どっちのほうがお馬鹿か?
「西郷さん、いつもかような調子なのですか?」
副長は目を細めて半次郎ちゃんと別府のやり取りをみつめていたが、双眸を西郷に向けて尋ねた。
「まったくもっておはずかしいことじゃ。いつもこげん調子じゃ。ちょっとめまでは、つねに一緒で、笑いが絶えもはんじゃした。じゃっどん、いまははなればなれになり、馬鹿なことをしたり笑うたりちゅうのがすっなっなった。こんしたちには、いろいろと苦労をかけちょっ」
西郷はおおきな掌で、なんちゃってスポーツ刈りの頭を、ペチペチ音がするくらいたたいている。
「いや、西郷さん。だれも苦労なんて思っちゃいないさ。あんたの仲間たちは、たとえどこにいようと、いかなる状況であろうと、あんたを慕って集まってくる。あんたには、そういう力があるんだ。いつかまた、昔みたいに馬鹿なことをやったり、笑ったりできるにちがいない」
副長の言葉を、この場にいる全員がしみじみきいている。
残念ながら、副長がいまいったようにはならない。おれは、そのことをしっている。
だからといって、いまの副長の言葉を否定するつもりはない。
しょせん、史実は史実である。それがそのまんま現実になるとはかぎらない。いや、現実というのはおかしいか。『史実どおりになるとはかぎらない』という表現の方が適切か。
局長や井上のことは、残念である。とはいえ、史実が西郷にあてはまるとは、いや、あてはめられるとはいいきれない。
なぜなら、いまここにいる西郷の仲間たちが、後世に伝わることをかえてしまうかもしれないのだから。
「おっと、西郷さん。馬鹿さかげんだったら、新撰組も負けちゃいねぇ。もしかすると、馬鹿なやつの数なら勝ってるかもしれないな」
「ちょっ・・・・・・。なにゆえ、こっちをみるのです?おれじゃないでしょう?おれより、利三郎の方が馬鹿ですよ」
なにゆえか、副長もふくめた新撰組サイドが、こちらに視線を向けている。
「ファック・ユー、主計。馬鹿っていう方が馬鹿なんだぞ」
そして、いっちゃいけないスラングでやり返してくる野村。
「だったら、おまえはやっぱり馬鹿じゃないか」
そして、お馬鹿なおれは、幼稚園児なみのリアクションを示してしまう。
「ほら、西郷先生。このとおりです」
副長の呆れかえったような言葉に、薩摩勢が笑いだした。
「黒田先生、別府先生。蕎麦でございます」
そのタイミングで、俊春が盆を抱えて奥の間から入ってきた。かれはいつの間にか庭から厨へゆき、蕎麦をつくっていたのである。
しかも、黒田用であろう。盆に、焼酎の入った徳利までのせている。
黒田と別府もまた、蕎麦を堪能した。黒田などは、蕎麦を肴に焼酎をがんがん呑んでいた。
盛大にご馳走を堪能した後、浜辺にやってきた。
副長と永倉と相棒と砂浜で並び、うんこ座りをして海を眺めている。
正確には、海に潜っている俊春をまっている。
俊春いわく、『肺活量と全身を鍛えるため』らしい。
それにしても、かれが海に消えてから、ずいぶんと経っている。
海風が肌に心地いい。頭上には、月がでていて星も瞬いている。百五十年後、ここらあたりは埋め立てられてビルが建っている。
たった百五十年さきの話しである。驚き以外のなにものでもない。
くわえて、海に潜るということも驚きである。とてもではないが、現代の東京の海は潜れるものではない。ウエットスーツにボンベを背負い、水中ゴーグルを装着して潜水したとしても、視界はきかないだろう。それ以前に、いろんな意味で、めっちゃ身体に悪そうである。
それにしても、俊春の鍛錬にたいする情熱やひたむきさは、感心をとおりこし、もはや脅威でしかない。かれ自身、なにかに追われるように、あるいは自分自身を追いつめているのであろうか。
俊春にそういうヤバい気があるのかどうかは、正直なところわからない。そうとはちがって、もしかするとやってもやってもまだまだ足りないって気になるのかもしれない。
「まだ剣術をやりはじめた餓鬼の時分は、木刀を振っても振っても物足りなくってな。一晩中、やってたもんだ。で、寺子屋で居眠りをしていた。かようなことも、おおきくなってからそこそこできるようになったら、最初の時分ほどやらなくなった。それでも、できるときにはやってた。とくにあいつらに出会ってからは、やらねばならぬような、かような気にさせられてな。実際、ときをつくっては、ちゃんとやるようにしている」
永倉が沖をみつつ、だれにともなくつぶやいた。
現代にいた時分、おれの感覚では永倉ほどの腕になるとひたむきにコツコツ練習しなくてもできるもんだとかんがえていた。たしかに、どちらかといえば沖田の方が天才的なイメージがあり、後世の創作なんかでもそのように描かれていることがおおい。小説でも漫画でも、沖田はさほど努力しなくても永倉よりずっと強く、永倉はひたすら努力の人で、それでも沖田にはかなわない、というキャラ設定がダントツにおおいのではないだろうか。
が、沖田については、労咳でそういう日々の努力をみる機会は、ほとんどなかった。しかし、かれも努力の人であることにかわりはない。
俊春との対決のまえ、沖田は体力を戻す意味もあったが、すさまじい鍛錬を自分に強いていた。けっして、センスや才能だけの剣士ではないのである。
そして永倉は、創作以上に努力の人である。しかも、隠れて努力をするタイプである。けっして周囲にそうと悟らせず、厳しい道をあゆんで確実にきわめてしまう。それがまた、さもがんばってるぞ感はなく、自然にやっている。
その永倉や沖田の上をいっているのが、双子である。




