれのおこないを非難したり怒ったりしている要素は含まれていない。
訝しく思っているうちに、副長がちかづいてきた。その副長ごしに、俊春がこの場にあらわれたときとおなじように、地に片膝ついているのがみえる。
相棒は、その俊春の横でお座りをしている。あいかわらず尻尾を盛大に振り振り、人間同様に熱くて必死さがうかがえる視線をこちらへ向けている。
その二人にみとれている間に、副長が懐に入りこんでいた。小刀どころか、果物ナイフでも充分おれを刺し殺せそうな位置にいる。
それを脳裏に描いてゾッとした瞬間、イケメンにある形のいい唇が動いた。
「主計、そこをどきやがれ」
発せられた一言は、とっさには理解できなかった。
「ったく、邪魔なんだよ」
つづけられた一言も、やはり理解できない。
「はい?」
理解できないから、口からでてきたのはそんな間抜けな一言である。
「頼むから、そこをどいてくれ」
驚いてしまった。いまのも、さっきと同様心臓が止まりそうになった。
副長がこのおれに、声を震わせ双眸に涙をため、ものを頼んできたではないか。
もしかして、「鬼の目にも涙」ってやつなのか?
もっとも、副長は意外とよく泣く。「鬼の副長」として、強気で態度デカッではあるが、それは演じているというかそうみせているとゆうか、兎に角、無理矢理つくっているような気がするときがある。
こうみえて、土方歳三という男は人情味があふれまくり、やさしくて気弱なところがあ……、る……、かもしれない。
あいにく、おれにたいしてはそうではないというだけのことである。
「主計、どけっていってるだろうがっ!」
副長は、おれがあれこれかんがえている間にしびれをきらしたのか、いきなりキレた。おれの相貌に自分のそれをくっつけてきて、怒鳴り散らしてくるではないか。
土方歳三の唾がまともに飛んでくる。
もしも副長がなんらかのウイルスに感染しているのだとしたら、いまので確実にうつされただろう。
土方歳三の唾液によって、おれはなんらかのウイルスに感染したかもしれない。
まぁこれが土方歳三ファンの女性なら、唾液が飛んできてもアリかもしれない。が、おなじファンでもおれは男である。
間接キッスとおなじくらい、あまりうれしくない。
あえて『あまり』をつけたのは、多少なりともうれしい気持ちがあるという意味ではない。
どこのだれともしらぬ野郎にそれをされるよりかは、まだましという意味である。




