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もう間もなく死ぬ予定の隊士たち

 結局、副長と義観の会見は実りのないものであったらしい。


 副長が、そうおしえてくれた。


「義観とやらは、江戸で彰義隊が敗れて壊滅したってことしか語らなかった。主計、そんなことはおまえからきいてとっくの昔にしっているというのにな」


 副長の苦笑まじり説明で、実りのない会見だったということがよーくわかった。


 じつは、俊春が手配をしていたのは、義観との会見ではなく会津侯との密会であったらしい。しかし、タイミングが悪かったようだ。会津侯の方で、危急の事案が発生したのである。ゆえに、直前にキャンセルされたのである。そのかわりといってはなんだが、江戸の話をきくのもいいのでは?ということになり、急遽義観との会見の手配をしたわけである。


 義観との会見が有意義でなかったことは残念ではあるが、いずれにせよ、新撰組おれたちには若松城による誠の理由があった。


 みのりのない会見などより、よほど大事で不可欠だったのである。


 いよいよ母成峠に出陣する。

 

 それに先だって、副長や斎藤や俊春たちにそれについての重要なことを伝えた。

 

 この戦も敗れる。これまでとちがうのは、戦死者が数名でることになっているということである。


 若松城によらねばならなかったのは、これに対応するためだったのだ。


 加藤定吉かとうさだきち漢一郎あやいちろう木下巌きのしたいわお小堀誠一郎こぼりせいいちろう鈴木練三郎すずきれんざぶろう千田兵衛せんだひょうえ


 おれが覚えているかぎり、かれらが戦死すると伝えられている。


 当然のことながら、死ぬかもしれないとわかっていて連れてゆけるわけがない。伊藤や菊池同様、必然的に若松城に残すことになった。


 正直、六名の減員はきつい。が、そうもいってはいられない。


 その六人を若松城に残し、おれたちはあらためて母成峠へと出陣した。


 あれ以降、伝習隊、というよりかは大鳥は、ずっとくっついている。新撰組おれたちにというよりかは、副長にである。


 かれは、副長のことがよっぽど好きなのであろう。


 そんな大鳥隊長の部下たちは、意外にも新撰組おれたちにたいしてイヤな態度はとってこない。あからさまにこちらがムッとしてしまう態度をとる者がまったくいないわけではないが、おおむね好意的である。

 その伝習隊と新撰組おれたち、それから会津遊撃隊は、そこそこ密に連携をとりながら出陣し、敗れて逃げるというのを繰り返している。


 怪我や病で戦線を離脱せざるをえない者もいるにはいるが、それも生命いのちには別状のない程度である。

 

 ほかの諸隊にくらべると被害もすくなく、運がいいのかもしれない。



 母成峠は、現代では福島県郡山市と猪苗代町の間にある峠である。たしか、標高は千メートルに満たない程度であると記憶している。


 この母成峠には防塁がある。慶長五年(1600年)に、上杉景勝うえすぎかげかつ徳川家康とくがわいえやすとの戦いに備え、築いたものである。


 もっとも、母成峠が有名になったのは、いまからおこなわれる「母成峠の戦い」によるものである。

 

 旧幕府軍と会津藩vs.新政府軍との間でおこなわれる戦い、というわけだ。


 ウィキによると、新政府軍側は、土佐藩の板垣退助いたがきたいすけと薩摩藩の伊地知正治いちじまさはるという二人の参謀が、約七千人の混合部隊を引き連れている。

 対するこちら側は、旧幕府軍と会津藩、仙台藩と二本松藩も加えて約八百名程度である。

 しかも、銃や大砲の精度は格段の差がある。


 もちろん、こちらの精度が悪いことはいうまでもない。


 ぶっちゃけ、最初はなからムチャぶりなわけである。


 ちなみに、俊春の物見でも、敵の総数は七千人ほどとのことである。

 

 ウィキの情報が正しくても、うれしくもなんともないというのが本音である。


 じつは、敵が母成峠を攻撃のルートに選んだのは伊地知だという。板垣は、東にある御霊櫃峠を進軍のルートに選んだらしい。その為、伊地知と意見が分かれ、バチバチッと火花を散らした。長州藩士の百村ももむらが間に入り、結局、母成峠に決したというわけである。


 ちなみに、会津藩は南西にある会津西街道、南東の勢至堂峠、それと中山峠を警戒し、防備を固めている。会津藩は、敵はその三つの峠を進軍してくると予想したのである。


 つまり、見事に裏をかかれたというわけだ。


 ウィキによれば、敵の進軍が母成峠であるということを予想していたのが大鳥らしい。


 実際のところは、おれの知識である。俊春が、それを裏付けてくれたわけだ。


 幕末オタクであったことが、ある意味ラッキーだといえるかもしれない。



 そんなおれのプチ自慢は兎も角、副長が出発するまえ、すべての将兵のまえで告げた。


「ぽちの物見では、母成峠に敵の主力が迫っている。その数七千。指揮官は才知に長け、兵卒の士気は高い。しかもこれまでとはちがい、母成峠あそこを抜かれれば、敵は若松城におしよせることとなる」


 伝習隊、会津遊撃隊、二本松藩、仙台藩、新撰組おれたちは整列をし、副長に注目してきいている。


 副長に告げられるまでもない。


 おれたちの数は、八百と敵にくらべて十分の一程度である。それでも、ここが踏ん張りどころで正念場ってことを、だれもが承知している。どの表情かおもめっちゃマジだし、副長の言葉をききもらしてはならぬとばかりに集中している。


 とくに会津藩の兵卒たちから、切羽詰まった感をひしひしと感じる。


 当然であろう。母成峠で敗れることは、事実上会津藩の壊滅に王手をかけることになるのだから。


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