主計の願望
ひさしぶりにランニングがしたくなった。しかし、この時代、好き好んでランニングをする人はいない。
当然のことではあるが、健康のために運動をしようなんていう習慣がないからである。
駆けまくるといえば、飛脚のような職業をしている者や、逃げるあるいは追いかける者くらいであろうか。
軍服のシャツとズボン姿でランニングなどしていたら、それこそイタイやつ認定されてしまう。
「之定」をつかむと、そっと部屋からでた。
同室の子どもらや野村は、まだ夢のなかである。
廊下で宿から借りている着物から軍服に着替え、一階に降りてみた。
宿のスタッフは、おれたちの朝食の準備におわれているようだ。
おれたちが出陣するまで、おれたちだけのために食事や洗濯、掃除をしなければならないのである。
そういえば、一泊一人当たりいくらなんだろう?
宿泊費は、会津藩が払ってくれているのであろうか。
藩の緊急事態である。もしかすると、無償ってことも充分あり得る話かもしれない。
だとすれば、ボランティアである。
だったら、めっちゃ申し訳ない。
とはいえ、おれ個人ではなにもお礼ができない。
そんなことをかんがえながら宿の裏庭にまわると、相棒がいない。
どうせ俊春とオールでもしているんだろう。
結局、かれは宿のなかにいなかった。もしかすると、気配を消して屋根裏にでも潜んでいたのかもしれない。しかし、この季節である。屋根裏なんかより、外ですごしたほうがよほどマシなはずである。
そうだ。昨日いった丘にいってみよう。
そこで素振りをするんだ。ほんの千回?うーん、百回?
それは、やりはじめてから決めるとするか。
というわけで、一人で丘に向かってみた。
早朝の町は、やはりだーれもいない。でも、家々から炊飯の煙は立っているし、長屋のまえを通りかかれば、住民が共同の井戸や用水路で身づくろいをしていたり、野菜を洗っていたりする。
戦がちかいとはいえ、日々の生活は送らなければならない。
非戦闘員であるかれらは、いったいどういう気持ちで生活をしているんだろう。
現代にいたときに、どこかの国が日本に向けて核ミサイルを発射すると宣言するとか、軍隊をさし向けるとか、報道や発表があったとしたら、どんな気持ちになっただろう。
正直なところ、現代では他国からの脅威より、地震などの自然への驚異にたいしての関心のほうがはるかに高かった。
ゆえに、自然災害に対しては不安や怖れがあった。
つまり、戦争をしらない世代であるおれは、ここで生活する人たちの心情を理解できるわけがないのである。
そんなことをかんがえつつ、昨日の丘にやってきた。
身軽にのぼってみると、今朝も磐梯山がこれでもかというほどかっこよく身構えている。
「ほう。素振りなどとは、感心なことだな」
「ひいいいいいいっ!」
せっかく会津の魂をみつつ悦にいっているというのに、耳元でささやかれ、驚きの、ってかビビりまくって文字どおり飛び上がってしまった。
こんなことをするのは、俊冬か俊春しかいない。それでいま現在、前者は西のほうにいるはずである。
ということは、後者しかいないわけだ。
「ぽぽぽぽぽぽちっ、いいかげんにしてください」
心臓がまだドキドキしている。
荒い息をつきながら、体ごとかれに向き直った。すると、かっこかわいい相貌が、ムカつくほどきょとんとしている。
当然すぎるが、相棒はかれの左脚許にお座りしていて、こちらをじとーっとにらんでいる。
「いやらしい」
「はあ?」
かれの返しは、あいかわらず想像の斜め上をいきまくっている。
「おぬし、すこしはよまれるばかりではなく、よんでみよ。さすれば、ことあるごとにわたしに不快感を与えることはなくなる」
「はあ?はあ?はあ?もうひとつついでに、はあああああああ?」
あまりにも理不尽すぎる。だから、思わず掌を耳にあて、「よくきこえませんでした」ってジェスチャーをかましてやった。
「ううううううううううっ!」
おっと、まずい。かれのお父さんが怒りはじめた。
「いまのは、ツッコミどころ満載すぎます。ってか、だいたい、そっちがおれを驚かせるからでしょう?それに、あなたをよむなんて芸当ができるんでしたら、おれはいまごろ副長を顎でこきつかっています。そもそもそれ以前に、いやらしいってどういう意味なんですか」
「おぬし、副長を顎でこきつかいたいのか?」
「はい?そこじゃないでしょう」
「おぬしはつねに、副長を蔑み貶め奴婢のごとくあつかいたいという願望を抱いているのか?」
「ちょっ……。だから、そこじゃないっていってるじゃないですか。まえにもいいましたよね?こういうのは比喩表現なんです、ひ・ゆ・ひょ・う・げ・ん。まぁ、そりゃぁ「おいっ土方、三回まわって「ワン」って鳴け」とか、「土方。なってないぞ、この野郎っ」とか、いえたらずいぶんと気持ちがいいだろうなって思いますが……」
「ほう、かような願望を抱いているとは、じつに感心なことだ」
「きゃあああああああああっ!」
耳にささやかれ、またしても飛び上がってしまった。感覚的には、朝焼けに染まる磐梯山よりも高くジャンプしてしまったであろう。
 




