薩摩隼人 蕎麦を食す
「はい。ですが、おれはただ突っ立ってみていただけです」
篠原が、心のなかで「こいつ、なんの役にも立ってなかったよな」って思っているといけないので、先手をうっておいた。
「あん夜は、まっこて寒かった。掌はかじかみ、体躯は動かんかった。斬り合いになったや、おいどんなけ死んだかもしれもはん」
篠原は、そうつぶやいた。
いや。かれは薬丸示現流だけでなく、神道無念流、常陸流も学んでいる。剣術だけではない。槍や弓も達者なのである。
薩摩人であるから寒さに弱いということを差し引いても、ただ殺られることはないはずである。相手に一太刀でも二太刀でも、喰らわせるだけの手練はある。
どうやらかれは、謙虚な性質のようだ。
「ホワット・イズ・ザット・ナイト?」
「いいんだよ、利三郎。なんでもない。過去のことだ」
いまさら隠すこともないが、利三郎に説明するのは超面倒くさい。
かれがまたなにかいい返す間もなく、厨に到着したのが幸いだ。
「ぽち、うまそうな蕎麦ですね。運びますよ」
俊春は、茹でた蕎麦を鉢に盛っているところである。
かれは、篠原か有馬が準備していたのであろう前掛けをしている。
そのかれに声をかけた。ってか、かれに声はきこえるわけもないのだが。とはいえ、かれはおれたちの気配に気がつき、こちらへ体ごと向き直った。
「運んでいいですか?」
できあがっているであろう鉢を指さし、口の形をおおきくして尋ねると、かれは無言でうなずいた。
篠原と利三郎と手分けし、お盆にのせる。
「これで人数分だ。兼定には、わたしがもってゆく」
「すみません、ぽち」
篠原はいろいろききたいことがあるだろうが、とりあえずは無言のまま盆の一つを胸元に抱え、厨をでていった。
もちろん、おれたちもそのあとを追う。
「ぽちというのは、かれの二つ名なんです」
きかれるまえに告げておいた。二つ名というのもちょっとちがう気がするが、とりあえずはそうしておく。
「それから、かれは耳の調子がよくないんです」
こちらは告げなくてもいいことである。わざわざ弱点を教えてやることもない。が、結局、告げておいた。
さっきのおれの様子で、篠原は『ん?』って思ったであろう。そして、『もしかして?』って疑念を抱いたかもしれない。もっとも、その疑問を解消すべく、時間をさいてまで調べるようなことはしないであろうし、しったところで弱点をついてくることはしないはず。
万が一にも調べ上げ、俊春の弱点を突いてきたところで、俊春がやられるわけもない。これは、絶対にそうといいきれる。
それ以前に、篠原にしろ半次郎ちゃんにしろ、いかに敵であろうと弱点を突いてくるような性質とは思えない。さらには、西郷もそういうことは望まないだろう。
とはいえ、かれらは西郷のためなら手段をいとわないはず。それこそ、汚い策を弄し、それを実行に移すことに躊躇はしない。万が一にも俊春の弱点をついてきたところで、俊春はぜったいに屈しないし、ましてや殺られることはない。
なにせかれは、日本一、いや、世界一の戦士なのだから。
いやいや。俊春にとっては、耳が聴こえぬのは弱点というほどのものではない。ささやかな障害である。傲慢な表現をすれば、敵にハンデをつけているようなものである。
結局、篠原はおれの告白にたいして「そうやったか」とつぶやくようにいっただけで、それ以上なんのリアクションもなかった。
みんなで蕎麦をいただいた。
おれたちはもちろんのこと、薩摩勢はうますぎて声もでぬようだ。
有馬が、西郷や仲間たちに蕎麦を食べさせたがったのはよく理解できる。それにしても、そのためにちゃんと準備していたというところがウケる。
もしかすると、招待された理由の一つがこれだったのかもしれない。なーんて邪推してしまう。
そんなことをかんがえていると、蕎麦をつくりおえて庭に控えている俊春と、蕎麦を喰いおえたお犬様が裏門のほうをみていることに気がついた。
「どなたかが、まいられたようでございます」
俊春が告げてからしばらくすると、向こうの方に黒い影が浮かび上がった。二つである。その影は、迷うことなくこちらへと向かってくる。
「ようやっきたようじゃ」
有馬がだれにともなくつぶやいたのと、「半次郎ちゃん」と若々しい声が響いたのが同時であった。
「半次郎ちゃん、半次郎ちゃん」
そして、灯のなかにあらわれたのは、半次郎ちゃんの年齢のはなれた従弟の別府晋介である。
「じゃっで、そんたやめ。頼んで、そんたやめたもんせ」
半次郎ちゃんは、真っ赤になって気色ばんでいる。
その様子がだいぶんとかわいい。それから、どれだけ叱られてもめげずに「半次郎ちゃん」と呼びつづける別府も、かなりかわいい。
室内にいる当人以外は、みんなうつむいて笑いをこらえている。
「そいに、まずは西郷さぁに挨拶すっもんじゃろうが」
半次郎ちゃんは、真っ赤かになって怒鳴り散らしている。
斎藤といい「人斬り半次郎」といい、後世に伝わるイメージとはずいぶんとかけはなれている。
ってか、半次郎ちゃんは、別府が「半次郎ちゃん」と呼びまくるまではクールであった。
かれのイメージは、別府によって打ち破られたといっても過言ではない。




