海江田信義
「覚えられんていうよりかは、覚ゆっ気がなかとやろう。おいどんのこっも、二度や三度では覚えてもれもはんじゃした。たぶん、いまでも相貌や名は、覚えちょらんやろう。薩摩にでっけ体躯ん男がおっかな?程度じゃて思う」
「そいつは、ひどいな」
島田のいうとおりである。いくらちがう藩で、本来の意味での味方ではないとはいえ、あまりにも失礼ではなかろうか。
「ああ、おなじ藩ん者でも覚えちょらんとじゃ。へ話が、だれが長州で薩摩で土佐であっかもわからんのやろうね」
さらにひどい。長州の将兵も、ムカつくにちがいない。
「そのことをしっているから、ヨユーぶっこいているんですね、ぽち」
「性質がイタすぎるのにくわえ、相手の名や相貌を覚える気もないのでは、マジで詰んでおるな」
俊春はなにげに現代語で応じ、みじかく笑う。
まさしくそのとおりである。いくら優秀であろうと、あまりにもコミュ障すぎる。
いや、コミュ障ではないな。他者の名や相貌を覚える気がないなんて、周囲からすれば「何様?」って事案であろう。
「それにしても、よくもまぁ軍のなかでやっていけるもんだな」
永倉のいうとおりである。
「宿所も、少数ん護衛だけで一人ちがうところに泊まっちょっようじゃ」
「ますます面白い」
西郷の言葉に、副長が笑う。
いったい、なにが面白いというのだろう。
そんなこんなで、ずいぶんとあるいた。もう間もなく板橋というところで、前方に整然と小隊が行軍しているのにゆきあった。歩兵の腕章をみるに、どうやら薩摩藩の小隊のようである。先頭は、馬に乗っている士官のようだ。
思わず、緊張してしまう。西郷派であろうとなかろうと、やはり敵にちがいはない。
「西郷さぁ、海江田さぁじゃ」
半次郎ちゃんが、それをみて告げた。
「晋介どん、武次どんを連れてきたもんせ。とまってもれもはんか?薩摩藩ん士官ん一人を紹介すっ」
別府は、西郷に命じられてすぐに駆けだした。
ほぼ同時に、俊春と永倉は道の端により、駕籠の担ぎ棒を肩から下ろした。
俊春は兎も角、永倉は手拭いで相貌の汗を拭っている。
ほどなくして、別府とともに士官が駆けてきた。小隊は、そのまま行軍していってしまった。
士官は下馬し、自分の脚で駆けてくる。
海江田信義は、薩摩の重鎮の一人である。西郷派の一人である。
じつは以前、かれが藩主島津久光に西郷の動向を伝えたのが原因で、西郷が遠島になったという経緯がある。
海江田は、この戊辰戦争で活躍する。しかし、「でこぴん野郎」こと大村益次郎と、ことあるごとに衝突してしまう。いわゆる、犬猿の仲というわけである。海江田の大村嫌いは、周知の事実である。そのため、この翌年におこる大村襲撃事件で、海江田がフィクサーともいわれている。海江田自身は、明治期には知事になったり鹿児島に戻ったりフランスやオーストリアに遊学したりと、環境の変化がいちじるしく、そこそこに活躍して明治三十九年に七十五歳で亡くなる。
ちなみに、かれは示現流と薬丸自顕流の達人である。
余談であるが、かれの実弟たちは、かの桜田門外の変に参加している。そして、実姉はかなり直情的な性格であったらしい。
それ以外には、海江田の長女の夫、つまり義理の息子は、連合艦隊司令長官として世界的に有名な東郷平八郎である。
web上でみる海江田の写真は、口髭顎髭バーンって感じの、ずいぶんと立派なご老体である。あいにく、若い時分のかれの写真は、ついぞみたことがない。
駆けつけてきたかれは、おれのしっているかれとはイメージがちがう。
恰幅はいいが、おだやかそうなイケてる男っぽい。イケてるというのは、ルックスがそこそこいい、という意味である。
そうだ。どこかで見たことがあると思ったら、漫画の「静か〇るドン」のサラリーマンをやっているときの主人公に似ている。その主人公の背を、めっちゃ高くした感じであろうか。
「西郷さぁ、会えてよかった」
海江田は、駕籠のなかにいる西郷に声をひそめていう。その声は、意外にもソプラノボイスである。これでいい争いでもすれば、キンキン声で耳が痛くなりそうである。
「武次どん、おいどんもここで会えてよかったて思う」
武次というのは、海江田の通称である。
「あんやっせんぼじゃっどん、いけんかなりもはんか」
海江田は、挨拶もそこそこに性急に要望を叩きつける。
『やっせんぼ』というのは、ダメな奴っていう意味のはず。大村益次郎のことにちがいない。
「やっせんぼん指示すっ配置は、あきらかに薩摩に不利じゃ。被害がおおっでるんな目にみえちょっ。それ以前に、ないごてそこまで追いつめっ必要があっと?」
かれは、駕籠の横で力説しはじめた。
おそらく、上野でたてこもっている彰義隊討伐の配置についてであろう。
「本日ん軍議で、おいどんがそん旨伝えもんそ。じゃっどん、きいてはっれんやろう」
西郷は、相貌のでかさのわりにはこぶりな口からため息をもらす。
かれも、板挟み状態で苦労しまくっているのである。




