長髪の男
木だ。
まだ餓鬼の頃、一度だけ親父の故郷にいったことがあった。親父は茨城県笠間市の出身で、そのときは親戚かなにかの葬式でいったと思う。そのときはじめて木造の家で寝泊りした。旧家でなにもかも古く、トイレも母屋から離れた竹林のなかにぽつんと建っていたことを覚えている。
そこで朝目覚めたときに思ったのが、天井にある奇妙な染みだった。それは、親父曰く血痕らしい。いや、猟奇的な犯罪とかではなく、まだ幕末の頃、幕府の残党のなんとか隊が新政府軍に追われ、逃げ込んできたという。そこで斬り合いになり、迸った血しぶきが天井に付着したという。その当時、すでに剣道にのめりこんでいたおれは、時代劇と重ね合わせてその斬り合いというものを自分なりに想像したものだ。
そのときみたのと同じ天井だったいや、正確には素材だけが同じだった。
「気がついたかね?」
顔の上に声が落ちてきた。
「ああ、そのままで。気分はどうかね?」
おれは視線を天井から顔のすぐ上へと移した。そこに柔和な顔つきの中年の男がおれを覗き込んでいた。よく陽に焼けていて小さな皺が幾つも刻まれている。
「おれは・・・。おれはいったい・・・」そうか、おれはあの後倒れたのだ。
二度、三度と瞬きを繰り返し、焦点をあらためて男にあわせた。
(・・・!)おれはふたたび瞬きを繰り返した。なんと、男の頭に髷がある。いや、髷を結っているというのが正しい日本語か?
「相棒・・・。そうだ、相棒は?」おれは飛び起きた。そのときはじめて和室に敷かれた布団に寝かされていたことを知った。
「相棒?ああ、あの狼のことかい?」男は小さく笑った。後ろでに掌を伸ばすと障子を開けた。すると庭らしきものが現れた。縁側?だと思うがそこに座っている着物姿の男がいた。その男の頭にも髷があった。
「利三郎、恩人がお目覚めだと副長に伝えて参れ」
「承知。井上先生、この狼、なにも食べませんよ。やはり肉でないと食べぬのでは?」
「そうか・・・。おぬしの狼に利三郎、ああ、この若い者のことだが、食い物をやろうとしているが頑として喰おうとせぬらしい・・・。ああ、無理をするな」
起き上がろうとしたおれの背に男は自分の掌を添えて助けてくれた。
「相棒っ!よかった・・・。無事だったか?」
「おかしなやつ・・・」利三郎と呼ばれた若い男がくすくす笑いだした。おれと同じくらいの年齢だろうか?腰に太刀と脇差を差している。
太刀と脇差、それに着物に髷?
「自身のことより狼のことを案じるとは・・・」利三郎は気の強そうな目つきをしているが笑うと両頬に笑窪ができた。
「狼ではありません。ジャーマン・シェパードというドイツ原産の犬です。おれの与えるものかおれが許可しないと食物はいっさい口にしません」
そう、ときとして警察犬は毒殺の的となる。
「じゃ?なんだって?独逸?独逸の犬?」
「利三郎、さっさと知らせて参れ」中年の男に一喝され、利三郎は両肩を竦めたそれからすぐに走り去った。
相棒は縁側まで近寄ってき、そこでお座りした。めずらしくおれのことを心配してくれていたのだろう、おそらく。
「おれは大丈夫だ、相棒。そこで待て」
「利三郎がぶっかけ飯をやったようだが・・・」中年の男が相棒のほうをちらりとみていった。
ぶっかけ飯?ああ、やっとおれにもわかるものがでてきた。飯に味噌汁をぶっかけたものだろう、おそらく?
「すみません。よしっ相棒っ、行儀よくいただくんだ」
よほど腹を空かせていたのだろう。おれの許可がでた途端、相棒は地面に置かれているであろうぶっかけ飯を一心不乱に喰いはじめた。
「こいつはすごいな・・・」男が感心している横でおれの腹の虫も鳴りだした。そういえば、いつ食事をしただろうか?
「すみません・・・」おれは指先で頭を掻きながら詫びた。顔は真っ赤になっているだろう。
「いや、快復した証拠だ。後で食事を持ってこよう。申し遅れたが、わたしは井上源三郎、新撰組六番組組長を務めている。先ほどの若いのは野村利三郎、新撰組局長と副長の小姓たちのまとめ役をしている」
おれは男の自己紹介を脳に伝達し理解するまでにしばらくかかった。いや、伝達するところまではできたが理解、という点においてはしきれていない。
「ええっ!」おれは力のかぎり叫んでいた。
「源さん、目が覚めたって?」
おれの叫び声にかぶさり縁側から違う男の声がきこえてきた。
利三郎がいる。そして、利三郎が呼んできた男が部屋に入ってきた。
その長髪の男は、雨のなか追い詰められていたあの男だった。