「狂い犬」の病
「す、すすすみません。とんでもないことに気がついたのです」
しどろもどろに説明を試みる。
「狂犬病です。そのことをすっかり忘れていました。罹患していたとすれば、うつしてしまいます。そうなれば、人間の間にもあっという間に伝染するかもしれません」
そうなのである。おれの心配の一つなのだ。
狂犬病……。
現代では、予防接種がある。生後九十一日以上の犬の場合、まずは飼いはじめて三十日以内に予防接種を受けさせなければならない。そのあとは、一年に一回、四月から六月までの間に接種を受けさせる。
相棒は、当然こっちに来てから予防接種を受けていない。予防接種やワクチンは、この時代にあるわけはない。が、狂犬病じたいは存在する。犬だけにかぎらない。狂犬病は犬以外の哺乳類でも発症するのだ。
「狂犬?」
副長がつぶやき、全員の視線が「感動の再会」の強烈なスキンシップをしつづけている俊春と相棒に向けられた。
すると、俊春も相棒もはたと動きをとめた。俊春のかっこかわいい相貌に、まずは驚愕が浮かんだ。そして、それがあっという間におどおどした表情になった。
「ぽちは、ぽちは人間にうつすような病にかかっているのか?」
「はい?」
俊春は、こんなときまで想像の斜め上をいきまくっている。またしても、理解不能な問いを投げつけられてしまった。
「しらなかった。気がつかなかった。ぽちは、みなに病をうつしてしまったかもしれぬのだな?」
「はああああ?ちょっ、なにをいってるんです、ぽち?なにもあなたが病なんていってませんよ」
「おぬし、やはりぽちをいじめているのであろう。はっきりと申したではないか。狂犬病だと」
「ちょっ……」
たしかにいった。そこまできて、やっとこのおかしなコントのネタに気がついてしまった。
「狂い犬」……。
たしかに狂犬だ。
「ぽち、それは誤解です。あなたではない。相棒です。狂犬病、ああ、いい方が悪いですね。「病い犬」とか?「狂い犬」ともいいましたっけ?ああ、だめじゃないか。「狂い犬」なんて、そのまんまだ。兎に角、ぽちのことではありません。相棒のことなんです」
キレそうになってしまった。
「なんてかわいそうなことを。いくらなんでも、兼定が狂った犬にみえるか?」
「主計、勘吾さんの申すとおりだ。申し訳ないが、わたしの瞳には狂っているのはおぬしのようにみえるのだが」
「たしかにな。主計。兼定をぽちにとられてからというもの、やっかんでぽちをいじめたり、兼定に理不尽なことを申したり、武士というよりかは人間として最悪なことばかりしておるではないか」
「はあああああ?」
蟻通につづいて斎藤、さらには副長まで。副長にいたっては、そんなこと思ってたんだって、びっくりというよりかはなんか悲しくなってきた。
「そんなんじゃありません」
きっぱりと否定してみたが、みんなのじとーっとした視線には、完璧に彼女あるいは妻をほかの男性にとられた気の毒すぎる彼氏、あるいは夫をみるような侮蔑的なものがこもっている。
ダメだ。どれだけ否定しようが断言しようが、よけいに事態や立場を悪くするだけだ。
「降参します。おれが悪うございました」
だから、そうそうにあきらめた。両掌をあげ、降参のポーズをとる。
「ですが、これはマジな話なんです。犬とか猫とか鼠とか、病をもっている動物にかまれたりなめられると、人間にもうつるんです。そうなると、たいてい死んでしまいます。相棒に兆候はまったくありませんが、万が一ということがあります」
とはいえ、大切なことは理解してもらいたい。必死さが伝わったのであろう。副長をはじめ、最後までだまってきいてくれた。
「主計、案ずるな。大丈夫だ」
俊春が立ち上がり、こちらにちかづいてきて掌をさしだしてきた。
「大丈夫?」
その掌を握り、上下にぶんぶん振りながら問う。
「ぽちは、大丈夫」
「いや、だからあなたではありませんってば」
「兼定も大丈夫。病にはかかっておらぬし、かかることはない」
俊春は、ささやき声でそういいきった。
はい?なにを根拠に断言するのか?かれは、おれの説明を理解していないのか?
「わたしのときとはちがい、想定しうる病にたいする備えはできている」
「はああああ?おっしゃる意味がよくわかりません」
またしても、グーグルさんのように応じてしまった。
「それに、掌を握るのはやめてくれぬか。得物をかえしてほしいだけだ」
「あ、すみません」
さしだされた掌が握手の意味ではなかったことはわかった。
が、『病にたいする備え』の意味は、まったくわからない。
が、かれはおれの掌から自分の「村正」をとりあげると、さっさとはなれてしまった。




