とっとと撤退します
「そろそろ退くぞ。大鳥さんっ!」
「承知した。全軍、退くぞ」
副長は、おれの反対側で騎馬を立てている大鳥に声をかけた。
打ち合わせどおり、大鳥は即座に撤退命令をくだす。
命を受けた伝習隊と新撰組は、小隊長が隊列を整え、いそいでひきあげはじめた。
しかし、副長と大鳥、斎藤や蟻通、それからケガの療養から復帰した島田は、まだその場から動こうとしない。
どの双眸も、いまだ敵軍のただなかにいる俊春に釘づけになっている。
そんなおれたちの心配の視線のなか、俊春はおれたちが撤退を開始したのを見届けたのであろう。かれは、頸ねっこをつかんでいる伊地知と板垣を地面におろした。
それを、はっきりとみることができた。
かれの声は、もうさきほどのようには流れてこない。
もともと心やさしいかれのことである。
『恫喝して悪かった。無礼を働いたことを許してほしい』
そんなようなことを伊地知と板垣に告げ、謝罪しているのかもしれない。
俊春は、たとえ敵であろうと敬意や礼儀は忘れはしない。それらをきちんとはらう。
かれは、そういうところはきっちりしているのである。
それにしても、敵はたった一人の恫喝で動きをとめてしまった。
あらためて、「狂い犬」のすごさを思いしらされた感が半端ない。
その俊春が、こちらへもどってきはじめた。
こうしてみていても、七千もの敵軍はその場から一歩も動こうとしない。それこそ、微動だにしないという表現がぴったりなほど、動きをとめている。
かれらは、俊春のちいさな背をただみつめているだけなのであろう。
いや、みつめるしかないのかもしれない。
結局、怪我人こそでたものの、史実どおりの死者はでなかった。
たった一人にしてやられたなどと報告するなんてことは、伊知地も板垣もできないにちがいない。いい恥さらしだし、長州からなにをいわれるかわかったものではない。もちろん、七千人のなかには長州兵もいる。この失態は、いずれはSNS的に拡散される可能性は充分ある。
なにせ、七千人もの混合部隊である。
『拡散させるな。口にチャックをしていろ』
そんなふうに箝口令をしいたところで、土台無理な話なのだ。
そこでふと思った。
伊地知と板垣は、もしかすると虚偽の報告をするのではなかろうか。つまり、『ちょっとだけ敵に打撃をあたえましたよ』と報告しておくのである。盛りすぎてもいけないし、すくなすぎてもいけない。そこは、伊地知と板垣でうまく口裏をあわせるのかもしれない。
そもそも、こちら側が七千人もの敵を相手にして、壊滅状態にならなかったという史実じたいが奇蹟的である。
それが、誠に奇蹟がおこったということだったのかもしれない。
兎に角、今回の「母成峠の戦い」でも、おれたちは大敗した。
時間的には、たった一日である。いや、実際は一日もかからなかった。
おれたちは、またしても逃げだしたってわけである。
敵は、いましばらくは追ってこない。それがわかっていてさえ、どうしても気が急いてしまう。
伝習隊と新撰組の隊士たちは、おれたちのはるかまえを若松城へと向かっている。
安富に中島、尾形に尾関が、隊士たちを率いている。
おっと、安富は隊士たちというよりかは、「梅ちゃん」と「竹殿」の様子をみているにちがいない。
二頭がひく荷馬車を馭しているのは、沢と久吉である。
じつは、副長は沢と久吉に若松城に残るよう何度もいったのである。
二人は、正式な隊士ではない。戦闘要員ではない二人をわざわざ戦場に連れてゆき、危険な目にあわせたくないからである。
しかし、二人にはもともと選択肢はないようだ。
戦闘では役に立たぬがゆえに、小荷駄だけでも任せてほしい。
二人は、そういって譲らなかった。
結局、副長は二人といい合いをした後に折れた。
若松城に残している隊士がおおすぎる。ぶっちゃけ、人手不足なのである。
隊士は戦闘に参加させ、それに集中させたい。
ゆえに、二人がいてくれたほうが、小荷駄だけでなく、雑多なことを任せられる。
ともにいてくれた方が、どれだけ助かることか。
そのかわり、かれらの身の安全はなにがなんでも確保しなければならない。
副長は、隊士よりもはるかに二人に気を遣っている様子である。
おれのまえを、斎藤、島田、蟻通があゆんでいる。
気は急くが、斎藤たちのあゆむ速度にあわせて「宗匠」の手綱を握っている。
本当は「宗匠」からおりて、自分の脚であゆみたい。
「宗匠」も、慣れぬ戦の毎日でずいぶんとつかれているからである。
しかし、俊春がおれをからかったときのことではないが、もしも背後にいる敵が気をかえたり、意識高い系の将兵が抜け駆けをし、副長や大鳥を狙いにくるかもしれない。
そういう連中にとっては、的は一つでもおおいほうがいいであろう。
「的役」のおれとしては、その責を果たさねばならぬ。
ゆえに、「宗匠」には悪いが乗ったままでいるのである。
戦線を離脱してから、十五分かニ十分くらいは経ったであろうか。マイ懐中時計をみる余裕すらない。
そのくらいは経っているような感覚はあるが、もしかするともっと経っているのかもしれないし、さほど経っていないのかもしれない。
どうやら、戦場では時間の感覚までおかしくなってしまうらしい。




