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辞世の句

『瞼を閉じるな。相貌かおをあげ、をむいてしっかりとみよ。この非道を、獣のなす業を、しっかりとにやきつけ、脳裏に刻め』


 地を這うようなうめき声に、反射的に相貌かおをあげ、瞼をひらいてしまった。

 

 寒気がおさまらず、文字通り身も心も凍りついている。血は流れを停止し、凍ってしまっているのではないのかと錯覚してしまう。


 俊冬が、こちらをみている。視線があうと、かれのおおきな傷のある相貌かおに、なんとも表現のしようのない表情が一瞬浮かび、すぐに消えた。


 右横で、いつの間にか俊春も相貌かおをあげていて、おなじように俊冬をみている。


 俊冬は視線をそらすと、局長の右横に両膝を折り、地に膝頭をつけた。


 局長の相貌かおに、自分のそれをちかづけるためであろう。


「口の形をよんでください」


 ここからだと、局長は背中しかみえないが、こちらを向いている俊冬の相貌かおはまるみえだ。どのようなやり取りをするのか、どうしてもしりたい。


 いや、どうしてもしっておかねばならない。


 俊春に頼もうとしたタイミングで、野村が頼んだ。いつの間にか、元の位置に戻っている。

 おれに、せいいっぱい体をくっつけてきた。


「お願いです」


 野村は、局長と俊冬をだまってみつめている俊春に、再度懇願する。


「おれたちは、あなたたちだけに苦しみをおしつけたくない。だから、お願いです」


 おれも必死である。

 野村と二人で俊春に体ごとよせ、なかば脅すような勢いで懇願する。

 縛られていなかったら、俊春の華奢な肩をがっしりつかみ、ゆさぶりまくっていただろう。

 

 それができないいま、言葉と眼力めぢからで攻めるしかない。


「局長、どうか・・・・・・。弟なれば、ここにいる全員をあっという間に始末することができます。その間に、わたしがお連れします」


 しばしの後に、俊春の口からこぼれた。

 それは、いままさに局長に語りかけている俊冬の言葉である。


『局長、どうか・・・・・・』


 どうか、かんがえなおしてください。


 俊冬は、最後の最後まで、説得を試みている。

 

 それは、おれたち全員の懇願でもある。矢来の向こうにいる副長たちも、警固している兵士に銃で撃たれるのを覚悟で矢来にすがりつつ、願っているだろう。


 そのとき、局長の頭部が左右にゆっくりと動いた。


 まぎれもなく、拒否のジェスチャーだ。


 俊冬の表情かおが、ますますかたくなった。同時に、かれの心の慟哭がおおきくなる。


 が、局長はまだなにかいっているようだ。


「辞世の句のことをおっしゃっているようだ」


 俊春は瞼を閉じ、意識を集中している。


 局長のことをよむのは難しい、と俊冬がいっていた。それを、俊春は無理くりによんでくれている。


「俳句にしようかと思ったのだが・・・・・・。わたしのほうがうまいとしったら、歳は傷つくであろう。ゆえに、漢詩にした。すでに、岡田殿に託している」


 こんなときまで、局長はジョークをいっている。俊冬を気遣ってのことにちがいない。


 局長の辞世の句は、七言律詩でつくられている。


『孤軍援絶作囚俘 顧念君恩涙更流

 一片丹衷能殉節 睢陽千古是吾儔』


 訳すと、軍が孤立し、援軍も絶えて囚われの身となってしまった。主が気にかけてくれたことを思い出すと、涙がさらに流れてきてしまう。一面に溢れる忠誠心でもって、節義に殉じる。唐の時代の忠臣 張巡こそが、わたしの同志だ。


 張巡ちょうじゅんとは、安禄山あんろくざんの反乱で大活躍した。唐の時代の武将である。


『靡他今日復何言 取義捨生吾所尊

 快受電光三尺劔 只將一死報君恩』


 敵になびき、もはや言うべきことはない。生きることを捨てて義を取ることこそ、私がもっとも尊ぶところだ。斬首を、快くうけいれようではないか。一死をもって、主の恩に報いるのだ。


 おれは、局長の漢詩をしっかりと覚えている。

 これらは、三鷹市にある龍源寺の局長の墓に刻まれている。


 思わず、口ずさんでいた。野村の耳に入っただろうか。俊春はよんでくれただろうか。


「局長・・・・・・」


 野村は、号泣している。うつむいた相貌かおから、涙がぼたぼたと落ちてゆく。筵があっというまに濡れてシミをつくる。


 もちろん、おれもだ。おもてこそあげているが、頬を伝って落ちてゆく涙の粒が、体を縛る縄を濡らすのが感じられる。


 人間ひとって、こんなに涙がでるものなのか・・・・・・。

 

 女性が失恋したときに大泣きし、さっぱりするときいたことがある。つぎの恋愛に気持ちをきりかえ、つぎのいい彼氏へとステップアップするのだ。


 たしかに、こんなに泣いたら、それはさっぱりするだろう

 

 もちろん、おれはそうじゃない。涙の種類がまったく異なる。


「委細、承知しております」


 俊春が、俊冬の口の形をよむ。

 

 俊冬は、あらかじめ準備されている三方をひきよせた。そこから湯呑みを掌にとり、もう片方の掌を添えて恭しく局長の眼前にかかげる。局長は、それを両掌でうけとり、いっきに呑みほした。そして、それを俊冬へ返す。俊冬は、湯呑み(それ)を恭しく受け取って三方の上に置き、立ち上がって三方それを運んだ。


 すべての動作がゆっくりとおこなわれる。時間稼ぎであることはいうまでもない。


 かれの動きのすべてが堂にいっていて、まるで舞台をみているようである。

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