島田との語らい
「もしかして、相棒のことじゃないんですか?ほら、だれだってしっていましたから。もしくは、相棒を連れたおれのことを」
「言の葉にするにはうまくできぬが、おぬしのことを噂にきいたとか、みかけたとかではない」
「いったい、どういう根拠で・・・・・・」
周囲どころか新撰組全体、それどころか新撰組に関係するすべてをよくみききし、心を配っている島田である。
そのかれの言葉である。あながち思いすごし、とはいいきれないものがある。
「俊冬は、副長にそっくりだ」
島田は、おれがいいかけたことをスルーしてつぶやく。
「副長がもうすこし歳をとっているか俊冬が若ければ、それこそ隠し子といいたくなる」
島田は、燭台に視線を向け、こちらへそれを戻す。
「ええ。それは、おれも感じています。おれだけではありません。永倉先生、原田先生、斎藤先生も同様です」
沈黙が、重くのしかかる。
「いろいろなことが、不可思議でならぬ。正直なところ、主計、おぬしよりもよほど不可思議だ」
「はい?」
「おぬしがずっと将来の時代からやってきたということを、疑っているわけではない。が、あまりにもこの時代にそまりすぎているがゆえに、違和感がないのだ」
「ええ。自分でも驚いています。おれ自身、元いた時代よりもこっちのほうが、よほど性にあっていると断言できますので。まぁもともと副長が好きで・・・・・・。いえ、そういう意味の好きではありません。あくまでも、土方歳三という男の生きざまが・・・・・・」
「わかっている。おおいにわかっているから、つづけてくれ」
いや、島田。ぜったいにわかってないし、すりこまれすぎていてわかろうという気もしないだろう?
「この時代のことをいろいろ調べました。ムダに知識があるわけです」
そういいつつ、人差し指で自分の右のこめかみのあたりをポンポンとたたく。
「ゆえにこっちにきて、むしろなんか懐かしいって気がして・・・・・・。で、おれは違和感がないのに、かれらにはあるっていうんですか?」
「あるのかないのか、どちらかを選べばといわれれば、ない、だ。が、なにかがひっかかる。これもまた、なにがと問われれば、答えようもないのだが」
「なんとなく、わかるような気がします。島田先生。かれらの違和感のことは、この際あとまわしにしましょう。じつは医学所で夜になるのをまっていたとき、俊冬殿と話をしたんです。そのときも、かれはめっちゃ様子がおかしくって・・・・・・」
自分から尋ねておいて、話題をかえるイヤなやつである。
が、どうしても話しておきたいのである。
いまの副長に、医学所での俊冬との会話の内容は伝えられない。よりいっそうショックを受けるだろうから。
だとすれば、島田にしか話せない。
ゆえに、そのときのことを思いだしつつ伝える。
「俊冬殿は、『副長や主計を落胆させることになる。絶望させることになる』といわれました。『副長と主計は、わたしを恨み、軽蔑することになるだろう』とも。とてもではないですが、こんなことをさきほど副長に伝える気にはなれませんでした。おそらくですが、これがきっと、暇乞いの理由につながるんですよ」
「いったい、なにがあるというのだ・・・」
それから、島田と二人であれこれ推測してみたものの、ベタなものばかりで、結局これという案がでないまま、そろって寝落ちしてしまっていた。
朝、島田とそろって起きてゆくと、沢が朝食を準備してくれていた。
潜伏用にと準備していた食材をつかい、深夜、俊冬がでてゆくまえにつくっていったようだ。
おむすびに鯵の干物、具沢山の味噌汁に海苔の佃煮、もちろん、沢庵・・・。
それを、沢があたためたり焼いたりしてくれたのである。
「たまは、おれが命じた任務で戻ってこねぇ」
朝食を噛みしめながら、副長が告げる。みな、さして気にする様子もなく、「食事は、順番につくるか」とか、「いやいや、これだけしかおらぬ。みなで手分けしよう」などと話している。
「主計。喰ったら、出発しろ」
上座から命じた副長は、疲労感が漂っている。いつものごとく、それがイケメンに作用することはけっしてない。
「承知」
おれは、深夜のことなどなにもなかったかのように承諾する。
そして、勝と松本の嘆願書を携え、隠れ家をでた。
相棒は副長の左脚許にお座りし、見送ってくれた。
東山道鎮撫総督軍の本営が、江戸の玄関口である板橋宿に置かれるのは、至極当然であろう。
板橋の刑場は、その本営が置かれている板橋宿の手前、平尾一里塚ちかく、現代ではJR板橋駅の北付近である。
おれは、本営に嘆願書を持参した。
どうせとっ捕まるのである。それも、ソッコー。ゆえに、「之定」とマイ懐中時計は島田に託した。
それは兎も角、東山道鎮撫総督軍の総督は、岩倉具視の次男具定。副総督は、その弟の具径である。
兄は1852年、弟はその翌年の1853年生まれである。つまり、まだ16歳と15歳の子どもが、要職についているのだ。
もちろん、実権は長州や薩摩、土佐が握っている。
二人とも、明治期にアメリカへ留学し、帰国してからそこそこ活躍する。
たしか、弟は病気で三十代後半で死ぬと記憶している。




