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躊躇

「もうやめよ」


 そのとき、局長が凛とした声で制止した。この場面にあって、まったく怖れや不安のかけらもない声である。


 俊冬の体がびくりと動いた。


「もうよいのだ。はやくいたせ」


 局長は厳しい声で命じると、上半身を折り、掘られた穴に頸をさしのべる。


 俊冬は、いまいちど土佐藩の立会人へガンを飛ばすと、命じられたとおりに局長の側へと戻った。

 

 立会人たちは、いったん床几に腰をおろしなおしている。


 何百というが注目するなか、俊冬は腰の「二王清綱」を抜くと、準備してある桶から柄杓で水をすくい、刀身にゆっくりとかける。

 

 それでもまだ、ときを稼いでいるのがわかる。


 驚くべきことに、俊冬の相貌かおに表情がまったくない。まさしく、仮面である。そして、かれが精神こころを無にしようと必死になっているのが、このおれですら感じられる。


 かれは、局長の右横1m強はなれた位置に立った。


「二王清綱」の刀身は、たしか二尺四寸(約73cm)だったかと記憶している。


 局長の横顔がみえる。


「いい遺すことはございませんか」


 たったこの一言をいうためだけにここにいるような、老いた兵士が問う。っていうか、そこにいたことじたい気が付かなかった。

 おそらく、前線では役に立たぬので、後方でいやな役回りをさせられているのであろう。その老いた兵士の全身から、厭世観がにじみでている。


「ございます。どうか生命いのちを・・・・・・」


 局長は、穴の底をみつめたまましずかにきりだす。


「そこにいる三名の生命いのちを、救っていただきたい。これが、わたしの最期の願いでございます」


 そして、いいきった。


 野村が、おれに身をよせてきた。いや、おれが身をよせたのかもしれない。


 わかってはいた。それでも、この期におよんで部下の生命いのちを大切にするとは・・・・・・。自分の生命それより、おれたちの生命それを護ってくれるなんて・・・・・・。


 感動など、できるわけもない。そんなものより、あらためて自分の無力さにうちのめされてしまう。


「笑わせるな・・・・・・」

「承知いたした。約定いたす」


 土佐藩の立会人がいいかけたところにかぶせ、公卿がきっぱりと応じる。

 

 もちろん、土佐藩の立会人は面白くない。長州藩に共感してもらおうと暑苦しい相貌かおを向けるも、長州藩の立会人はそっぽを向いてしまった。


 公卿も長州藩の立会人も、斬首はやりすぎだと思いはじめているのかもしれない。


「かたじけなし。これでもう、思い遺すことはございません」


 おれたちを助ける約定をとりつけ、局長は満足げにつぶやく。


「では、あらためて頼む」


 そして、俊冬をうながす。


 が、俊冬はかたい表情かおのまま返事をしない。いや、きっとできないんだろう。


 かれは、「二王清綱」を八相に構え、一呼吸置いてからゆっくりと両腕を上げる。剣先はまっすぐ天を指し、雲間からこっそり地上をうかがう陽を受け、するどい光を放っている。


 カタカタという音に、荒い息遣いがかぶる。その不協和音は、実際にはそれほどのおおきさではないんだろう。が、耳にいたいほど飛び込んでくる。この静寂のなか、二つの音だけがこの場を支配している。矢来の向こうのうしろのほうにいる見物人たちにまで、流れていってそうな錯覚を抱いてしまう。


 あの俊冬が震えている。恐怖か緊張か、握る「二王清綱」が音を立てている。しかも、さきほどのおれのように、過呼吸じゃないのかっていうほど、呼吸を繰り返している。


 体温の低いかれの相貌かおに浮かんでいるいくつもの汗は、冷や汗なのかもしれない。


 弟同様、日本で並ぶべき者がないと断言できる最強の剣士が、剣を振り上げたまま振り下ろせないでいる。


 ときだけがゆっくり流れてゆく。何百ものが注目するなか、俊冬は刀を振り上げただけで動きを完全に止めてしまった。


 躊躇している。いや、動けないのだ。


 そもそも、かれだってそう簡単にできるわけもない。


 なぜなら、やさしさにかけては弟に負けてやしないから。かれは、仲間や弟を護るため、いつも強くあらねばと頑張りすぎているのだ。


 局長に頭をなでられ、うれしそうに笑っていた。あの光景は、みているこちらまで幸せな気持ちにさせてくれた。


 かれに、できるのだろうか。


 どれだけのときをすごしただろう。

 おれたちにしてみれば、何時間でも何十時間でも何日でも何週間でも何か月間でも、このままの状態でいてほしいって切望してしまう。

 

 どちらかが根負けするまでってことなら、おれたちが勝利するにきまっている。


 だが、唯一KYもいいところの土佐藩の立会人はちがうようだ。


「なにをしておる?はやく刎ね飛ばさぬかっ!百姓の頸などさっさと刎ね飛ばし、犬にでもくれてやればいい。ときがもったいない」


 あいつは、勝のつぎにムカつくやつだ。体が自由だったら、あそこまでダッシュしてぶん殴ってやるのに。


「なんだと?」


 いつの間にか、俊冬は構えをといていた。右の掌に「二王清綱」を握ったまま、またしても体ごと向き直る。

 

 俊冬の冷ややかな表情かおは、怒り狂っている表情それよりもよほど怖ろしい。


 だが、もっと恐怖を味あわせてやれ、って心のなかでけしかけてしまう。


 意地悪?そんなことはない。それだけひどいことを、土佐の立会人はいってのけたのである。


 脳内で八つ裂きにしたくらいでは、気がすまない。

 


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